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有末ゆう

コーディネートはこーでねーと

☆やっぱり暑い十二日目


 八月三日の快晴の空は、万人の毒気を抜き去ってしまいそうなくらいに青く澄んでいた。照り付ける日差しはひどくまぶしくて、公園の砂は真っ白に焼けていた。

 こんなに暑いのに、子供は元気だなあ。

 広場で遊ぶ妹たちの声と公園に響くセミの声をどこか遠くに聞きながら、|支倉春風《はせくらはるかぜ》は自分もまだ小学生なのにそう思った。でも、春風はただの小学生じゃない。六年生の小学生だ。だから春風は妹と公園に来ても広場ではしゃぐことなんてしないで、隅っこのベンチに座って、ちょっと背伸びした本を読む。お父さんの本棚からこっそり持ち出した、夏目漱石の『こころ』だ。だけど春風にはやっぱり書いてあることがあまりわからなくて、「ナツメソウセキノココロ」を読んでいるのだという事実だけでとりあえず満足する。

 むずかしい漢字、それとむずかしい言葉と格闘していたら、ぽたり、と水滴がページに落ちた。それで春風は自分が汗をかいているのだということに気が付いて、顔を上げた。途端にアブラゼミの声がこんなにもやかましいことに気が付く。さっきまで自分を覆っていた木陰がちょっと離れたところに逃げてしまっている。春風はすこし座っている場所を変えて、木陰に逃げ込んだ。

 熱中症になったらだめだから。

 春風はカバンから水筒を取り出して、キンキンに冷えた麦茶をぐいぐい飲む。そしてタオルで汗を拭いて、公園の中央にそびえたつ時計を見た。時間は三時二十分。もう八月三日っていう一日の終わりが近くなってきている。

 朝起きた時は今日っていう日がずっとずっと長く続くと思っていたのに、もうこんなだ。

 いっつもそうだ。お昼ご飯を食べ終わったら、時間はどんどん過ぎていく。 

 終わってほしくないって思えば思うほど早く過ぎていく。

 それは夏休みだっておんなじだ。

 八月になったとたんに夏休みは本気を出して走り出す。

 八月になったとたんに、カレンダーは残り時間を丁寧に教えてくる。

 でも、そんなもんだよね。

 春風は最近便利な言葉を覚えた。「そんなもんだよね」だ。これを言っておけば、小学六年生の春風はすこし大人になれる気がする。世の中をわかっている風に感じる。

 そんなもんだよ。

 ジワジワ、ジージージー。

 八月に入ってからはセミの鳴く声が春風をひどく焦らせる気がしていたが、「そんなもんだよ」があれば大丈夫な気がしているのだ。

 春風は公園の広場に目をむけた。この公園、塩釜公園は住宅街の真ん中にあるこじんまりとした公園だ。いつもならほかに遊んでいる子供も何人かいるが、このところは特別暑いから春風たちしかいない。この公園は西半分が広場になっていて、東半分は遊具があったり、砂場があったりするが、小学生はみんな東半分では遊ばない。遊具で遊ぶのは幼稚園の子たちまでで、遊具で遊ぶ小学生はダサいのだとみんな何となくそう思っているからだ。しかし、鉄棒とブランコは西側にあるから使ってもいいという暗黙の了解もあったりするから不思議なものだ。

 春風の妹、|支倉咲良《はせくらさくら》は小学二年生だ。だから咲良は西側の広場で遊ぶ。

今日も咲良は幼馴染の|赤井手雨《あかいであめ》と一緒だ。咲良と雨はクラスも同じで、雨が一番背が高くてその次が咲良なものだから、ことあるごとに背の順で並ぶ小学校では二人はいつもくっつくことになって、なおさら仲がいいのだと春風は思っている。

 今日も、二人は一緒に縄跳びをしている。殺気とほとんど同じような白い日差しを浴びて、こんなに暑いのにずっと二重とびの練習をして、汗をだらだらかいている。だけど二人はそんなことは気にも留めずにずっと縄を回し続ける。

 ちゃんと水飲ませないとな。

 子供だなあ、二人とも。

 春風は本を閉じて、立ち上がって二人の方に向かう。広場は、地面の白い砂が太陽の光を反射していてベンチの場所なんかよりずっとまぶしかったから、春風は思わず目を細めた。

「咲良、雨、水ちゃんとのみなさい。ほら、汗もちゃんと拭いて」

 水筒とタオルを二人に渡して、春風はお姉さんぶる。でも本当にお姉さんなのだから、何にも悪くないのだ。

「むう、いまいいところなのに」

 咲良はちょっとむくれて文句を言う。

「ありがとう、ハルちゃん」

 雨は素直にお礼を言う。

 こういうところで、やっぱり雨の方が咲良より大人なんだよね。

 春風は咲良を小突いて、雨の頭をなでる。

「おりゃ」

 小突かれた咲良は春風のくるぶしめがけてキックを放つ。春風はひょいとよけて、かわりにキックを放った咲良の足を掬い上げるみたいに蹴って、咲良を転ばせる。雨は、あはは、と苦笑い。

「お姉ちゃん、雨ばっかりひいきしてる!」

 転げた咲良はすぐに立ち上がって春風をぽかぽかと殴ろうとする。でも四歳上の春風はこともなくすぐにそれをおさえてまた地面に転がす。

「ひいきじゃない。雨の方が本当にいい子だからだよ。咲良ももう少し大人になりなさい」

 わあ、大人っぽいせりふ!

 もう少し大人になりなさい。自分で放ったその言葉の響きがじいんと胸を揺さぶり、春風は少ししたり顔になって、またベンチに戻る。そして開いた「ナツメソウセキノココロ」はもっと春風を大人にするような気がした。


 日の光が間延びしてきた。春風が顔を上げて時計を見ると、四時五十分だった。五時には帰りなさい、と言われているから、もう帰らなくてはならない。広場を見ると、アブラゼミの鳴き声の中で、咲良が一人で二重とびの練習をしていた。春風は荷物をまとめて、咲良のもとに向かう。

「雨は?」

「帰った。塾があるんだって」

「へえ。まだ二年生なのに、えらいんだね」

 春風はふつうに公立の中学校に行くから、塾に行ったりはしない。周りに何人か私立の中学校を受ける子たちもいるけど、それでもみんな塾に入ったのは四年生くらいからだった。

 べつに、春風は勉強が嫌いなわけでは無いし、不得意なわけでもない。私立受験をする子たちよりもテストでいい点を取ることだってままある。だけど、別に好きなわけでは無い。国語の教科書に載っている話よりも面白い小説はお父さんの本棚にたくさんあるし、算数の問題を解くのはつまらないし、理科の実験は教科書通りのものになることがあらかじめわかっているし、社会科は学習漫画を読んでおけばそれで事足りる。学校の授業で勉強することで楽しいことなんて、なあんにもないのだ。

 そんな楽しくないことを、学校が終わっても塾でやる。自分に苦痛を、勉めて強いる。

 それは、たぶんえらいことなんだと思うけど。

「じゃあ、私たちもそろそろ帰るよ。……あ、咲良、まだ夏休みの宿題終わってないでしょ。七月には終わらせよう、って言ってたのに。帰ったらちゃんとやるんだよ」

「むう……」

「むくれないの。雨を見習いなさい」

 その言葉で咲良はすっと無表情になる。それで、でも、一瞬肩を震わせて、

「……もう、わかったから。ちゃんとやるよ」

 不服そうな声で答えた。そして縄跳びを結んで、ズボンについた土をぱんぱん、と払って。

「あ、私トイレ行ってくる。ちょっとまってて」

 咲良は縄跳びを春風に渡して、トイレに走って行った。

 トイレはこの公園の東側の端っこにある。小学生が東側に入るときの例外の一つだ。

 春風はそのまま突っ立てるのも何だったから、さっきのベンチに戻ってぼんやりする。木陰はやはり、いくぶん居心地がいい。

 八月の五時はまだまだ明るくって、これなら六時まで公園にいたっていいような気もする。春風は外で本を読むのが好きなのだ。暑かろうと、寒かろうと、自然の光の中で自然の風を浴びながら本を読んでいるのが心地いいのだ。

 こんなに明るいなら、まだ外にいたい。

 でも、そのへん、お母さんは融通が利かない。

 そんなもんだよね。

 そう、そんなものだから仕方がないのだ、と、春風は最近覚えた便利な言葉であきらめる。

 しばらくして、咲良がトイレから出てきた。ハンカチをもっていないのだろう、手をぷるぷる振りながら戻ってくる。と、咲良はふと足を止めて、時計台のすぐ下に茂っている植え込みをじっと見た。身をかがめて、のぞき込むように。それで、だけどすぐに顔を上げて、春風の方に寄ってきた。

「何見てたの?」

 春風はタオルを咲良に渡して尋ねる。咲良は手を拭きながら、

「えっと、あの中に一円玉が落ちてて。でもとれなさそうだったからやめた」

「ふうん」

 もちろん春風は六年生だから落ちている一円玉を拾ったりはしない。拾うなら百円からだ。

 でも、いつもの咲良なら、茂みに手を突っ込んでも拾おうとするのに。

 ちょっと大人になったのかな。

 春風はそんなことを思いながら、咲良と一緒に歩き出す。

 八月三日の終わりは近づいていた。


☆じめじめ進む十三日目

 

 八月四日は曇りだった。太陽の光は白い雲に拡散して鋭さを持たない。セミの鳴き声が騒がしいのは、昨日よりも気温が低めだからだろう。だけど代わりに湿気がじっとりと春風を包み込んでいる。こういう暑さからは逃げることがむずかしいから、春風は夏の曇りは好きではない。

 まあ、家の中よりましだけど。

 春風は今日もベンチに座って、ちょっと背伸びした、いや、どう考えても背伸びしすぎた本を読む。お父さんの本棚の奥から引っ張り出した『論理哲学論考』だ。「ロンリテツガクロンコウ」という音の響きが素敵だったからこれに決めたけど、全く何が書かれているかわからない。だけど、読めなかった、といってすぐに諦めるのはあんまりにも子供っぽいから、春風はぜったいに最後まで読んでやる、と心に決めている。

 蒸し暑いのに、子供は元気だな。

 三・四一まで読んで、頭がくらくらしてきたから春風は顔を上げた。今日も相変わらず咲良と雨は広場で縄跳びをしている。違うのは、公園に昨日よりも多くの子供がいるということだ。

 子供もセミも、おんなじ習性なんだ。

 でも大体は小学生で、みんな西側の広場にいる。やっぱり暑いからだろうか、東側の遊具で遊ぶような小さい子たちは来ていない。

 春風はあくびをして、時計を見た。時間は二時四十三分。もう一日が全力疾走を始める時間だ。春風は少し憂鬱になって、ロンリテツガクロンコウに目を落とした。それで、よくわからない文章を目で追い始める。

 この、『幾何学』って何て読むんだろう。

 むずかしい漢字を目で何回もなぞる。そうしているうちに、春風の視界はぼんやりと薄くかすんできた。そうして、外の音がぽけぽけとあいまいになってきて、今自分が考えていることと実際に起こっていることの区別がつかなくなってくる。景色はパステルカラーに染まってきて、ごちゃごちゃといろんなものが踊りだす。セミの声が溶け始めた。

 春風は、こういう瞬間が最高に好きだった。

 

「ねえ、ハルちゃん」

 その声で、春風は目を明けた。眠っていたようだ。

 ジワジワ、ジージージー。

 意識がはっきりとするにつれ、春風の耳にセミの声が大きくなって流れ込んでくる。

 そうだ、本は……。

 はっとして手元を見る。でも、ロンリテツガクロンコウはちゃんと膝の上にあった。春風はお父さんの本を汚さないで済んだことに少し安堵して、顔を上げる。目の前には、雨がいた。

「だいじょうぶ? 熱中症?」

 雨は心配そうに春風の顔を覗き込んでいる。春風は首をかしげて、

「ん? ううん。大丈夫だよ」

 笑ってそう答えた。

「よかったあ。ハルちゃん、目閉じてずっとうつむいてるんだもん、心配しちゃった」

 ほっとした顔で、雨は春風の隣に座った。結んだ縄跳びを膝の上にのせて、行儀よく背筋をピンと伸ばしている。

「雨は、どうかしたの? 休憩?」

 春風はカバンから水筒とタオルを出して、雨に渡す。雨は「うん」と頷いて、水筒の中のキンキンに冷えたお茶をぐびぐび飲む。それで、タオルで額の汗をぬぐった。

「つかれちゃって」

 ふへえ、と、気の抜けた息をついて、雨はピンと伸ばした背筋をふにゃりと曲げた。そして、広場で一人であやとびの練習をしている咲良を眺める。

「仲いいよね、あんたたち」

 春風もお茶を飲む。時計を見ると三時。眠っている間に汗をけっこうかいたのだろう、冷たいお茶は春風ののどに気持ちがよかった。

「うん」

 雨は嬉しそうにうなずいて、ポケットの中から黒くてつるつるした石を取り出して見せた。

「この前学校で川に行ってね、その時に咲良といっしょにきれいな石探して、交換したの」

学校で川に行く。春風たちが通う池場小学校では、二年生は近くの大百川の河川敷で野外学習を行う。大百川はかつて生活排水のせいでひどく汚れていたが、その後の運動によって今では川底が透き通って見えるほどにきれいになったという歴史を持つ。そのことを小学生に伝えて環境保全の重要性を教えたり、身近な自然や生物に触れさせるという試みだ。

 多分四年生くらいでやった方がいいと思う。

 春風は自分が二年生だった時のことを思い出す。河原の実習の、おぼろげな記憶。普段なら教室にいる時間に河原で遊べた。そのことがうれしかったことだけしか覚えていない。

 きっと雨も楽しかったんだろうな。

 こんな石ころを大事そうにしちゃって。

「いい石だね。きれい」

 春風は雨の持つ石をじっと眺めて、そう答えた。

 私にも、そんな時期があったよなあ。

 小学六年生の春風は遠い日の記憶(でも四年くらい前)を懐かしんでみる。懐かしんでみると、大人っぽい気がしてうれしくなった。

 そうか、過去を懐かしむのが大人なんだ。

 春風はちょっとした真理を垣間見た気がした。

「いちばんの宝物だよ、この石」

 今を目いっぱい生きる雨はにこにこ笑って、大事そうに石を撫でた。

 まあ、そうは言ってもすぐにその石はなくしちゃうんだろうけど。

 春風はシニカルにそう思った。春風は知っているのだ、子供は一か月もたたないうちにいちばんの宝物が変わってしまうことを。

 そんなものだよね。

 だけどそんなことを口にするほど春風は子供ではないので、「そっか」と言って雨の頭をなでる。雨は少し恥ずかしそうにしながら、でも自分から頭を春風の手のひらにすりつけた。

「お姉ちゃん」

 なんだか不機嫌そうな声がした。

 いつの間にか、目の前には咲良がいた。春風に頭をなでられている雨を見て、ぶすくれた顔をしてる。

「お茶ちょうだい」

 咲良はぶっきらぼうにそう言って、ベンチに置いてあった水筒をとってぐびぐびお茶を飲む。そして、雨の手からちょっと乱暴にタオルをとって、がしがしと汗をぬぐった。

「トイレ行ってくる」

 咲良はそう言って、縄跳びをベンチにおいて駆け出す。

 なんかわからないけどすねちゃって、子供だなあ。

 春風はトイレに駆ける妹の背中を見て、憎たらしいやつだ、と思った。だけど春風の横で咲良を見ていた雨は、「あ」と、聞こえないような小さな声をあげて、すすっと、自分の頭を春風の手から離した。春風はそれに気が付いて、ちょっと残念に思う。雨の髪の毛はふわふわで、触ってて気持ちがいいのに。

「ハルちゃん、さ」

 雨がもじもじしながら上目遣いに春風を見る。春風はそのしぐさにきゅんとした。なんで同い年なのに、こうも咲良と違うものか。

「咲良のこと、かわいがってあげてね」

「……?」

 あの憎たらしいのをかわいがる? 

 なんでそんなことをしないといけないんだろう。

 素の疑問符で返されて、雨は返答に窮した。「あっと、えっと」と小学二年生の語彙を頭の中でこねくり回しながら、雨は何とか自分の考えていることを言葉にしようとする。

「たぶん、咲良は、ハルちゃんがあんまりやさしくしてくれないから、その、さびしいんじゃないかな、って」

「ふうん」

 それはないとおもう。

 でも春風は「そっか」と返事をしておいて、また雨の頭をなでようとする。雨は一瞬ためらって、でもちょっとうれしそうに頭をよせた。

 雨としては、春風に頭を撫でられるのはうれしい。お母さんはあんまり褒めてくれないし、あんまり甘えさせてもくれないからだ。雨はこの前の塾のテストで七十点しか取れなくてお母さんに怒られたことを思い出しながら、春風の柔らかい掌の暖かさをいとおしく思う。

「あ」

 だけど、トイレから咲良が出てくるのが見えて、雨は春風の手から頭を離した。それで、なんでもないようにぴんと背筋を伸ばして、「いまね、あたらしい服が欲しくって」なんて話を春風にふったりしてみた。

「服ねえ」

 春風は名残惜しそうに雨の頭を見ながら生返事で返した。咲良が戻ってきたせいだ。まあ、そんなものだ。

「どんなのが欲しいの?」

「かわいいやつ」

 どんなのを着ても雨はかわいいと思うけど。

「かわいいやつかあ」

 春風はちらりとトイレの方を見てみる。咲良は手をパタパタ振って水滴を飛ばしながらこちらに歩いてくる。でも、時計台の下の植え込みのあたりで足を止めて、昨日と同じように覗き込んでいる。

 まだ一円玉なんかにゴシューシンだなんて、ほんとに咲良は子供だな。

 咲良はすぐに顔を上げて、こっちに戻ってきた。

「なんの話してたの?」

 ベンチの上の縄跳びをとって、咲良は二人に尋ねる。

「雨が、新しい服が欲しいって話」

「服! 服がほしいの?」

 なぜか咲良は興奮気味に雨に詰め寄る。雨は目を白黒させながら、「え、あ、うん」と答えた。それで咲良はぱっと春風の方を向いて、

「お姉ちゃん、私、雨をコーディネートしたい!」

「……は?」

 春風はあっけにとられてそう返すしかなかった。咲良がやたらと勢い込んでそんな事を言ったからだ。

 スタイリストごっこでもしたいのかな。

 春風は首をかしげて、雨と目を見合わせる。雨も頭にはてなマークを浮かべていた。

「だから、雨の服を選んでみたいの! 私が!」

 そんな二人の様子にじれたように、咲良はそう主張する。

「へえ。そう。どう、雨は?」

 私の方からは何も言えないかなあ、と思って、春風は雨に聞いてみる。雨は目をぱちぱちさせて、咲良の言葉を咀嚼して、

「一緒に服屋さんにいくってこと?」

 ちょっとずれた解釈をしたけど、べつに間違ってはいない。咲良は首を縦に振って、「そう。そういうこと」と答える。すると、雨は咲良を見つめる目をきらきらさせた。

「いく! 一緒に買い物したい!」

「やった! ね、お姉ちゃん、どう?」

 どうって言われても。

 春風は少し考えて、

「まあ、お母さんに聞いてみたら? あんた達、服買うほどお金ないでしょ」

 服を買うだけだし、お金とお母さんからのお許しがあればいいかな。

 春風がそういうと、咲良はうんうんと頷いた。そして、

「じゃあお母さんに話してくる!」

 と言って、春風が止める間もなく公園から飛び出していった。咲良は善を急ぐ女子なのだ。

「あ、私も!」

 続いて雨も飛び出していった。そして、春風だけが公園に取り残される。

 ジワジワ、ジージージー。

 セミの声が公園に響いている。春風がふとベンチを見てみると、縄跳びが置き去りにされて哀愁を漂わせていた。

 ほんと、二人とも子供だな。

 春風は大人っぽく肩をすくめて、カバンの中に二人の縄跳びをしまった。それで、立ち上がって伸びをする。硬いベンチにずっと座っていたものだから、腰が少し痛い。

「――っはあ。私もトイレ行こ」

 春風はそうつぶやいて、トイレに向かった。


 トイレから出て、ベンチに戻ろうとする。すると、時計台の下の植え込みが目に入った。

 一円玉が落ちてるんだっけ。

 咲良の言葉を思い出して、春風は植え込みに近づいてみた。一体咲良が執着する一円玉がどんな顔をしているのか、興味があったのだ。

 身をかがめて、植え込みを除く。

「……ああ、なるほどね」

 春風は合点がいった。というのも、植え込みの中には、ハンドボールくらいの大きさのハチの巣があったのだ。丸くて、うねうねした模様。おそらくスズメバチの巣だろう。

 だから、咲良は手を突っ込めなかったんだ。

 それでも今日もここを覗いたのは、それほど一円玉が欲しかったからなんだ。

 ほんと、子供だなあ。

 春風はくすりと笑った。それで、でもやっぱりハチの巣があるのは危険だよね、と思って周りを見渡す。すると、東側の入り口から、近所に住む蓼丸母娘が公園に入ってくるのが見えた。四歳の蓼丸文月と母の蓼丸ゆずだ。春風は蓼丸さんちの多恵ちゃんとは同級生で仲がいいから、蓼丸母とも面識がある。

「おばさん」

 春風は蓼丸母にかけよっていった。

「あら、ハルちゃん、こんにちは」

 蓼丸母はにっこりと笑って、傍らの文月に「ほら、あいさつ」と促す。

「こんにちは」

 文月は母に隠れるようにしながら挨拶をする。

「こんにちは、ふーちゃん」

 文月の頭をなでて、春風は笑った。でも、すぐ真顔になって、

「おばさん、あっちの植え込みに、ハチの巣があるの。たぶんスズメバチ」

「あら、ほんとう? えっと、ちょっと文月をよろしく」

 蓼丸母は文月の手を春風に握らせて、植え込みを覗きに行く。

 ……手、ちっちゃいなあ。

 にぎにぎ。春風は文月の手をやさしく握る。そして文月の前にかがみこんで、また頭をなでた。ちっちゃい子の髪の毛はふわふわしててなでると楽しいのだ。

「ほんとねえ。ハチの巣があったわ」

 蓼丸母は戻ってきて、困ったような声でそう言った。

「とりあえず管理センターに連絡しとくわね。ハルちゃん、あそこに近づいたらだめよ」

「うん、わかった」

 春風はうなずいて立ち上がる。それで文月にバイバイをして、ベンチに戻った。

「ふう」

 一仕事終えた気になって、春風は本を開く。

 今は三時四十五分。

 さっき一回眠ったけど、やっぱりロンリテツガクロンコウは難しかった。


 五時が近くなったから家に帰ったら、雨のお母さんが雨を家まで迎えに来ていた。

「本当にすみません、うちの娘が」

「いいんですよ、咲良も楽しんでいましたし」

 玄関で親同士がぺこぺこしあっていた。そして雨は『ウニクロ』の袋を大事そうに抱えてほくほくしている。

 もう服を買いに行ったんだ。

 春風は少しびっくりしながらその光景を眺めていた。この近くのウニクロは旧瑞橋のショッピングモール『イロン』に入っている店舗くらいだから、春風の母が咲良と雨を車で連れて行ったのだろう。

「あ、ハルちゃん!」

 雨は春風を見つけて、走り寄ってきた。

「あのね、咲良が服選んでくれたんだよ」

 咲良はぴょんぴょん跳ねながら嬉しそうに報告する。

 楽しかったんだろうな、服選び。

「よかったね。どんな服?」

「黒いやつ!」

「Tシャツ?」

「うん!」

「暑そうだね。夏には」

 咲良はどんなセンスをしているんだろう。

「でもね、咲良が、私は背が高いから黒い服がかっこよくて似合うって言っててね、すごくいい服なんだよ!」

 かわいい服がいいって言ってなかったっけ。

 まあでも、雨がうれしいならいっか。

 春風は雨の頭をなでて、

「じゃあ、今度着たら見せてね」

「うん! 明日着てくる!」

 そうして、雨と雨のお母さんは帰って行った。春風は家に入って、自分の部屋に行く。まあ、自分の部屋、というよりも春風と咲良の姉妹部屋なのだが。

「ただいま。雨と服買いに行ったんだね」

「ん? うん」

 咲良はベッドに寝っ転がってゲームをしていた。この分だと、今日は確実に宿題に手を付けていない。

「楽しかった?」

「まあ、うん」

 咲良は気のない返事で返す。春風は小さく肩をすくめて、カバンを置いた。

「あ」

 雨に縄跳び渡すの忘れてた。

 まあ、明日でいっか。

「なんかね」

 寝っ転がってゲームをしながら、咲良は春風に声をかける。

「あの服、一番の宝物だ、って言ってた」

「よかったじゃん、気に入ってもらえて。あんたが選んだんでしょ?」

「……うん」

 なんだろう、なにかあったのかな。

 春風は、やけにテンションの低い咲良を不思議に思う。それでも、大人な春風には子供な咲良の心境は分からない。

 まあそんなもんだ。

 そういえば、さっき雨が、咲良に優しくするように、って言ってたな。

 だから春風は、気まぐれに咲良の頭をなでてみた。

「え……」

 ぱっと咲良は顔を上げる。そして、お姉ちゃんに頭をなでられているこの状況に目をぱちくりさせた。

「なに……」

 いぶかしげに、でも嬉しそうに咲良は春風を見つめる。

 もしかして、雨が言ってたみたいに、本当に咲良は寂しかったのかな。

 春風は咲良の頭をなでながら、

「なんかね、雨が私にね、あんたをかわいがるように、って言ってきて。あんたが寂しそうだ、って」

 その言葉で、咲良の笑顔は凍り付いた。次の瞬間には、春風の手を払ってベッドの奥に行く。

 ……恥ずかしかったのかな。

 春風は払われた手をじっと見て、まあそんなもんだよね、とため息をついた。それで自分の勉強机の前に座る。

「宝物っていえばさ、雨がさっき、あんたと交換した石が一番の宝物だって言ってたよ。あんた、雨の一番独り占めじゃん」

「……」

 無視か。

 別に珍しくもないから、春風も自分のゲーム機に手を伸ばした。もうすぐ魚集めをコンプリート出来るのだ。

「石って」

 ベッドの奥で、咲良がつぶやいた。

「石って、あれのこと?」

 そうして、咲良は自身の机の上に置かれた石を指さす。ほんのりとピンク色の、白い石。おそらく下流まで流れてくる間に削れたのだろう、薄い楕円状でつるつるとしている。

「たぶんそれ。川で拾ったんでしょ?」

「……うん」

 咲良はそう言って、タオルケットを被った。

 ふて寝かな。

 わっかりやすい。

 春風は鼻で笑って、ゲーム機の画面に集中し始めた。

 しかし、もう少し咲良に優しくしてもいいような気もしていた。



☆さっぱりじっとり十四日目


 暑いのに、子供たちは元気だなあ。

 妹たちの遊ぶ声を聞きながら、小学六年生の春風はそう思った。八月五日は快晴。しかし気温はそこまで高くはなくて、公園には春風たち以外にも小学生が多くいる。西側にも子連れが何組かいて、いかにも安穏な夏の午後といった風情だ。

「ん!」

 腕に蚊がとまっていることに気が付いて、春風はぺちんとたたく。でも逃げられてしまって、二の腕には叩いた跡がうっすらと赤く残っただけだった。

 それで、春風は本を閉じた。昨日読んでいたロンリテツガクロンコウには結局挫折してしまったから、今日は新しい本を読む。お父さんの本棚からこっそり持ち出してきた『ラヴクラフト全集1』だ。ラヴなんていう言葉の入っているロマンチックな名前のくせにおどろどろしい表紙をしているのが春風にはとっても魅力的だったから、これにした。でもなかなかに難しい言い回しが多用されているものだから、一ページ読むのにも随分と時間がかかる。そのうえ文字がちっちゃいものだから、紙に反射する日光と相まって目が疲れる。

「トイレ行こ」

 目をしぱしぱさせながら、春風はベンチから立ち上がった。今日は風が強い。そのおかげで日差しに絞り出された汗が涼しく乾かされていくけど、同時に砂塵が汗をかいた肌に引っ付いて気持ち悪いことこの上ない。

 ついでに顔も洗おっかな。

 目がしぱしぱするのも、砂のせいかもしれない。

 地面からの照り返しに焼かれながら、春風がちょっとぼんやりとした頭でそう考える。さっきから水分補給をしていなかったからだろう。

 そういえば。

 春風は時計台の下の植え込みのそばで立ち止まった。

 ハチの巣ってどうなったんだろ。

 ひょい、と、植え込みの中を覗き込んでみる。すると、もうあのハチの巣はなくなっていた。春風が家に帰った後に無事駆除されたのだろう。春風はほっとしながら、地面の方も見てみる。だけど、おととい咲良の言っていた一円玉は落ちていなかった。

 誰かが先に拾っちゃったのかな。

 咲良、残念がるだろうな。

 お姉ちゃんらしく、春風は咲良の残念そうな顔を思い浮かべる。そしてお姉ちゃんらしくいいことを思いついた。

 そうだ、私が一円玉を置いておけばいいんだ。

 それで、咲良は喜んで拾うと思う。

 なんて妹想い……!

 早速ポケットに手を突っ込む。そしてじゃらじゃら言わせながら中身を引っ張り出すと百円玉が一枚と、十円玉が六枚、そして一円玉が二枚入っていた。だから春風は一円玉を植え込みの中に置いて満足そうな顔をする。

 これでよし。

 そうして、春風はトイレに向かった。


 ベンチに戻って広場を眺めると、咲良たちは数人で缶蹴りをしようとしていた。見たところ、一年生から三年生くらいの子たちだ。小学生だから、一年生と三年生ではずいぶんと体格が違う。みんなで缶を囲んで、学年でのハンデをどうするかを考えているようだった。

 缶蹴りか。

 昔私もよくやったな。

 一週間前にクラスメイトたちと学校で缶蹴りに興じていた記憶はいったん忘れて、春風は大人っぽく感慨にふける。そして、一年生の時自分が鬼になって全然勝てずに泣いていたことを思い出したから、春風は感慨にふけるのを中止した。

 でも、広場では缶蹴りが始まる。一年生の子たちは三人で鬼をやっていいというハンデになったらしく、三年生と思しき男子が強烈なキックで吹っ飛ばした缶を、ちっこい一年生三人がわらわらと取りに走る。

 春風は咲良と雨の方に目を向けてみる。

 雨は、昨日買った黒いシャツを早速着てきていた。やっぱり夏に着るには暑苦しい見た目だったけど、雨はさっき春風に満面の笑みで自慢げに見せつけてきた。よっぽどうれしかったようだ。

 咲良と雨は二人で少し相談しているようで、咲良が時計台の下の植え込みの方を指さして、雨がそれに頷く。それで、咲良は公園の東側の入り口付近の木に、雨は植え込みに走って行った。

 楽しそうだなあ。

 春風は微笑んで、また本を開いた。そうして、いまいち没頭できない物語に入り込もうと集中し始めた。


 春風は、いつの間にか眠っていたようだった。つま先に何かが触れた気がして目を開けると、足元にすこしひしゃげたスチール製の缶が転がっている。それで顔を上げてみると、三年生くらいの男子が少し困ったような表情で春風の方に向かって走ってきていた。

 その男子は、春風と目が合うとさっと目をそらした。春風は微笑んで、スチール缶にたどりついた彼に「がんばってね」と声をかける。彼は小さく頷いて、缶を拾って走って行った。

 ふと時計を見ると、時刻は三時だった。そして視線を下に向けると、時計台の下の植え込みを咲良がのぞき込んでいた。春風は、おっ、と思って咲良の様子を観察する。咲良は目を丸くして驚いているようだった。

 これで咲良は私の置いた一円玉をきっと拾うはずだ。

 春風は胸の奥がぞわぞわするのを感じながら、自分の口元がにやけているのが分かった。そして、でも自分が一円玉を置いたなんてことを咲良に気づかれたくはないから、春風は本を開いて目を伏せた。

 たぶん咲良のことだから、あとで自慢してくるに違いない。

 春風はふふ、と笑って、読書を再開した。

 

 日はまだ傾かない。しかしちょうど短編を一つ読み終わって、春風は顔を上げた。時計を見ると、四時四十分。もうそろそろ帰る時間だ。

 広場には、まだ何人か小学生がいる。春風たちとは違って、日が長い夏なら公園に長居することが許されている子たちだ。

 すでに缶蹴りは終わっていた。公園の隅では咲良が一人で縄跳びをしている。雨は塾にでも行ってしまったのだろう。春風はベンチから立ち上がって、カバンに荷物をまとめて咲良のもとへ行く。

「咲良、もうそろそろ帰るよ」

「……うん」

 咲良は案外あっさりと頷いた。

 いつもなら、もっと駄々をこねるのに。

 おや、と思う春風を気にもかけず、咲良は縄跳びを結ぶ。

「お茶ちょうだい」

「はい。雨は?」

「塾だって。さっき帰った」

「ふうん。偉いね、やっぱり」

 何気なくそう言いつつ、春風は咲良にタオルを渡す。何となく東側の入り口を見ていたものだから、その時、咲良の表情が少し曇ったのに気が付かなかった。

 そういえば、咲良はぜんぜん自慢してこないけど、さっき植え込みの一円玉をちゃんと拾ったのかな。

 あ! もしかしたら、さっきの缶蹴りで雨が植え込みに隠れてた時に、雨が拾っちゃったのかもしれない!

 ん? でも咲良はさっきあそこを覗いてびっくりした顔をしてたしなあ。

 春風は六年生だから、別に自分が一円玉を置いたのだといって感謝されようとしているわけでは無い。ただ単に、妹を喜ばせるというお姉ちゃんらしいことをしたいだけだ。咲良の喜んだ顔を見たいだけだ。

「ねえ、咲良、あんた、あの植え込みの、さ」

 だから春風はそれとなく(ぜんぜんそれとなくないけど)咲良にその件について話を振ってみる。もし咲良が一円玉を拾っていたら、きっと自慢げに見せるはずだと思って。

 しかし、咲良はそんな反応なんてしなかった。彼女は春風の言葉にびたっと動きを止め、それで、まるで何かにおびえているかのように、ゆっくりと春風の顔を見る。

 真夏なのに、妙に青い顔色。汗で首筋や額にはりついた前髪はもはや病的なものにすら見えて、小刻みに肩が震えている。口は何かを言いたげに小さく開かれ、しかし、小さなその唇はそれ以上動かない。目は大きく見開かれ、だけどそこに、光なんてなかった。

「……ん?」

 どうしたんだろう。

 咲良の表情があんまりにも予想外だったものだから、春風は首をかしげる。だが、その行動にも咲良はびくっとした。そして、震える口を小さく動かして、

「あそこが、なに?」

 咲良は泣きそうな声だった。

「え、あ、いや、ほら、もうハチの巣無くなったし」

 春風はわけがわからなくてそういった。でも、咲良はその言葉にいっそう顔を青く――もはや、白く――して小刻みに首を振るばかり。

「ねえ、どうしたの咲良? あんた変じゃない?」

 だから春風は咲良の両肩をつかんで話を聞こうとしたのだけれど、

「しらない!」

 咲良はそれを振り払って、公園の出口に向かって走って行った。春風は広場に取り残されて、ポカンとしながら太陽の光に灼かれる。

 ジワジワ、ジージージー。

 アブラゼミが夏を謳歌している。その鳴き声を浴びながら、春風は大人っぽく肩をすくめてみた。

 まあ、子供の考えることはわかんないや。

 そんなもんだよね。

 春風も公園の出口に向かって歩き出す。だけど植え込みの一円玉がどうなったのかが気になって、一回覗いてみた。しかし、一円玉は春風が置いた時とおんなじ顔をして植え込みの中に鎮座していた。

 なんだ、拾わなかったんだ。

 春風はがっかりして、一円玉をポケットにしまう。そして、少し速足で公園を後にした。


☆ここからはじまる十五日目

 

 誰かが、すごく悲しそうな視線を向けた。

 ぼんやりした声で、ばか、といわれた。

 じっとりとして、焼けるように暑くて、それなのに体の奥の方が寒くて震えるようなくらやみの中で、誰かに、ばか、ばか、と責められ続けた。

 その声に我慢できなくなって、何か言おうと口を開いて、そこで、目が覚めた。

 春風は目を開けて、自分がひどく汗をかいていることに気が付いた。しかし、別に部屋は暑いわけでは無い。ういんういんと唸るエアコンは二十七度に設定され、睡眠するには快適な涼しい風が吐き出されている。

 だけど、いや、だから、いやな夢で絞り出されたべったりとした汗がその冷風に撫でられて、春風はぞくぞくと寒さを感じた。

 いっかい、汗拭こうかな。

 タオルをとりに洗面所に向かおう、それとついでにトイレに行こうと思って、春風はベッドから立ち上がる。エアコンが唸る音しか聞こえない夜の部屋が、しかし、妙に明るいような気がして窓の外を見てみると、空には満月が高く昇り、青白い影を春風たちの部屋に伸ばしていた。

 だから、春風には壁にかかった時計もはっきりと見えた。零時二分。日付はもう変わっていた。

「……ぁ、ぅ」

 ういんういん、ういんういん、と無機質な音が無感情に響く部屋の空気を、そんな苦しそうなうめき声が震わせた。春風はその声がした方向を向く。すると、青白い無神経な光に照らされて、咲良が顔を歪ませていた。

 咲良、うなされてる。

 春風は咲良のベッドの横に膝をついて、咲良の額に掌を当てる。汗をかいてはいるが熱があるわけでは無かったから、春風はほっとして、咲良の頭をなでた。しかし咲良は眠ったまま首を振ったものだから、春風はぱっと手を咲良の頭から離す。そして、でもまだ妹は苦しそうな顔をしていたから、春風は彼女の手を握った。

 咲良は、その手をぎゅっと握り返した。そして、ゆっくりと、うっすらと目を開いた。

「咲良? だいじょうぶ? 怖い夢みたの?」

「……ぁ」

 咲良は眠そうな目で自分の手が誰かの手を握っているのを見て、ゆっくりと視線を上げ、その先にお姉ちゃんの顔があるのを確認し、

「……ぁ、ああ!」

 小さな悲鳴を上げて、飛びのいた。目は見開かれ、顔は引きつり、化け物を見るように、そしてその狂気に目が離せないように、お姉ちゃんの顔を注視していた。そして、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、

「ちがう、しらない、ちがうから、私じゃない……」

 そう、ぶつぶつとつぶやいて、ふるふると首を横に振っている。

 咲良の初めて見せるそんな様子に春風は驚いた。そんな目で見られて、胸の奥がぎゅうっと痛くなった。

 だけど、咲良を助けないと。

 そんなよくわからない使命感で、春風は柔らかく笑って、妹に手を差し伸べた。

「おいで、だいじょうぶだから、怖くないから」

 咲良はおびえた目でお姉ちゃんの手を見つめて、次第に泣きそうな目になって、がばっとお姉ちゃんに抱き着いた。春風の首に回した腕にぎゅっと力を入れて、耳元で微かな嗚咽を響かせる。

 春風も、妹をひしと抱きしめて、

「だいじょうぶ、私がいるからね」

 とささやいた。

「ごめんなさい」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と、妹は涙交じりの声でそう言い続ける。小刻みに震えているのが分かった。春風には何に謝っているのかわからなかったけど、

「だいじょうぶ、許してもらえるからね」

 そう言って妹の頭をなでる。今度は、咲良が春風の手を嫌がることはなかった。

「……こわかった」

 だんだんと落ち着いてきたようで、咲良の震えはおさまり、ぼそりと、咲良は眠たげな声でそう言った。

「私がいるからね、もう怖くないよ」

 春風は、妹を抱きしめる腕にもう少し力をこめる。咲良はその言葉に頷いて、

「こわかった、私、きょう、雨を、死なそうとして……」

「……え?」

 ふっと、部屋に落ちる月の影が消えた。青白い光は掻き消え、ただ、真っ暗な闇が空間を満たす。エアコンの電源ランプだけが、ごくわずかな赤い光でその黒に立ち向かっていた。

「咲良、それって、どういう……?」

 耳元で、咲良の安らかな寝息が聞こえてきた。春風はそのまま身動きを止め、自分の腕の中で眠りに落ちた妹のぬくもりを、わけのわからないままに感じていた。 


 天高く上った満月は、昼間に蓄えた熱をゆっくりと発散していく町を、しかし、寒々しい色に照らし出す。

 家々の屋根を、アスファルトを、電線を、公園の木々を、広場の砂を。

 そして、公園の隅に捨て置かれた、ほんのりとピンク色の、白いつるつるとした楕円形の石も、また。

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