五月四日。つまりゴールデンウイークの三日目。私こと蓼(たで)丸(まる)多恵(たえ)は朝十一時だっていうのにベッドの上で惰眠を貪っていた。黄金の週間っていう甘美な響きに中てられて、午前三時までゲームをしていたせいだ。しかしどうだろう、世間では昨日から植田山ロープウェイの大事故の話で持ち切りだ。なんかワイヤーが切れて人がたくさん死んだらしい。ゴールデンウイーク優等生よろしく観光地なんかに行くと、あんな大事故に巻き込まれるかもしれないのだ。おうち万歳、怠惰万歳。
私はごろりと寝返りをうった。
とはいっても、だ。七時間も眠っていれば疲れは十分に取れてきて、遮光カーテンの隙間から差し込む陽光にイラつくことができる程度には目が覚めてきていた。だから、妹の文月(ふづき)がノックもせずに私の部屋に入ってきたのは起床するにはいい機会だったんだと思う。
「起きろダメ姉ぇ」
文月は部屋の蛍光灯をつけて、心底軽蔑したような口調でそんな言葉を私に投げつけた。小学四年生の妹に見下される高二の姉! ああ、私はなんと良い反面教師なのだろうか!
「まぶしい……」
寝ぼけた思考で自分を賛美しながら、布団を頭まで被せる。もうお昼だっていうのに蛍光灯の明かりがこんなにまぶしいとは。遮光カーテンっていうのは、本当に遮光するんだなあ。きっと社交性も高いんだろうなあ……。
「いつまで寝てんの? もう十一時だよ」
妹に布団をひっぺがされた。それで、ようやく意識もすっきりとしてくる。
遮光カーテンの社交性ってなにさ。
あくびを一つして、私を見下してくれる愛しき妹を見る。ちゃんと服も着替えて、髪も整えて、こんな私とは大違いだ。ああ、でも、このまま布団に引き込んでぐしゃぐしゃにしたらどんな顔で怒るんだろうか。
「文月も一緒に寝る?」
「起きろって言ってんの、このダメ姉ぇ。お昼ご飯外に食べに行くから、もうすぐ出るよ。さっさと準備して」
「んー。わかったあ。どこ行くの?」
私は寝っ転がったまま、ぐーっと伸びをする。腕とか足とかの肌にタオル生地のシーツがこすれる。髪の毛が頬とか鼻とかに触れて、リンスのにおいがする。それもまた一興。
「どっか。決まってない。何食べたい?」
「カツカレー」
「あっそ。ハングリーだね。でもあたしはうどん食べたいから、覚悟しといてね」
そう言って文月は部屋を出ていった。
「覚悟って、なんのさ……」
私はようやっと体を起こして、窓の外を見る。今日の空は青い空。白い雲が気まぐれに浮かんでいる。いい朝だ。いや、もう昼だ。
まあどうせ文月の言い分が通ってうどん屋さんにでも行くんだろう。だけどそこは年の功ってやつだ。私はカレーうどんに豚カツをトッピングしてやる。どうだいい考えだろう。妹よ、ぐうとでも言ってみろ!
もう部屋から出ていった妹に勝ち誇ったら、お腹がぐうと鳴った。私はお腹をさすりながらベッドから降りて、着替えを始める。
と、文月が私の部屋に戻ってきた。
「そういえば若菜から手紙来てたから。はい」
「ありゃ、そうなの。元気してるかなあ」
「たぶんね」
文月は私に開封済みの封筒をよこして去って行った。私は上半身が下着姿だけど、まあ誰が見るでもないからいいか、と考えて、そのまま椅子に座って封筒から中身を取り出した。
桑名(くわな)若菜(わかな)。私たちのいとこで、現在小学二年生。不幸なことに去年の大晦日、つまり五か月前くらいに両親と妹の香菜ちゃんを事故で亡くして、今はおばあちゃんちで暮らしている。
若菜と最後にあったのは、若菜ちゃんの家族の葬式の時だった。親戚の中で文月と私が彼女と一番歳が近かったから、通夜と葬儀の間は三人で一緒にいたのだ。その時の若菜は、おもったより感情的じゃなかった。あまり泣くこともなく、ふさぎ込んでいる様子もなく、私たちとは結構笑って接していた。
その時は、気丈にふるまっているのかな、と思って、ちょっと心配になったりもした。だから若菜とはそれ以来手紙でやり取りするようになって、状況を確認しているっていうかんじだ。
「……学校にも慣れた、か。よかった」
若菜は東京に住んでいたけど、おばあちゃんの家は新潟にあるものだから、当然転校することになった。この前私の方から送った手紙では、学校は大丈夫そうか、とか、寂しくはないか、とか、そんな事を尋ねたんだけど、でも、うまくやれているなら安心だ。おばあちゃんもおじいちゃんもやさしくて寂しくない、とも書かれていた。
「ん? ……俳句? いや、川柳かな」
手紙の最後に、五・七・五の歌が書かれていた。
『あらしの夜 こいのぼり見る おもいだす』
若菜は、小学生のくせになかなか風流なことをするようだ。私はううむ、と唸って、しかし若菜の心を垣間見た気がした。
「……まあ、やっぱり寂しいよね」
事故は、新潟に入ってすぐのあたりのパーキングエリアで起こったらしい。当時はひどい悪天候で日の光もろくに届かないくらい視界が悪かったようで、その影響でトラックが駐車中の桑名家の車に突っ込んだそうだ。幸いその時若菜ちゃんはトイレに行っていたらしくて、一人だけ助かった。
こいのぼり。それは、家族を連想するには十分なしろものだ。そして、あらし。事故の当時は悪天候。だから、この歌は、事故と家族を思い出している、そういう歌なんだと思う。
多分、若菜は本心ではすごく不安だろうし、すごく寂しいんだと思う。だけどそれを直接言ったら私たちを心配させるし、しかしかといってずっとそのつらさを抱え込んでいるわけにもいかない。だから、若菜は歌に乗せて、その思いを吐き出したんだろう。
なんというか、やっぱり風流な子だ。私が小学二年生の時なんて、縄跳びで二重とびができてどや顔になっていたっていうのに。
「これは、私も歌で返さなくっちゃね」
手紙を置いて、私は支度を再開した。
外にお昼を食べに行く。それは買い物も兼ねてのことだったようで、私たち家族四人は車に乗って、六キロほど離れた旧瑞(くずい)橋(ばし)という場所にある、『イロン』という際どい名前のショッピングモールに行くことになった。そこにはうどん屋さんもあるから、文月の希望が無事に叶いそうだ。しかし、私もすでにお腹の気分はカツのせカレーうどんになっているからなんの問題もない。むしろ勝利。
「あ、こいのぼり」
大百川に架かる烏畑橋を渡っていたら、隣に座っていた文月が小さく声をあげた。窓の外を眺めていたから私もそっちを向いてみたら、大きなこいのぼりがはためいていた。
「って、けっこう天気悪くなってきたね」
数十分前の青空はどこへやら、灰色の雲が空を覆って、風も強く吹き始めている。おかげでそのこいのぼりもバタバタとはためいて、絡み合っている。
「そっか……」
また、文月はつぶやいた。私は首を傾げて、文月の横顔を見つめる。
「そっか、って、なんかあったの?」
文月は首を振って、「なんでもない」と答えた。だけど私の耳元に顔を近づけて、
「多恵姉ぇは、あの手紙読んだ?」
「うん? 読んだけど」
「そっか」
それだけ言って、文月はまた窓の外を眺め始めた。
十年弱文月の姉をやっているけど、どうにもこの子の考えていることがわからないことが、よくある。
まあ、そんなものかな。
私もべつだん問い詰めるなんてこともしないで、窓の外を眺めた。私の通う池場高校のあたりを通ったとき、私の好きな人が歩いているのが見えて少しうれしくなった。
結局、ショッピングモールのある旧瑞橋のあたりに来た頃には雨がざかざかと降り始めていた。だけどゴールデンウイークなものだから、ショッピングモール『イロン』の駐車場はいっぱいだった。それでも何とか屋内駐車場に車を停めて、たったかと先に行ってしまおうとする文月の襟首をむんずとつかみながら(もちろん比喩。やさしいお姉ちゃんなので腕をつかみます)無事店の中に入った。
時刻は十二時半だった。皆のお腹もいい具合だったし、私たちは待つことにそれほど抵抗も覚えないから、多少並んでもいいよね、といってうどん屋さんに行った。都合のいいことに席が空いていたからすぐに入れたのだけど、うどんを食べたいといっていたくせに文月が天丼を頼んだのは腑に落ちなかった。私はもちろんカレーうどんにトンカツをトッピングして食べたとも。
それで、ご飯を食べた後は分散して行動することになった。私は特に買うものもなかったから本屋にでも行こうと思ったんだけど、文月が私と一緒に回るといって聞かなかったから、仕方なく文月の服選びに付き合うことになった。だから母と父は私たちに服を買うお金を渡して、それぞれ目的のお店に向かっていった。
「なんかあったの、文月? 私と一緒に服を買いたいなんて、ずいぶん珍しいじゃん」
お母さんたちと別れてすぐ、私は文月にそう訊いた。普段はあんなわがままを言う妹じゃなかったから不思議だったのだ。
文月は「うん」とうなずいて、黙る。それで二人でしばらく歩いて、服屋の前まできたあたりで、文月は周りをきょろきょろと見て、こう言った。
「お母さんたちには、聞かれちゃいけないかな、って思って」
「なに、恋バナ?」
「ちがうなにいってんのばかなの多恵姉ぇは」
すごくまじめな口調でそう返されて、すこしぞくっとした。この妹、今絶対私のこと見下してるな。さすが文月。
「あの手紙のこと。若菜からの。……ねえ、多恵姉ぇは変だな、とか思わなかったの? っていうか、今までなんとも思わなかったの?」
「ん? いや、別に。……今まで? って?」
「若菜のお母さんたちが死んでから、今まで」
「そりゃあ、若菜もかわいそうだな、とか、大変だろうな、とかは思ったけど。……あ、手紙ってあの俳句、ああ、いや川柳? のこと? いや、さすがに私もあの意味くらい分かるよ、家族と事故のことを思い出して寂しい、とか、そういう事でしょ」
その言葉に、文月は眉をひそめて、それで、「そうじゃないとおもう」と言って首を振った。それで、服屋さんの中に入っていく。店員さんに妙に高い声で、「いらっしゃいませー」と言われた。
「そうじゃない、って、なんで?」
文月は、店の奥の方のシャツの置いてある棚を物色し始めた。私はだから、文月の後ろからそう尋ねてみた。文月は胸のあたりに大きな文字で『non-sense』と書かれたシャツを抱えたまま、振り返って、
「何で多恵姉ぇは、若菜があの歌で事故の事を言ってると思ったの?」
「だって、『あらしの夜』、でしょ? 事故のときも嵐だったみたいだし」
文月はそれを聞いて、ふう、とため息をついた。
「新潟の冬の嵐は吹雪でしょ」
「……あ」
「あの手紙が書かれた頃の嵐とは、ぜんぜん違うよ?」
たしかに。私たちは冬に新潟の祖父母の家に行くことはないから失念していたけど、新潟は豪雪地帯だ。冬の顔はほかの季節とは全く違う。
「だからたぶん、あの歌では事故の事は言ってないと思う。ぜんぜん景色がちがうんだもん。それに、事故ってお昼に起きたんだよね」
「うん、お昼に。……ああ、だから夜はちょっとおかしいのか」
「そういうこと」
文月はシャツを鏡の前であてがってみて、「ちがうかな」と言って棚に戻す。そして他のシャツを手にとった。
「じゃあ、あの歌は何を言ってたんだろ。こいのぼりは、でも、家族のことだよね」
「たぶんそれはそうだと思う。お空にいる家族」
つぎのシャツには『your love is fake』と書かれていた。文月はその言葉を指さして、「なんて意味?」と訊いてきたから、「あなたの愛は偽物」と答える。文月はなぜか、「いいね」とつぶやいた。
「多恵姉ぇもさ、さっきこいのぼり見たよね、橋のとこで」
「ああ、うん。あのおっきいやつね」
烏畑橋から見たこいのぼり――大、中、小の鯉――を思い出す。風が強くて暴れるようにはためいていた。
「若菜があの歌で言ってたのってさ、夜にお家で起きてた夫婦喧嘩とか、もしかすると、どめすてぃっくばいおれんすとか、そういう事じゃないかな」
文月はシャツをしげしげ眺めながら、そんな突拍子もないことを、いたって平坦な口調でそう言った。だから私は一瞬言葉を失って、でも、
「はあ? ……え、それって、嵐だとこいのぼりが激しく揺れて、それでそんなことを連想するってこと?」
「そう」
文月は偽物の愛を書いたシャツを鏡の前であてがって、満足そうな顔をした。この子のセンスはまるで分らない。
「文月、それちょっとひどいこじつけじゃない?」
「そうかな」
文月は服の値札を見て嬉しそうに笑った。そして「これにしよ」と言って、そのシャツを大事そうに抱きしめる。
「でも、それってあると思う。だって、若菜の家族って変だもん」
「変って、なにが」
渡足が訊くと、文月はふっと笑って、シャツを棚に戻すと、すたすたと店の外に歩いて行った。私はそれをあっけにとられながら見て、でも、すぐにはっとして追いかけた。
「ちょっと、文月、どこに行くの!」
だけど、そう歩かないうちに文月は足を止めて、私に腕をつかまれる。そしてくるっと振り返って、言った。
「何で多恵姉ぇはあたしを止めたの?」
「何でって、どっか勝手にいかれたら困るでしょ」
「だよね」
文月は笑って、服屋に戻るために歩き出す。私はわけがわからないまま、文月の後をついていく。
「多恵姉ぇも知ってると思うけどさ、若菜の家族はパーキングエリアで、トラックに突っ込まれて死んだんだよ」
「うん。それは知ってるよ。それがなに?」
「それで、若菜は一人だけ、トイレに行ってたから助かった」
「……え」
そう言われて、私はようやく文月の行動の意味が分かった。確かに、若菜の家族は文月の言っている通り、変だ。
「あの時、若菜は一年生だよ。吹雪のパーキングエリアで、一人でトイレに行かせるなんて、若菜の家族は変だよ」
「……それは、そうだけど」
「だけど?」
文月は少し挑発するような口調で私の言葉を繰り返す。私たちはまた服屋の中に入った。店員さんに「いらっしゃいませー?」と言われた。
「だけど文月、若菜の家族って、そんなに仲悪そうだったっけ? そんなイメージ、ぜんぜんないけど……」
「いや、多恵姉ぇ、さ、あたしたちと若菜の家族って、そんなに会ってなくない? あたしが覚えてるのでも、三回くらいだよ。それに、家族の仲なんて、一か月もあれば簡単に変わるよ。多恵姉ぇが知ってる若菜の家族が、本物っていうわけじゃないんだよ」
シャツの棚に戻ってきて、文月はまたシャツを物色し始める。そして、『What you see cannot be true』とやたらおしゃれなフォントで書かれたシャツを手に取って、「なんて意味?」と訊いてきたから、私は、少し息をのんで、「あなたの見るものは、真実ではあり得ない」とこたえた。文月は「おお、なるほど」と笑って、でも、「これも買おっと」と言って抱きしめた。
「まあ、こじつけかもね。ぜーんぶあたしのひどいこじつけ。でもさ、多恵姉ぇ、違うなんて言い切れないよ。それに、それならそれで、若菜は幸せだよ。ひどい家族とさよならできたんだから」
「そんなこと……」
その後の言葉は言えなくて、私はうつむいた。
「ないならないで、あたしはいいと思うよ」
そう言って文月は二枚のシャツを抱えると、レジに向かっていった。
私はその背中を見た時、なぜか小学四年生の文月が私なんかよりもよっぽど大きな気がして、ひどく戸惑った。
夜。雨粒が窓にたたきつけられる音を聞きながら、私は若菜に送る手紙の文面を考えていた。昼に文月が言ったことを、確かめたかった。でも、そんな事を直に文章で書けるわけがない。だから、若菜に倣って歌でも書くべきなんだろうけど。
「思いつかないっての……」
こちとら俳句と川柳の区別もつかないのだ。気の利いた歌なんて、書けるわけがない。
机に突っ伏して、息を吐く。なんだか自分がすごくちっぽけで、取るに足らない存在で、幼稚な、そんな気がしてきて、やるせない思いにつぶれそうになる。
雨の音が、どんどん大きくなる。風も、さらに強くなっていく。
この嵐の夜は、忘れることができなさそうだ。
自嘲気味に笑って、私は便箋をくしゃりと握りつぶした。
五月四日の夜は雨。五月五日がどうなるかは知らないけど、こどもの日に向かって、暗い空はじわじわと駆けていった。
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