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南北朝漫談② 国防と革命


「国防と革命」だなんて、物騒な話だと思っただろうね。今回は、中国の南斉の初代皇帝蕭(しょう)道(どう)成(せい)という男が、国防を担う一武将から易姓革命(王朝の姓をかえて天命を改める、つまり国家を奪うこと)するまでの話をしよう。(注釈は基づいた史料を示しただけだから、読まなくてもいいよ。)


南北朝時代の始まり

晋の三国統一もつかの間、四世紀には戦乱で晋が自壊し、華北は遊牧民たちが割拠した(五胡十六国時代)。一方、まだ安全な江南に逃げていた晋の皇族が建康(今の南京)で皇帝に即位し、晋を継いで南中国を治めた(東晋)。それからほぼ九十年後、貴族同士が内戦して、勝った大軍閥の桓玄が東晋を滅ぼした。一度滅亡した東晋を救ったのが、貧しい武人出身の劉裕だ。劉裕は東晋再興と華北の二つの遊牧国家を滅ぼした功績で東晋から皇位を譲られ、ついに宋を建国した(『宋書』、以下『宋』と略、巻一武帝紀)。

この宋以後の、斉梁陳の四王朝をまとめて南朝と言う。華北は、五胡十六国時代の混乱の後、鮮卑の拓(たく)跋(ばつ)氏が建てた北魏によって統一される。北魏、北魏分裂以後の東魏、西魏、北斉、北周をまとめて北朝と言う。(北魏は雲崗石窟を建てた国で、隋唐も同じ拓跋氏から出自している。) 華北統一以後の北朝と、宋以降の南朝が並立した時代を、南北朝時代と呼ぶ。


宋の国防危機

 蕭道成の転機は明帝の即位だ。当時の皇帝(前廃帝)は十七歳ながらひどいやつで、四六五年に補佐の大臣らを殺した後、宮中におじたちを監禁して、さんざんにいたぶっていた(『宋』巻七二文九王 休仁)。(えっ、そういうグロい話が聞きたいって? いやいや、極端なエピソードよりも、時代を動かす人間模様の方が面白いから、今回は割愛。) 日々の虐待のなか、明日をも知れぬ明帝は、皇帝の側近たちと結託して(『宋』巻九四恩倖 阮佃夫)、甥である皇帝を殺し、その勢いで即位した(『宋』巻八明帝紀 泰始二年十二月)。

さてその時、各地の州長官たちが、「おじがおいを殺すとは何事だ、帝の弟君が即位すべきだ」と、明帝の即位を認めずに、殺された皇帝の弟である劉子勛(くん)を担いで、明帝に反乱を起こした。こうして、宋のほとんどの地方官が、明帝を倒すために都に攻め上ってきた。

最初は明帝が殺されるかとも思われたが、翌年の四六六年八月に盟主の子勛が殺され、十二月には明帝側が各地で勝利した。だが、明帝に降伏したはずの国境沿いの州長官らが北魏に寝返って、北魏を引き入れた(『宋』巻八明帝紀 泰始二年十二月)。四六七年八月には、北魏が淮河対岸まで進撃し(『魏書』巻五一孔伯恭)、四六九年五月には山東の人民が北魏の都に強制連行させられた(『魏書』巻六顕祖紀 皇興三年五月)。地図(谭一九八二参考)上だとこんな感じ。



辺境防衛

こうして、北魏が淮河の近くまで来ると、今にも北魏が淮河を渡って攻め込みかねない。だから、明帝は蕭道成を淮陰(淮河沿いの狭い地区)に駐屯させた(『南斉書』、以下『斉』と略、巻一高帝紀)。蕭氏は、宋の初代皇帝劉裕の継母(孝懿皇后)の一族(『宋』巻四一孝懿蕭皇后)、すなわち外戚ではあるが、当時は単なる武人の家系だった。蕭道成は、千人ばかりの手勢だけ連れて淮陰に渡り、難民の受け入れをしつつ、北魏の侵入に備えた(『斉』巻二八蘇侃)。

重要な州の長官には皇族を置き、国防を担う州長官たちが王朝にそむかないようにするのが、宋の国防の大原則だった(『宋』巻七八劉延孫、巻五一劉義慶 川勝一九六四))。だが、明帝の子どもやおいが少なく(『宋』巻八十孝武十四王 永嘉王子仁で、明帝が子仁にたいしてそう述べている。)、淮河沿いまで皇子を派遣できなかったから、明帝は淮河沿いの防衛を蕭道成に任せた。

いつ北魏が攻めてくるかわからない状況で、蕭道成は淮陰で多くの人と厚いきずなで結ばれた。郡太守の李安民(『斉』巻二七李安民)、自ら北魏に何度も侵入して領土回復を目指した垣崇祖などは(『斉』巻二五垣崇祖)、政府公式の職についていながら、蕭道成の仲間になった。また、反乱した地方官の将軍になっていた垣栄祖などのお尋ね者(『斉』巻二八垣栄祖)、北魏の強制連行から逃れてきた載僧静などの難民(『斉』巻三十載僧静)、道成の部下の親戚の崔慧景(『斉』巻五一崔慧景)、道成の遠戚の従者だった紀僧真(『斉』巻五六侫臣・紀僧真)、反乱軍について負けて以来公職を離れていた荀伯玉(『斉』巻三一荀伯玉)など、様々な人が来た。

一旦北魏の侵入が落ち着いたからなのか、四六八年には別の州の長官に淮陰を治めさせた(『宋』巻八明帝紀泰始四年七月)。だが、荀伯玉に北魏と小競り合いさせて(『斉』巻三一荀伯玉)、「北魏を防ぐには蕭道成でないと。」ということで、再び淮陰に戻った(『斉』巻一高帝紀、安田一九七〇、三二六頁注四)。

宋は、辺境にいる蕭道成が周辺の地方官と結託するのを恐れた。そのため、李安民が再び淮陰に出た蕭道成と結んだ際には転任させた(『斉』巻二七李安民)。また、蕭道成が他の州長官に連絡を取って結託しようとしたら(『斉』巻二七王玄邈)、密告されて都に転任させられかけた(『斉』巻一高帝紀)。結局、疑われた末に、四七一年には都に帰らされた(同)。


逃げたい男

明帝の死後、その長男(後廃帝)が即位した。四七四年には、四大臣の一人として国政に携わった(同)。また、都で近衛を掌る中領軍にも任命された。すると蕭道成は、「庶(こ)いねがわくば止足を保ち、淮湄に輸効せん。如し匈奴(きょうど)を伐ち、凱歸反旆(はんはい)せしめ、此を以って爵を受くれば、復た固辭せざらん。」(『斉』巻二三褚淵)と言って、就任を断った。つまり、過分の昇進を断り(止足)、再び淮陰で功績を立て(輸効淮湄)、匈奴すなわち北魏に勝って凱旋させてくれたら受けたい、と言ったわけだ。やはり、都で王朝の監視下にあるのは不安だから、淮陰に帰りたいのだろう。(防衛を担っておきながら、敵をわざと動かしただけのことはあるな。)だが、褚(ちょ)淵(えん)ら貴族の頼みによって(同)、無理に都に残らされた。

都に残った蕭道成は、皇居近くの広陵(こうりょう)という町へ逃げようか、淮陰防衛に戻ろうか、迷っていた。『資治通鑑』では昇明元年条の後廃帝の死の前(元徽五年)に道成の不穏な動きをまとめているが、正確な年代は『斉』からははっきりわからない。ある日、広陵に入って反乱しようしたが、「広陵の人が入れてくれなかったら (『斉』巻二八垣榮祖)」、「すぐ討伐されます (『斉』巻五六侫臣・紀僧真)」と部下たちが反対し、お流れになった。またある日道成は、結託している垣崇祖や劉善明に、北魏を動かすよう頼んだ(『斉』巻巻二五垣崇祖、二八劉善明)。さらににも北魏に入れと指示した。北魏軍とわざと衝突して淮陰に戻ったことに味をしめて(『斉』巻三一荀伯玉)、北魏と衝突して再び淮河沿いの防衛に向かおうとした。だが、部下に止められ、北魏への工作は行われなかった(『斉』巻二八劉善明)。

蕭道成は、反乱を企んでは止められるだけだった。淮陰で増やした仲間たちでは宋の国家を乗っ取れなかった。



皇帝殺し

ここで、四七七年七月に、蕭道成に結んだ下級役人の王敬則らが皇帝を殺害し、情況は一変した(『宋』巻九後廃帝紀、『斉』巻二六王敬則)。『宋書』には残忍な皇帝だったと書いているが、ほんとかどうか。皇帝が死亡した翌朝、貴族の袁粲(えんさん)、褚淵、皇族の劉秉(りゅうへい)とともに、今後の方針を相談した。その際、王敬則が劉秉と袁粲を刀で威圧したから(『斉』巻二六王敬則)、劉秉と袁粲は縮み上がって、国政の主導権を委ねられても断った(『斉』巻一高帝紀)。蕭道成は、褚淵の提案で主導権を委ねられ (『斉』巻二三褚淵)、皇帝の弟の劉準を即位させた(『斉』巻一高帝紀)。

皇帝を殺して別の人を立てるなんてことが起きたら、誰かが異議を唱えて反乱してもよさそうだ。だが、七歳や八歳の皇子しかいなかったから(『宋』巻九十明四王 ただし、劉秉など、初代皇帝直系でない成人の皇族はいる。)、蕭道成が皇族に皇帝殺害の罪で殺されることはなかった。


大反乱

 蕭道成は全国的な反乱に遭遇した。皇帝が死んだその年の年末、沈攸之(ちんゆうし)という明帝に後を託された武将が、任地の荊州(今の武漢の西にあった江陵を州都とする大州)から大軍を率いて長江を下り、都に攻め上ってきたのだ。おまけに、袁粲・劉秉と、明帝の皇后の甥の王蘊(おううん)らが、宮中で道成殺害を図った(『宋』巻八九袁粲)。沈攸之を鎮圧しにいくはずだった武将の多くが袁粲らを討つ方にまわった(『斉』巻二四柳世隆に上がっている人名と各人の伝より判断。)。だから、隣の州長官劉(りゅうしょう)(殺された帝の八歳の弟)のもとで幕僚をやっていた長男の蕭(しょうせき)らを沈攸之と戦わせた(『斉』巻二武帝紀)。

沈攸之は劉を奉じて都に下ろうとしていた (『宋』七四沈攸之)。だが、蕭が断固拒んだので、皇子を奉じて反乱を正当化できず、朝敵として攻撃され、自殺に追い込まれた(同)。都で起きた袁粲らの反乱もあえなく鎮圧された。こうして、沈攸之らの反乱を鎮圧して、沈攸之、袁粲、劉秉が同時に打倒され、有力な大臣は、道成に協力的な褚淵だけになった。


私兵がものをいう

 蕭道成が勝てた理由は、もちろん淮陰沿いで結んだ仲間の連れる私兵(当時の言い方だと部曲)が一つだろう(安田一九七〇)。だが、それまで蕭道成と結んでいなかった人々が、私兵を率いて鎮圧に協力したことも大きい。周山圖や垣崇祖が私兵を率いて蕭に馳せ参じたから(『斉』巻二五垣崇祖、巻二九周山圖)、沈攸之は平定された。蕭道成は、私兵を持つ人々の協力が必要だからこそ、沈攸之らに内通していた黄回さえ(『斉』巻三十桓康 だが、『宋』巻八三黄回にはない。)、しばらくは殺さずに腹心として扱った(『斉』巻三十桓康)。やはり、乱世になると、公的な国家の軍隊よりも私兵国家のゆくえを左右する。


国家になりかわる

さて、宋で唯一の権力者になった蕭道成は、各地の州長官を自分の親族に置きかえた。要地に皇族を置くという国防大原則は破られた。昇明三年(四七九)三月(以下は『斉』巻一高帝紀)、皇帝は、「若い時から北魏と戦い、自分を即位させ、悪大臣の袁粲らを倒した道成の偉大な功績に報いるには、相国(太政大臣)に任命して公国を与えねばならぬ」という詔を出して、道成を相国・斉公に任命した。公爵は普通一郡や一県を領土とするが、道成には十郡もの広大な領土が与えられた。そして、斉公国には王朝と同じ官制をしくことも許可された。数日後、斉公国を王国に格上げした。こうして、宋の中にできた斉公国が膨張して、宋と同じ機関になっていった。最後は、宋の皇帝が「有徳な斉王の蕭道成に皇帝の位を譲ろう。」という詔を出して、自ら退位した。正確には、貴族たちが皇帝にそうさせた(『斉』巻二十三王倹)。これで、蕭道成は皇帝になった。こうして南斉が成立した。


制作裏話

自粛生活中に、『南斉書』、『宋書』を読み、南斉の建国について調べていた。その時、北魏に淮河の北の領土を奪われたことが、宋の歴史を決めたと思った。だから、国防を担う蕭道成が宋を滅ぼす過程を書いてみた。「南朝では短命な王朝が興亡を繰り返した」とはどういうことかが伝われば幸いである。


参考文献

川勝義雄一九六四「劉宋政権の成立と寒門武人―貴族制との関連において―」(『六朝貴族制社会の研究』一九八二年、岩波書店、三〇五―三二五収録)

川勝義雄(二〇〇三)『魏晋南北朝』講談社学術文庫

谭其骧主编一九八二『中國歴史地圖集』第四冊 地图出版社

安田二郎一九七〇「蕭道成の革命軍団―淮陰時代を中心に」(「南斉高帝の革命集団と淮北四州の豪族」に改題の上、『六朝政治史の研究』二〇〇三年、京都大学学術出版会、三〇七―三三三頁に収録)

史料   『魏書』『資治通鑑』『宋書』『南斉書』中華書局

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