楊愔(いん)は宴席で血まみれになるまで殴られた。乾明元(五六〇)年二月、新帝即位一か月後のことであった。十人がかりで拘束され、太皇太后、皇太后、皇帝の前に引き出された。薄れゆく意識の中で、彼は自分のこれまでを思い出していた。(「彼は自分の~ていた」は葱の創作。その他、注のないところはすべて『北斉書』巻三四、楊愔に基づく。)
漢人名族の楊氏は、五胡十六国、北魏、北斉にかけての混乱の時代を生き抜いてきた。魏蜀呉の分裂を統一してすぐに、西晋は遊牧民の匈奴により滅んだ。そして、鮮卑や匈奴などの遊牧民が各地に国を建てる五胡十六国時代が始まった。楊氏も鮮卑族の後燕に仕えていた。鮮卑族の北魏が各国を征服して、分裂時代は終わった。楊氏は、北魏で高官を多数輩出した(この段落の以上は『魏書』、以下『魏』と略、巻五八、楊播)。永平四年(五一一)年、楊津の子として、楊愔は生まれた。
彼は北魏末期の混乱の中に育った。正光三(五二二)年に破六韓抜陵が反乱してから(『資治通鑑』巻一四九、普通四年。『魏』巻九、粛宗紀は五年)、辺境の鎮(防衛拠点)で反乱が続いた。六鎮の乱である。その混乱の中、父が州長官になり、楊愔も任地についていった。孝昌元(五二五)年八月、杜洛周が反乱した(『魏』巻九、粛宗紀)。楊津は州城に立てこもって必死に戦ったが、味方の裏切りで反乱軍に敗れた(『魏』巻五八、楊播附楊津)。杜洛周が葛栄に倒されると、葛栄がやってきた。葛栄は自分の政権に仕えるよう楊愔に勧めたが、楊愔はわざと満座で牛の血を吐いて病気のふりをして拒否した。葛栄の軍には、のちに楊愔の主人となる高歓、高歓の永遠のライバル宇文泰、すなわち北斉、北周の創始者もいたが(『北斉書』巻一、神武紀、『周書』巻一、太祖紀)、楊愔は知る由もなかった。
永安元(五二八)年、一八歳の楊愔は都に帰った。北魏は尒朱栄に支配されていた。尒朱栄はもともと北方で大量の家畜を所有する大豪族だったが、北魏の明帝が謎の死を遂げ、尒朱栄は荘帝を奉じて入京した。そして、武泰元(五二八)年、四月一三日、尒朱栄は皇太后、皇族、文武百官を集めて、明帝の暗殺を見て見ぬふりしたことを責め、彼ら千三百人あまりを皆殺しにした。その後、尒朱栄は并州の晋陽に駐屯し、都ににらみをきかせた。荘帝は尒朱栄に文武の最高位を与え、彼に反乱軍の鎮圧を任せることしかできなかった(以上は『魏』巻七四、尒朱栄)。葛栄平定を祝して永安に改元されたが、安定は続かなかった。翌年五月には、北魏皇族の元顥が南朝の支援を受けて反乱し、都に入って皇帝になった(『魏』巻十、孝荘紀)。楊愔はいとこの楊侃とともに帝を守って逃げ回った。尒朱栄が元顥を敗走させ、楊愔も何とか都に入れた。楊愔は乱世に嫌気がさして、官爵を辞退して、友人と山にこもった。
荘帝がついに尒朱栄を殺害した。楊津は尒朱栄の本拠地晋陽の統治を任され、楊愔も晋陽に向かった。しかし、荘帝は尒朱氏の逆襲に遭って殺された(『魏』巻十、孝荘紀)。楊愔は都に帰る途中で捕われ、各地を流転した。彼の家族が尒朱氏に皆殺しにされたとは(『魏』巻五八、楊播附楊津)知らぬまま、豪族の高昴のもとに流れ着いた。
そこへ現れた英雄が高歓である。高歓は尒朱氏に仕えていたが、彼を裏切って高昴らと義兵を挙げていた(『『北斉書』巻一、神武紀、巻二一、高乾附高昴)。楊愔は高歓に泣きながら、楊氏が皆殺しの被害に遭ったことを述べ、高歓の部下になった(『資治通鑑』巻一五五、中大通三年も参照)。楊愔は他の幕僚らとともに、高歓が出す檄文や教令を起草した。家族の喪に服して米と塩しか食べないからがりがりにやせていた。だが、尒朱氏との決戦、韓陵の戦いでは先陣を切って尒朱氏と戦った。そして、高歓とともに都に入り、激動の時代を生きることとなった。
※ 史料は中華書局本。
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