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有末ゆう

クローズド・シャークル


九章 見えざる敵


目指す島が遠くに見えてきた。グレーンたちにとっては二度目となるその島への訪問は、しかし呑気で陽気だった半年前とはまるきり違って、ぴりぴりとした緊張感に満ちていた。

メグ島。アスィラム諸島の中央部に位置し、北はポロニア島、南はフィン島に挟まれた小さな島だ。農業も畜産も島の人口をやっと養えるか養えないかといった具合だが、アスィラム諸島随一の知識人たちの集まる場所である。書物の九割はこの島に集まっていると言われ、鮫式原動機(こうしきげんどうき)の開発も鮫皮(こうひ)工業(こうぎょう)技術(ぎじゅつ)の理論的側面の発展もこの島に負うところが大きい。その島がまさかあんな事件を起こしただなんて――! 

グレーンは潮風の中で小さく身震いをした。薄霧の中でその姿をはっきりと現し始めたメグ島の北岸には、小高い丘に張り付くようにして白色で立方体状の建物が立ち並んでいる。青の海と白の家々、そしてその背後に広がるモス・グリーンの森は鮮やかなコントラストを作り出していた。しかし今のグレーンにはその鮮やかさがどこか空々しく感じられてしまう……。彼女はゆるゆるとかぶりを振って後ろを振り返った。船の通った後には流れ出た鮫の血液が赤い航跡をまっすぐに描き出している。その向こうに広がっているのはきらめく海面、それとそれを覆うように漂う鮫の鰭。

ざぱぁん、と音がして、海に揺蕩う鰭の一つがふるえて沈んだ。海の赤さが一つ増す。数秒後、海面に金色がきらめいた。金糸の織物のようなそれは水しぶきを振りまきながらぷはあ、と声を上げる――美しい髪の毛だ。

「モルト!」

 船上のグレーンは海面から顔を出したモルトに叫んだ。モルトは額にぺったりと張り付いた髪の毛を左手でかき分けて、船の方にエメラルドグリーンの瞳を向けた。

「あとどのくらい!」

 モルトはグレーンに叫んだ。グレーンは自作の海図に目を落として、島と見比べて、周りの景色を眺めて、「十六キレル、たぶん!」と答えた。

「原動機は!」

「もうすぐかける!」

 グレーンの回答に、モルトは大きく頷いてまた海に潜った。

 マストの根元に巻き付けた鮫皮縄がぎりりと音をたててぴんと伸びる。縄は左舷の甲板の金具に通されて船底まで伸び、船底のフックを経由してモルトの腰に繋がっている。モルトは海中で派手に鮫を殺してまわっているようだ、船は右へ左へ大きく揺れた。

 グレーンは帆を閉じて、両手を軽く広げてバランスを取りながら、しかし早足に甲板後方へと向かった。原動機のボックスが置いてあり、その傍らには拘束された小型の鮫が転がっている。カバー損傷なし、スクリュー障害物なし、鮫よし。グレーンは鮫の口にコード類をぶち込んで準備ボタンを押す。異音なし、異臭なし、鮫も元気。つまみを捻って起動すると鮫がびくんと痙攣し、ボックスは低い音を立てて唸り始めた。

 音に気が付いたのだろう、モルトがまた海面から顔を出して、両手で大きく〇を作った。そしてすぐに頭を沈める。すぐに彼女のいたあたりの海面が赤く染まった。

 全速前進、というのは嘘で、最大出力の三分の一で船を走らせる。そうでなくてはろくに舵がとれたものではないし、なにより、モルトを時速三百キレルの速さで引きまわしてしまっては彼女が腰のあたりでぶつ切りになるのは目に見えていた。はんぶんこされた相方を見るのなんてごめんだ。

 帆で風を捕まえての航法とは比べ物にならないくらいの速さで船は走る。できれば全行程を原動機で走りたいものだけど、そんな事をしていたらすぐに原動機の寿命が来てしまうものだから、帆と併用するのが経済的だった。

島は大きくなっていく。白い町はぐんぐんと近づいていた――。


船は北の浜辺に上陸させた。前回来た時と同じ場所だ。周りにはヤシや棕櫚の木々が繁り、白い砂浜には小さなカニがよたよたと歩いている。しかしグレーンもモルトもそんな長閑な風景に見惚れることなどなく、荷物をまとめて町へと向かった。表向きはあくまでただの船乗り学者と護衛の鮫狩。だけどグレーンの胸の奥には怒りの感情が満ち満ちていた。

「グレーン」

 肩を怒らせて前を進んでいくグレーンに、モルトはいたって冷静な声をかけた。

「まだそうと決まったわけじゃないから、落ち着いて」

 グレーンは神妙そうな顔で振り返って、ゆっくりと頷いた。そうだ、まだこの島があの子に悲劇をもたらしたと確定したわけでは無いのだ――ただ、グレーンの中では、いや、モルトの中でもその仮説は既に確信めいた香りを発していた。

「わかっている、確かな証拠を見つけるまでは、まだ」

 向かうべき場所は明らかだった。頭でっかちで研究バカなこの島の人たちの事だ、アレがもしもあるとすれば、それは島中央部、丘の上の中央研究所をおいて他にはないはずだった。

 木々の生い茂る森を歩く。しかし不意に、前方の視界を遮る枝葉の壁が消えた。目の前は低い崖で、その下には白い家々の屋根が広がっている。グレーンとモルトは目配せをして、崖に沿って歩き始めた。今回は自分たちの存在を島の人々に知らせるつもりはない。いや、むしろ誰にも知られないままにことを終わらせたい。かつてのこの島の罪の証拠を押さえ、そしてポロニア島のアスィラム諸島連合会議に議題として提出する――あの人倫に悖る行為の事実を!

 丘のふもとまでは難なくたどりついた。研究所までは身を隠せる森のようなものはないが、西側の斜面には道が無くて人気はない。二人はあたりに誰もいないことを確かめたのち、急ぎ足で斜面を登り始めた。

 丘の上の研究所は灰色の直方体の建物で、石造りの壁の表面には鮫皮が貼られている。建物の周りにはフェンスが張り巡らされているが、棘もなければ電気も流れていない。二人はあたりを警戒しながらフェンスをよじ登って、敷地内に侵入した。目の前には下調べの通り裏口がある。島民全員が研究所の仲間っていう風情の連中だ、外部への防犯意識なんていうのはあってないようなものだ。グレーンは父親仕込みの鍵開け技術でちゃっちい鍵を三秒かからずこじ開けてやると、細く開いて中を覗いた。殺風景な廊下が伸びているだけで人の気配はない。二人はさっと中に入り込むと、足音を忍ばせながら階段を捜した。

 例の物があるとすれば、それはおそらく地下大金庫だろう。半年前にやってきた二人をメグ島民特有の胡散臭い笑顔で迎えた研究員たちは概ね好意的に研究所内を見学させてくれたが、地下の金庫だけは頑固な微笑みで首を振って見せようとはしなかった。二人が研究所内で見ていないのはあそこだけだ。

 地下一階へと下っていく。踊り場をまわって段を駆け下り床に足をつけた時、廊下の向こうからカツンカツンと足音が響くのが聞こえた。二人は咄嗟に手ごろな扉の中に滑り込む。扉の上に『物置』と書かれていた通りそこにはがらくためいたものが雑多に置かれているだけで、ろくに整理もされていない埃っぽい部屋だ。二人は扉に耳を当てて、足音が通り過ぎるのを待つ。扉の前を通って行ったその人物は階段を登って行ったのだろう、足音は上方へと消えていった。

 二人は物置を出て、廊下の向こう、大金庫の場所へと向かった。大金庫と言ってもそこを閉ざすのは巨大な鉄の塊めいた大蓋などではなく、ただのちょっと厚い扉だった。しかしここに限っては管理も厳重なようで、三つの鍵孔とダイヤル式の錠が付いている。グレーンはポケットから二本の細い金具を取り出して、がちゃがちゃと三つの鍵を開け始める。見た目に反して案外単純なつくりで、一つあたり三十秒で解錠できた。しかし問題はダイヤルの方だ、四桁の数字を合わせる必要がある。

 さて、どの番号が正しいのか。グレーンはノブに手を掛けて捻ると、扉に体重をかけながら一つ一つのダイヤルをゆっくりと回していく。かちかちかち、じり。ときどき何かを浅くこするような感触を覚える。だから、そこなのだ。グレーンはそうやって一個ずつダイヤルの番号を捜していく。二つ当てた、だからあと二つ――!

 その時だった。

「何しているんですか」

 二人の背後から鋭い声がかかった。振り向くとそこには鮫皮のコートを羽織った人物が薄ら笑いを浮かべながらこちらを見ていた。その右手には鮫歯散弾銃(こうしさんだんじゅう)が握られている。モルトがしまったという顔をした。普段の冷静な彼女なら背後から接近してくる人間の足音に気付くことなんて足元で口を広げるホホジロザメの接近を察知するよりも簡単なことのはずだった。きっと彼女もこの扉の向こうにあるはずの代物に気を取られていたのだろう。

「どうして……」

 グレーンは呟いた。男は答えた。

「あなた達がこの島に来ていたことは既に把握済みでした。こそこそと研究所に向かってるって事もね。何をしていたのか、聞かせてもらいますよ――その前に、手を挙げて、正面を向いてくださいね」

 グレーンは扉から身体を離して両手を高く上げた。男――メグ島中央研究所副所長のロクスは満足そうに口元を捻り上げた。しかしグレーンの横に立つモルトに目を向け、彼は不機嫌そうに眉を顰める。

「そこのあなた――お久しぶりですね、モルトさん、ですか。おやおや、私の言っていることがわかりませんか。鮫狩の方々は頭の中まで筋肉が詰まっているのですかね」

 筋肉にまで脳みそがにゅるにゅる詰まってるようなやつが何言ってやがんだそんなもっちりぷにぷにな指先で引金が引けんのかこら。そんな罵倒の一つでもやってやりたいところだったが、やはり銃が向けられている以上抵抗は難しい。グレーンは傍らのモルトに目配せをした。はやく、手を挙げて。

 しかし彼女は頬の×型の傷をぐにゃりとゆがめて不敵に笑うと、細めた目をグレーンに向けた。

「ねえグレーン? なんであたしたちはお行儀よく鍵を開けようなんてことをしていたんだっけ?」

「え?」

「研究所の人たち、もっと言えばこの島の人たちに気付かれて騒がれないように、ってことだったじゃんね。だけど見てよ」

 彼女は自分たちに向けられている銃口を顎でさした。彼女のほっそりとした真っ白な右腕が、微かに隆起した。

「これじゃあ、そんな事をもう考えなくてよくなったって事だ」

 グレーンはそこで、モルトの言わんとしていることを理解した。「なるほどね」

 二人は頷き合った。ロクスがいら立ちの声を上げる。

「なにしてるんですかお二人さん、辞世の句を口にしあうにゃあ少しばっかり気が早いんじゃあないですかね。こちとらも無駄な殺しはしたかぁないんですよ」

 グレーンは腕を下して、床を蹴った。

「そりゃあ、欺瞞が過ぎるってもんでしょうよ!」

 モルトもグレーンと反対方向にはねた。その間際に手に持っていた短槍を力いっぱい振るって鍵を軒並み破壊せしめる。侵入がばれたのだ、ならもう暴れてしまっても構わないはずだった。

「な、なに!」

 ロクスは散開した二人に狼狽し、銃口をぶんぶんと振り回した。グレーンは右へ左へ走り回りながらロクスの目を引き付ける。その隙にモルトが扉を蹴り開けた。

「中へ!」

 銃声が鳴り響いた。しかし照準の定まっていない上に引金をひくタイミングが見え見えだ、グレーンは飛んでくる鮫の歯の展開範囲を的確に見極めて難なく避けると、モルトの開いた扉の中――大金庫に転がり込んだ。壁際のスイッチを適当に押したら電気が付いた。二人で奥まで駆けていく。

 ロクスも銃を片手に金庫に入ってきた。しかし銃口は下に向けている。貴重な資料のつまった部屋の中で鮫の歯をぶっ放すようなことを許せるようなメグ島民ではない。二人の狙いは的中していた。背後からの狙撃の危険性を考える必要もない彼女たちは金庫の最奥部へと足を進めた。

 そして彼女たちはそれを見つけた――たしかにそれはあったのだ!

「こ、ここまでですよ……」

 だらけきった身体を上下に揺らして、肩で息をするロクスがようやく二人に追い付いた。銃口を二人に向けているものの、それは形だけだ。彼の人差し指は引金から遠く離れている。

「いきなり島へやってきて、研究所に忍び込んで、そして金庫の――これの前にやってきた……お前ら一体なんのつもりだァ!」

 ロクスは叫んだ。頬の肉が小刻みに揺れる。モルトは短槍の穂先をロクスへと向けた。オレンジ色の照明の光が槍の先に溜まり、そのきらめきにロクスはたじろいだ。

「あたしたちはこの島の罪を暴きに来ただけだ……」

 モルトは答えた。ロクスが険しい表情を作った。

「なんの――なんのことですか」

 とぼける彼は、しかし動揺を隠しきれてはいなかった。グァバの種みたいな目がちらちらと揺れている。グレーンは一歩前に出た。

「ロクス副所長、もうごまかしなどは無駄ですよ。私達はすべてを知っている」

「何を――何を知っているというんだ!」

 グレーンはロクスを睨みつけた。五十になろうという禿頭の小男はその双眸を恐れの色に染めていた。グレーンは一つ息を吸い、声高に宣言した。

「あなた達が八年前、この島で行った外海人の虐殺の事実についてですよ!」


「自分が小さくなって、人間の身体の中を探検したという蒼い髪の少女に出会ったのです、私達は、アルバトロ島で」

 蒼い髪という言葉にロクスは顔をこわばらせた。グレーンは鋭いまなざしで彼を射抜いたまま、言葉を続けた。

「その子は名前をブルゥと言いました。彼女は私達に部屋を貸してくれて、地図作りの手伝いだってしてくれたのですが、繰り返し不思議な話を聞かせてきたのです。その話というのは――」

 グレーンはかつてブルゥが語った話を諳んじた。

 体が小さくなったことがあるんだよ。どんどん小さくなって、人の口より小さくなって、それで、腕が一つだけない人の身体に入ったの。みんなと一緒に入ったんだよ。胸の下のあたりに行ってね、血の道を走って島に着いたの。だけど島で蝶々を追いかけてね、みんなと離れちゃったの。島は見たこともない樹とか、虫とかがいっぱいだったんだけど、がんばって歩いたんだよ。そしたらお家がいっぱいあってね、でもみんな死んじゃってたの。血がいっぱい赤く濡れてて、みんなたおれてた。怖くなって逃げて、それで眠っちゃって、起きたら外に出てたの。

「最初は唯の夢かと思いましたよ」グレーンは言った。「子供なら時々見るような突拍子もない夢。彼女は島の人々にも同じような話をしているようで、皆には少し頭の調子がおかしいのだと思われていました」

 ロクスが微かに銃口を揺らした。モルトが一歩で彼の喉元の三十センチ先に槍の穂先を突き付けた。「動くな」ロクスが生唾を飲み込んだのが分かった。グレーンは話を続けた。

「というのも、彼女は小さいころに事故に遭っているようで、それはブルゥの出生にも関わるのですが、島の人に話によると、彼女はどうにも海で拾われた子らしいのです。八年前、この島の近くで」

「海で……?」

 ロクスは訊き返した。グレーンは頷いた。

「海で――ロクスさん。八年前と言われて、何か思い浮かべることはありませんか」

「いや」彼は小さく首を振った。「わからんな」

「そうですか。かなり有名な出来事なのですがね――ブルゥは八年前、夜に太陽が昇るという超常現象の起きた日に拾われた子だったのです。おや」グレーンはロクスの顔をしげしげと見つめた。「ロクスさん、どうにも顔色が悪いようですね」

「気のせいだ。続けろ」

「そうですか。では続けさせていただきましょう。ブルゥは運よく鮫の襲撃を逃れ、五体満足でポロニア島の漁師の船に拾われました。彼女は自分の親が誰だったか覚えておらず、いいえ、それにくわえて、言葉まで忘れていたのです。彼女は漁師たちの保護を受けながらその船上で養生した後、彼女は停泊していたアルバトロ島の夫婦に引き取られたのです。親も分からないし、出身も分からない。しかし漁船にずっと乗せているのは危険極まりなかった。ブルゥはそれ以来アルバトロ島で暮らしていました。拾われたのは大体五歳くらいのときではないかと、彼女の見た目から推測されていました。それが八年前のことです」

 グレーンはそこまで言って、一息ついた。金庫の周りに大勢の人間の気配がする。既に囲まれているのだろう。

「話は現代に戻ります。私達は当初の目的通りアルバトロ島の地図を作りました。その時にはブルゥは島の案内役を買って出てくれて、それでアスィラム諸島全体の地図を完成させることができたのです――そのとき私たちはブルゥの話が妄想でも夢でもなく、まぎれもなく本当に起こったことなのだと気が付いたのです」

 グレーンはそう言って、バッグの中から一枚の鮫皮紙を取り出した。二年に渡って書き込みを続けたおかげで色は変色しかかっているが、さすがは強靭な鮫の皮膚だ、傷一つついては居なかった。

「みてください、この地図を」

 彼女は鮫皮紙を広げた。そこにはつい先日完成したばかりの、アスィラム諸島全体の地図だった。



「見ての通りなのですよ。そう、アスィラム諸島は、まるで片腕の欠けた人間のような姿をしているのです。つまりブルゥの話はこういうことになるのです。彼女はこの諸島にやってきた。そして胸の少し下のあたりの島――つまりこのメグ島で『みんな』つまり彼女と一緒にやってきた仲間が殺されるところを見たという事なのです。そうなるとあとの細かい部分は簡単に説明が付きますね。血の道を通った――これは簡単な話で、鮫を殺して海を開きながら船を走らせたというだけの話です。ポロニアの鮫狩かブルゥの仲間がそうしたのでしょう」

 海には体当たりの一つで船をぶち壊してしまう狂暴な鮫たちがうじゃうじゃいる。それから船を守るために鮫を殺して船を進める。鮫の皮膚は刃を通さず石より硬く、炎を防ぎ、雷の一撃でもけろりとしている。毒も効かない。唯一有効な手段は鰓に深く槍や銛を差し込んで抉るというもので、そのために海中を自在に泳ぎ回り槍を振るう、ポロニア島で暮らす『鮫狩』の一族を船に同乗させるのだ。狂暴な鮫が出現し始めたという五百年前からの常識だった。――しかしそうして船を出しても、諸島の外の海域まで船を出すのは無茶なことだった。到底もたないからだ。

「そうして島にやってきたブルゥの仲間を、この島の人間たちは殺したのです。しかしブルゥは運よくそれを免れた。そして彼女は必死に逃げて、海へと身を投げた。確実に人に殺される島と、もしかしたら鮫の気まぐれで生き残るかもしれない海。五歳の彼女は勇気ある決断をしたのです――そして彼女は仲間が皆殺しにされた記憶に蓋をした――この島の人間は、あの子の幸せを奪ったんだっ!」

 そのとき、既にロクスの顔は真っ青になっていた。銃を持った手はだらんと下げられ、顎からぽってりとたれた肉は小刻みに震えていた。

「――その子供は、今は……」

ロクスは掠れた声で尋ねた。グレーンはかぶりを振った。

「死にました。一週間前に。爆発事故に巻き込まれて――私たちは彼女から、自分が一体何者であるか突き止めてほしいんだと頼まれていたのです。――そう、彼女の正体について考えるときに、ここで、ひとつ指摘せねばならなことがあります」

 グレーンは自分の後ろにある『それ』をちらりと見た。

「彼女の言った通りのことが起こったのであれば、一つ、どうしても必要なものがあるのです。身体が小さくなって人の中に入ったように錯覚した。しかしそれは、あたかも人の形のようなアスィラム諸島に入っただけの事だった。しかし、彼女が錯覚するためには、彼女はある場所にいる必要があったのです」

 もったいぶるようにしてグレーンは言う。しかしこの場にいる三人の全員が、それがなんであるか理解していた。

「そう――空です」

 諸島は人のような形をしている。しかしそれを見るためには、空の上から諸島を眺め下さねばならない。

「つまりブルゥは空からやってきたのです。空を飛ぶ技術が開発されている場所から――いいですか、空を飛ぶ技術など、アスィラム諸島にはないのです。つまり彼女は外海からやってきたのです。だから彼女は見たこともないような髪色と目の色をしていたんだし、島でみた植物や虫は彼女の見たこともないものだったのだし、彼女は言葉を忘れていたのではありません、そもそもこちらの言葉が分からなかったのです!」

 グレーンは背後を振り返った。そこには焦げた布の切れ端のようなものと、巨大な機械が鎮座している。柱につけられた簡素なプレートには『飛行装置』とだけ書かれていた。

「空飛ぶ機械があった。そうなると、八年前の超常現象の一つが解決されてしまうのではないだろうかと、私は考えています。空を飛ぶとなれば、相当な動力が使われるのではないかと思います。いったいそれがどういったものかはわかりません。電気で動いているのかもしれないし、別の物かもしれない。でも私はこう考えます、その飛行装置には、非常に熱に変換しやすい、つまり燃えやすい物質が大量に積まれ、燃料として用いられていたのではないかと。そうすることで何が起きるか。そう、あなた達の魔の手を逃れ飛行装置で逃げようとした人々を、飛行装置諸共あなた達は狙撃したのです。そしてそのはずみに飛行装置は大爆発を起こした――そう、そのことによって八年前、アスィラム諸島では一度だけ、一瞬、夜に太陽がのぼったのです!」

 グレーンは一つ、ため息を吐いた。

「さて、私の仮説を確かなものにするためには、その飛行装置が証拠として必要でした。そして私は、あなた達があの飛行装置を確実に保管していると踏んでいました。だってここは学者の島ですもの、未知の機械を捨て置くような真似は、あんたたちにはできないんですよ――!」

 

 グレーンが自らの推理を話し終えた時、すでにロクスは戦意を喪失していた。モルトが槍を振るって彼の手から銃を弾き落とした。彼は抵抗の一つもしなかった。

「しかし、なぜなんですかロクスさん。なぜあなた達はブルゥの仲間を殺したというのですか――」

 ロクスはまともに答えようとはしなかった。「お前にはわからんさ」そうとだけ言ってかぶりを振る。グレーンは眉を顰めた。しかし槍を構えたモルトがぼそりと呟いた。「支配を恐れたんでしょう」

 彼女の言葉で、ロクスが目を丸くして顔を上げた。

「どういうこと?」

 グレーンは尋ねた。モルトはエメラルドグリーンの瞳に冷たい光を浮かべていた。

「鮫が現れたのは五百年前のこと。その時のことの話、知ってるよね」

 彼女はそう言った。

 五百年前、アスィラム諸島には外海の巨漢たちが見たこともない巨大な船を率いてやってきた。彼らの武力の前に、島民はなすすべもなく支配されざるを得なかった――だが、ひと月ほどしたある時、島を鮫が襲ったのだ。敵戦は破壊されて敵は物資を失った。そこをついて島民は外海の巨漢たちを打ち倒した。それ以来島は鮫に守られ、外敵がやってくることは無かった。

「五百年前ここにやってきた敵たちは、島民の想像の及びもつかないような道具をたくさん持っていた。蒸気機関、銃、もちろん船だって。そして大量の書物があった。メグ島の人たちはその解読作業を買って出たんだよ。それで、五百年前の船団が、外海の大国――当時イングランド王国と呼ばれていた――の船だと分かった。イングランド王国は外海を広く支配して覇権を築いていた国だったんだよ。だけど、あたしはこう考えているんだ。鮫の出現はこの諸島に限った話ではなく、すべての海で同時に起こったことじゃないかって。そうなるとどうなるか。つまり、海が封鎖されたらどうなるか。海洋支配によって繫栄していたイングランド王国はまず間違いなく滅亡する。そして、これはメグ島の人々の研究で分かっていることだけど、外海の人たちはアスィラム諸島で行われているような交易をもっと大規模に行っていた。それによって一つの巨大な世界を築いていた。その中心にあったイングランド王国がつぶれたんだから、その世界も同様に崩れていくんだよ。そして五百年前の敵船に乗っていた地図によれば、この世界の海には五つの巨大な陸地と、小さな島が沢山ある。そして、海洋が鮫によって封鎖されているという事は、陸地間の通信は殆どなされなくなる。わからないよ、鮫狩みたいな人たちが外海にはたくさんいるのかもしれない。でも鮫たちは刃も炎も電気も毒も効かない。確実に、陸地間での交信はイングランド王国が栄えていた時代よりも減ってしまう。そしてこう考えることも可能なんだよ、五百年経った今でさえ、陸地間の交信がまるでなされていないという事を考えることも。そうなると、いったい各陸地は何を考え始めるのかという事が言えるか。一つには、対岸の陸地は既に自分たちを大きく超える力を持っているかもしれないという事だ。イングランド王国やそれ以外の強国の進出によって、世界に広く技術が広がった。それを火種にして、対岸では技術力が飛躍しているかもしれないから。

そして、世界には支配の記憶がある。した側もされた側も。各陸地は、自分たちがこれ以降支配される側になってはいけないことを知っている。そして、対岸の陸地は自分たちを支配できるだけの力を持っているかもしれないと疑ってしまう。

それはまだ届かないんだよ、海を隔てているんだからね。でもいつかはできるかもしれないんだ、空を駆る船が。そしてそれがやってくる可能性を考えないわけには行かない。そしていざその船がやってきたときにはどうするのが正解なのか。可能性はいくつか考えられるんだ。すでにその船は自分たちを殲滅するほどの力を持っている。もう一つは、実験用にそこまで力のない船を飛ばしてきている。あるいは、なんの敵意もなく飛ばしてきている。そうなると船を迎える陸のやるべきことは一つだけなんだよ、船が圧倒的に強いならあきらめるしかないけど、そうでないならその船を打ち落とす。そして可能ならば飛行技術を奪う。相手に対する抵抗力を手に入れるために。決して船を帰してはならない。たとえ敵意が無かったとしても。だって帰してしまえば、もしかすると相手側に、自分たちが相手よりはるかに低い技術だと知らせることになりかねないから。でも船を帰さずにいれば、相手には自分たちの技術は分からせないままで居られる。相手としては、敵の力量を測りかねて、おいそれと手出しは出来ないんだ。もしかすると敵には自分たちを猛烈に反撃するだけの力があるかもしれないんだから。

 そしてこのアスィラム諸島では事情が少々違う。第一に、この諸島は五百年前に外海の艦隊がやってくるまで外部と交渉はなかった。そして五百年前の船団も、結局本国には帰らなかった。つまりね、この諸島はまだ外の誰にも知られていないんだよ。だからこの島では、空飛ぶ船がやってきたときにそれを打ち落とすだけの合理的な理由がもう一つある。そう、島の存在自体を隠し続けることができるという事だよ。誰にも知らないままでいられるんなら、狙われはしない。いや、いつかは見つかってしまうのかもしれないけど、その先延ばしはできる。その間に抵抗力をつける時間を作れる――だからなんだよ。この島の人たちがブルゥの仲間たちを殺して、空飛ぶ船を打ち落としたのは。大国による支配を恐れたからだ。そしてその考え方がこの世界の公式だと考え、正当化してしまったからだ。ブルゥたちがどういう理由でやってきたとしても、彼女たちを攻撃しなくてはならなかった」

 モルトはそう言って、ロクスを見下ろした。ロクスはがくがくと首を縦に振った。

「そう――そうなんだ……私たちはアスィラム諸島のために力を尽くしたんだ、アスィラム諸島を守ろうとしたんだ。だから私たちは手を血に染めた……私たちは正しかったんだ……」

 だけどモルトはゆるゆるとかぶりを振った。

「それでブルゥは仲間を失った。その正しさはただの自分勝手だよ」

「ならば!」

 ロクスは叫んだ。

「ならば我々は滅べばよかったというのか!」

「そんなことは言ってないよ――ただ」モルトは槍の柄の部分をぶん、と振って、ぶよぶよのロクスを壁際まで弾き飛ばした。その目は、いつも鮫を狩るときにみせる、悲しげな色が浮かんでいた。「自分たちが生きるという事につきまとう罪業から目を逸らすな――ごめんね、吹っ飛ばしちゃって」

 モルトはそういうと、槍を低く構えて「行くよ!」とグレーンに呼びかけた。グレーンは小さく頷いて、床に落ちていた鮫歯散弾銃を拾い上げる。装弾数は二発で、先ほどロクスが一発撃ってしまったから残りは一発。

 二人は駆け出した。扉の向こうには職員がいることは確実だ。相手がどれだけの武装をしているのかはわからない。モルトは足元に転がっていた何かの部品を取り上げると、天井の照明に向かって投げつけた。照明は割れて金庫内は暗闇に包まれる。モルトが先を走って、グレーンがその後についていく。扉まで少し。中を覗き込む職員の顔が見えた。二人は左右に分かれ、廊下からの光を避けて走る。

 モルトが先に、扉から飛び出した。彼女は短槍を振って入り口に張り付いていた数人の職員を薙ぎ払うと、じぐざくに走りながら入り口から離れていく。銃声が鳴り響いたが、モルトの身体には当たらない。

 モルトが出てきてから数秒後、グレーンが飛び出した。職員たちはモルトの方にまるで気を取られていたからグレーンの存在には気づかず、背後からぶっ放された散弾銃の弾ける鮫の歯をまともに食らった。職員は五人。そのうち三名が頭部に重傷を負って気絶、一名が心臓をぶち抜かれて死亡、一名は右手を失っただけで済んだが、戦闘は不能になった。

「ほんとごめんなさい!」

 グレーンは自分の手で血塗れにした五人に大きな声で謝ると、モルトを追って廊下の向こうへと走っていった。

 二人は階段で合流して、一階へと上がった。職員の姿はない。二人は警戒しながら裏口を出る。一人が待ち伏せしていたけど、難なく打ち倒して丘を下った。そこから船のある浜までは敵の姿はなく、二人は急いで出発の準備をした。

 グレーンは甲板に乗り込んで陸上発進の準備を始める。車輪は出ている、船内に異常はなし、機器も問題なし。モルトはというと腰に鮫皮縄をつけて、軽く準備運動をしている。

「あっ」

 そこでグレーンは、原動機用の鮫が前回の出航から交換されていないことに気が付いた。これでは原動機は使えない。

 そのことをモルトに伝えると、「たぶん時間がない、帆だけでいけない?」と言ってきた。「この島に良い船乗りなんていないから、出ちゃえばこっちのもんだから!」

 アスィラム諸島には、ポロニア島の船乗り以上に腕のいい船乗りは居なかったし、鮫狩の一族もポロニア島に住んでいるんだから、今都合よくこの島にいる可能性は低かった。グレーンは了解と叫んで、船を発進させる準備をする。モルトは縄の強度を確認して、船の舳先に飛び乗った。「いつでもいいよ!」「おっけいモルト、この船守ってよ!」「もちろん!」

 グレーンは船を発進させる。充電式原動機を使って小出力で車輪を回して、船を海に突っ込む。その瞬間モルトが海に飛び込んで、船に群がる鮫の血があたりを赤黒く染めていく。

 グレーンは帆で風を掴む。いい風だ、彼女はにやりと笑って船を走らせる。原動機を使ったときと遜色のないほどの速度だ、これなら帆だけでもうまく走らせられる――。だけど、その時だった。空を切る音と共に何がかマストの先に衝突した。爆熱と爆風と轟音に、グレーンは甲板に叩き伏せられる――しかしけがはない。彼女ははっと上を見た。帆が燃えている。

「まさか――!」

 彼女はメグ島を振り返った。丘の上、研究所の屋上。そこに、こちらに照準を向けている大砲の姿があった。

「くっそ、そんなにやるの普通⁉」

 そう毒づいてみたものの、メグ島としては二人を生きて帰さないという選択は妥当なものだった。八年前に外海人が来たことも、そして彼らを殺害したこともメグ島はアスィラム諸島の他の島に伝えていない。そして飛行技術の産物を手に入れたことを隠している。このことが外部に知られたらまずい立場になるのは自明のことだった。それを、家出した放蕩娘のグレーンと鮫狩の一族に勘当されたモルトの二人を殺せば隠せるのだから、彼らが二人を攻撃するのは当然だった。

 グレーンは帆の消火を試みたが、すぐに無駄だと分かった。

 ざぷん、と音がしてモルトが左舷に顔を出す。

「どうしたの!」

「帆をやられた! 原動機を使うしかない!」

「でも原動機用の鮫は」

「――ああ、もう!」グレーンは腹を決めた。「私一人でどうにかするから、手ごろなの投げて!」

「そんなむちゃな!」

「大砲の弾がばんばん来るところでのんびりしてる方がむちゃ!」

「ああ、ったく!」

 モルトはざぶんと海に潜った。その六秒後、水面で大砲の弾が爆ぜた。だけどその時には既に彼女は反対の右舷に回っていて、小柄な鮫を槍で掬い上げるようにして甲板へと放った。

「これでどうにかして!」モルトは叫んだ。

「ありがと!」グレーンはそう言って、甲板で暴れまわる鮫を見下ろした。

 大きさはグレーンの身長の三分の二ほど。だけど牙も鰭も立派なもので、まともに噛みつかれたり尾をたたきつけられればただでは済まない。グレーンは麻縄を構えて、まずは鮫の尾に輪を掛けた。そして鮫を引きずって原動機のそばまで持ってくると、拘束具に縛り付ける。まずは尾。次に頭。彼女は力ずくで鮫を押さえて、がっちんがっちんと鳴らされている歯に嚙みつかれないように注意しながら頭を縛り付けようとする――しかし、拘束が甘かったのだろうか、ばちんと何かが弾ける音がして、気付いたときには尾ひれが目の前に迫っていた。

「あっ」

 ぱん、と星が弾けた。甲板に自分の身体がたたきつけられるのが分かった。どこかで爆発音がしたのも分かった。熱気が肌を撫でた。樹が燃える香りがした――でも、潮の香りのが強いなあなんてのぼせてた。そこでグレーンは、暗闇に落ちた。




終章:そして世界に陽は昇る


「おい! 起きろ! グレーン!」

 叫び声が浴びせられた。目を覚ますとまず金色が目に入った。その次にはエメラルドグリーン。険しい顔のモルトが、自分の顔を覗き込んでいる。ぽたぽたと海水の雫が髪の毛の先から落ちてきて、鼻を冷たく濡らしている。あたりに漂うのは煙と鮫の血と海の匂いで、だけど自分の頬に添えられているモルトの手からはいつもの若草みたいな香りがしているなあと思った――そこでグレーンははっとクリアな思考を取り戻した。

「船は! え、モルト? なんで甲板に……」

「あんたがやられたからだよ!」

「あ、私どのくらい寝てた……」

「三分弱!」

 モルトはそういうと、グレーンを引っ張り起こした。グレーンは周りの状況を確認する。マスト炎上、甲板大破、船室は見事につぶれている。

「へ、ふへえ」変な声が出た。「お、おわってんじゃん……」

「まだ終わってない」モルトはそう言った。「船底に結構穴空いてるけど、まだ終わってないから」

「ますますおわってんじゃん!」

 モルトはグレーンの悲鳴を意にも介さず、原動機を指さした。

「原動機はまだ動く。さっきあたしが鮫繋いどいたから」

「あ――ありがとう」

 不甲斐ないなあ、と思った。自分は鮫にしばかれて気持ちよく伸びてただけなのに、モルトは原動機を用意してくれた上に自分の介抱までしてくれた――と、そこまで考えてグレーンは眉を顰めた。

「海、大丈夫なの、鮫」

「なにもだいじょばない」モルトはさらっと答えた。「だから今も穴が増えていってる」

「やばいじゃん!」

「やばいよ。だけど、いい、グレーン、よく聞いて」

 モルトは落ち着き払った様子で言った。今は彼女の冷たい眼光が何となく嬉しくなる。グレーンは「ん」と頷いた。

「このままじゃ普通に航海したら死ぬ」

「だよね」

「だから最大出力で原動機を動かして。それで一気に突っ走って、沈む前にポロニアに辿り着こう」

 わかった! と頷きかけて、グレーンは目ん玉が飛び出るんじゃないかってくらいに目を見開いた。「最大出力⁉ ばかなの⁉」

「ばかじゃないよ、本気で。よろしく」

「なにもよろしくない! バラバラになっちゃうよモルト! だって、最大って三百キレルだよ? いつもの三倍だよ? 腰からもぎ取れるよ上半身」

 最大出力時速三百キレルで海中を引きずり回されて海水の塊に全力でぶんなぐられ続けて無事でいられるモルトなんてまるで想像出来っこない。だけどモルトは涼しい声で、

「大丈夫、そんなにやわじゃない」

「でもそんなんじゃ……」

「グレーンさあ」モルトは挑発的に笑った。「あんたあたしの本気、見たことないでしょ。みせたげる」

 彼女はそう言って颯爽と海に飛び込んだ。燃え盛る甲板に取り残されたグレーンは一瞬だけ逡巡して、でも、だだっと原動機のそばまで走っていった。鮫には適切にコード類がぶち込まれていて、もがもがと苦しそうにうごめいている。グレーンはいつもの点検なんて作業は全部すっ飛ばして起動スイッチをグイっとひねった。傍らの鮫はびくんと震える。グレーンは一つ深呼吸をして、レバーを握った。

「いくよ!」

 その声が海中のモルトに聞こえたかどうかは定かではない。だけどグレーンはがこがこがこっとレバーを一杯に引いた。その直後繋がれた鮫がびっくんびっくんとあほかってくらいに痙攣して、原動機のボックスがこの世の終わりみたいな唸り声を上げた。海中のスクリューは見たこともない速度で回転を初めて、海中の血をかき混ぜまくって真っ赤なホイップクリームを生成し始める。

「お、わ、わわわ」

 これまで感じたことのない速度、風、波にぶつかって水切り石みたいに船が跳ね飛ぶ浮遊感。舵なんてとれたもんじゃなくって、ただひたすらまっすぐに突っ走らせるのが精いっぱいだ。グレーンは「うひゃぁあ」なんていう間の抜けた叫び声を上げながら、舵のレバーを操るって言うかもうしがみつくみたいにして握っていた。

「も、モルトー!」

 こんな速さで走っちゃあ相棒が無事でいられるわけがない。グレーンは後ろを振り向いた。赤い波がずうっと伸びている。きっとこの先で鮫皮縄に腰を繋がれたモルトが波と鮫にぼてくりこかされながら断末魔の叫び声をあげているんだきっと……。グレーンはそんな想像をして泣きそうになったけど、冷静に考えてみるとちとおかしい。もしそんなことになっているのなら、こんなふうに鮫の血の波が後ろにずうっと続いていくわけがないし、正面からミサイルみたいにぶっ飛んできた鮫たちが船首部分をべっこんべっこんへこませて今頃この船は海の藻屑になっているはずなのだ。

 グレーンは自分の身体が船と一緒の慣性系にのったのをいいことにそろそろと立ち上がって、ゆっくり船首の方へと向かっていった。舵なんてもう取れない、最高速度でなるようになれって感じだし、どうせ目の前にはポロニア島の長い海岸船が広がっているから適当に走らせておけばまあどっかにはたどりつく。モルトは船首に辿り着くと、恐る恐る下を覗き込んだ。そこで彼女は信じられない光景を見た。

 グレーンは船首部分の手すりに鮫皮縄をぐるぐるに巻き付けて、蝙蝠みたいにそこからぶら下がって上半身を海に突っ込んでいた。鮫の背びれがこの船の速度と鮫自身の遊泳速度の和の分だけの狂った速さで接近してきて、でも船首部分に辿り着いた瞬間に真っ赤に染まって弾き飛ばされている。それが高速に連続になんどもなんども繰り返されているのだ――つまり、船首からぶら下がったモルトが向かってくる鮫の鰓に目にもとまらぬ速さで槍を差し込んでは振り払っているのだ。

「すっご……」

 思えば、しかし時速三百キレルで走っている今この状況でこの方法を取るのは合理的なのだ。鮫の遊泳速度は速くて百二十キレル、そうなると後ろから追いすがってくる鮫は居ないわけだし、側面にぶつかられたとしても、もう既に廃船覚悟で突っ走っている船からすればかすり傷が増える程度のダメージなのだ。だから船首部分にのみ集中して、鮫を追い払っていくこの仕方はいかれたビジュアルで狂った高技術が求められるとはいえ、効果的ではある。

 グレーンは原動機に戻った。モルトがあんなことをしている以上、自分も甘えちゃいられない。なるべく彼女のやりやすいようにブレを、揺れを抑えていく。それが自分の仕事じゃないか。

 彼女は右手で舵を、左手で出力のレバーを握って、がちゃがちゃと動かし始める。水は流体で、だけど個体。無秩序なうねりは、だけど体感において論理を持つ。船になれ、水を掴め、海を駆れ。ポロニアっ子の技ってやつを見せてやれ!

 船は激しく燃えていた。炎は風を飲み込んでその威容を増し、橙色の髪の毛をたなびかせるようにして夕闇に沈みつつある紺色のカンバスに目もくらむような残像を描いていく。ごうっと空気を焼く音が轟く。だけどその中に、二つの甲高い笑い声が高らかに鳴り響いていた。


 燃え盛る船はその速度のとどまるところを知らぬままに、ポロニア島西岸の浜に乗り上げた。夜の染みた砂浜をざりざりと削って、岩にぶち当たって停止する。二つの人影が転がるように飛び出してきて、砂浜にぶっ倒れた。一人は潮水と血液で顔をどろどろにした金髪の少女で、もう一人は顔を煤だらけにした栗色の髪の少女。

 グレーンとモルトはお互いに顔を見合わせると、肩で息をしながらぷっとふきだした。

 二人の頭上には波の泡をぶちまけたみたいな星空が広がっていた。月の無い日だった。

「助かったね」グレーンが言った。

「ん」モルトが短く答えた。

「いっぱい殺したね」

「ん」

 グレーンの視界がじわっと滲んだ。星々の光が合わさって、大きくなって、鈍くなる。グレーンはごしごしと目元をこすった。

「メグ島の人たちも、いまの私達と一緒だよ」

 グレーンのつぶやきに、モルトは「そうかもね」と静かな声を出すだけだった。

 グレーンは体を起こした。起こして、自分を掴む大地の力がこんなに強かったんだなあと思って、背中を上げているのがおっくうに感じてしまった。またふっと力を抜いて倒れ込もうとした。

 その時、南東の空に真っ赤な太陽が浮かんだ。まばゆい光だった、砂浜は夜を搾り取られて白く輝き、森は影を失ってモス・グリーンに華やいだ。海はオレンジ色に染まって、鮫の背びれが黒く影を伸ばした。

「――夜の、太陽」

 かたわらでモルトが呟いた。グレーンの目からは、また、涙がこぼれでていた。それがひどく熱いもののように感じてしまったのは、太陽の熱を一杯に吸い込んだからかもしれなかった。

「また、来たんだね、空の船」

 グレーンは言った。モルトは呟いた。

 太陽は、次の瞬間には急激に輝きを失っていった。光はさあっと縮みゆく太陽に吸い込まれて行って、最後に残ったのは光の無い轟音だけだった。びりびりと世界を震わせる真黒な音。それが海に染みこんで消えてしまえば、残るのは静寂よりも静かな闇だった。

「ねえ、モルト」

「なに」

「メグ島の人たちの考えは――モルトの言ったことは、本当に正しいのかな」

 モルトは、なんで、と尋ねた。

「だって、そとの人たちは、そんな、ひどい人たちばっかりなのかな。私達は敵同士でしかないのかな」

「そうともかぎらないだろうね」

 モルトは答えた。

「でも、味方だっていう保証はどこにもない。船に乗ってきた人たちがとってもいい人たちでも、その人たちの住んでいる陸の他の人がどうかはわからない。だから、敵とみなすのが一番安全なんだよ」

「だから、ああやって船を撃ち落とすの」

「そう」

「じゃあ、私達が八年前のメグ島のことを、ブルゥの事を皆に伝えても、無駄かもしれない。ブルゥの仲間を殺したことが称賛されるかもしれない」

「そうかもしれないね」

「でもさ、そんなことしてたらきっと、ここは世界の全部の敵になるよ」

「そうかもしれないね」

「そんなに、怖い世界なの、ここは」

 グレーンは、モルトがエメラルドグリーンの瞳を優しく輝かせていることに気が付いた。彼女は縮こまったグレーンの背中にそっと手を置いた。

「外は、違うかもね」

「外」

「外。ここはさ、この諸島はさ、何も知らない子供が人見知りをしているだけなのかもしれない。外では皆が仲良し、とまではいかなくても、それなりに仲が良くって、それなりにぴりぴりしていて、それなりにみんながうまくやっている世界なのかもしれない」

「かもしれない」

「そう、かもしれない。メグ島の人たちの考えと全く同じ仕方で他の陸と断絶してるかもしれないし、そんな考えを持っている人は一人もいないかもしれない。もしかするとみんながみんなを敵視していて、既に滅びる三秒前かもしれない。でもどうあっても、ここに居たらそんなのは分からない」

 モルトは鮫の血塗れの手で、グレーンをそっと抱きしめた。グレーンはむせかえるような血液の匂いと、その中に香る若草の匂いを吸い込んだ。

「グレーン、怖い?」

「怖い」

「じゃあ、出ようよ、外」

「外?」

「諸島の外」

「なんで」

「知らないから怖いだけだよ。知ったら怖くなくなる」

「でも外は怖い世界かもしれない」

「怖くない世界かもしれない。ふたつのかもしれないを見続けるのは、いちばん怖いよ――それにさ」モルトはふふっと笑った。「外の地図、作りたくない?」

「――ん」

 二人は立ち上がった。焦げ臭い空気がふわっと漂ってきていた。

「じゃあさ、どこ行く? 諸島を出て」モルトはグレーンに尋ねた

「んー、南」グレーンは答えた。

「なんで?」

「南のが、あったかいよ。寒いのやだ」

「そっか」モルトは笑った。

「船、どうにかしなくっちゃね」

グレーンは消し炭になった船を見た。モルトは頷いた。

「そうだね」

「二人だけで大丈夫かな」

「どこだって行ける」

「そだね。食べ物、買わなくっちゃ」

「お金、燃えちゃったね」

「あ」グレーンははっとした。

「貯めなきゃね」モルトは肩を竦めた。

「がんばろうね」

「うん」

「じゃあまずさ」

 グレーンはモルトの頬に指を這わせて、にへらと笑った。

「身体、洗おっか」

                                   了

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