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ナカジマ杓子

「リメンバースニッファー」

覚悟を決めるために、大きく息を吸い込んだ。

 季節はまだ一月で、暖房のかかっていないこの部屋は随分と寒いはずなのだが、俺のセーターにはじっとりと不快な汗がにじんでいた。

こんな行為に及ぶのは全く本意ではない。

だが、長い人生を送る中で、本意ではないことをしなくてならない局面など腐るほどあって、どうにも回避できないときには、決意を持って実行しなくてはならないのだ。

だから、俺はやる。不純な行動と受け取られるかもしれないことは、十分に理解している。だが、俺はあくまで真剣な気持ちで行うのだし、文句を言われる筋合いなどない。

 俺はゆっくりと、それに顔を近づけていく。

 全てが始まったのは、そう、二時間ほど前の事だった。


今年の冬、妹が怪我をした。最初に知らせを聞いた時には肝を冷やした俺だったが、よくよく聞いてみればちょっとした足の骨折で、大したことはないとわかった。高校のスポーツ大会、女子フットボール部門において、並み居る敵をなぎ倒し、鼻血をふきつつトライを決めて、イエーイ! と飛び跳ね着地に失敗した故の骨折というのだから、自業自得という他なかった。

別にフィジカルに恵まれているわけでもない妹が頑張ったのは認めてやらなくてはいけないが、せめてトライを決めた瞬間に骨折しろと俺は思った。

松葉杖を使えば出歩けなくもないらしいのだが、冬休みに入ったのをいいことに、やつは我が家の二階の自室で引きこもり生活をしている。

 うるさい妹が静かになったという現象に、これで心安らかに暮らせるなあ、などと喜んだのも束の間、両親が突然出張に出かけてしまった現状、怪我人の世話は俺の役目となるわけで、食事を作り、洗濯をして、松葉杖での歩行を支え、暇つぶしに付き合って、と様々なタスクがのしかかってくることになる。

「サンタさんへのお手紙に、お兄ちゃんの財布の中の百円玉って書いたのに枕元に届いてない! 私が百円手に入れて、お兄ちゃんが百円損すれば、気分的に二百円分得できたのに!」と号泣していたのが八歳の時であるという驚異の経歴をもつ妹を、俺は全く信用していない。そして、信用できない相手とひとつ屋根の下二人きりというのは心身が持たない。

しかも、体が弱っても、やつのよく回る口は決して大人しくなってはくれなかったのだ。むしろ、元気になった気さえする。そんな感じでもう一週間。

本日も、布団から体を半分出して、枕元のトレーを指さしながら、

「ねえ、お兄ちゃん、お昼がお粥ってどーなのよ。私は病人っていうより、怪我人なんだけど」

 とでかい態度で要求してくる。

「もっと精のつくものを供給すべきなんじゃないの? 鰻とか、ハンバーグとか」

 威勢で負けるわけにはいかない。俺も堂々と応じる。

「黙れ。そして、これはお粥ではない。炊くのに失敗したご飯だ」

「……堂々と何言ってんの? 水入れすぎでしょ。まさか炊飯器のセットもできないの?」

 その通りだったが(グーグル検索でご飯、水何リットルと検索して、「三合分」という記述を見逃した。目にはしたが、「合」ってなんだ、と思っていた)、そんな気配はつゆほども見せず、

「いや、本格的に鍋で炊こうと思ってな。鍋で炊くのはさしものお前もできないだろう? 自分のできないことで他人を責めるのはよくないぞ」

 と言ってみるが、

「いや、家庭科で習ったからできるよ」

 と真顔で返答された。悔しいことに、こいつは料理ができるのである。ただ親子丼を作るだけでは満足できず、ガーリックを隠し味にするくらいには、料理に精通している。……あれは、うまかった。

 だがその美味なる親子丼の思い出も、今となっては腹立たしい。こんな記憶があるせいで、俺の反論が説得力を失うのだ。

 俺はため息をつきつつ言った。

「文句があるならお前が作ればいいんだ。さあ、キッチンまで支えてやろう」

 だが、差し出した手はべチンとはたかれた。

「しんっじらんない! 怪我人に料理させるわけ?」

 その語気の鋭さに俺は、、この怪我が口実になるうちは私は決して布団から出ないお兄ちゃんをこき使って楽して生活してやる、という鋼の意思を感じ取った。

「じゃあ文句を言わず食え。病院食よりはましだろう?」

「最近の病院食はおいしいんだよ? 栄養バランスがいい上に、しっかり味もついてるんだ。その発言は誤解と偏見に満ちてる。炎上したくなかったら早く撤回しろ。病院関係者の皆様に謝罪しろ」

「料理をけなすばかりか、メディアという第四の権力をたてに取り、兄を脅す妹! ああ、父さんや母さんがこの場に居なくてよかった。こんな子に産んだ覚えはないと、きっと涙したであろうよ」

「ご飯も炊けない子に育てた覚えはないって、そっちの理由で泣くんじゃない? 掃除もできない、洗濯もできない。生活力がないと女の子にもモテないよ?」

「うるさい!」

 俺は激高した。一説によれば、人は図星をつかれた時にこそ怒るものだというが、この場合には当てはまらない。俺は、モテ、モテモ、モテモテ……なのだ(いや? 目なんて泳いでない)。バレンタインチョコなど貰えるあてが多すぎて、こちらから供給をストップしてもらっているくらいなのだから。

「とにかく、食え! 食うんだ! 食い終わるまで部屋から出るの禁止!」

「はあ? なんですか、お兄ちゃんは私の移動の自由を阻害する権利をお持ちですか? 法廷に引きずり出しましょうか?」

「ふん。その足で、か? 引きずられるのはむしろお前の方だろう!」

「怪我人相手に怪我の事でマウントとるな。しょうもないことで決め顔すんな。器が知れるよ、お兄ちゃん」

「その怪我だって自業自得だろうが。なんだよ、喜びのジャンプで骨折て。呆れてものも言えんわ」

「妹の頑張りを褒めてあげる度量もないくせに、何言ってんの? 本当は羨ましいだけなんでしょう。私が大会MVPを飾ったのが。聞いたよ、初戦敗退チームの補欠だったみたいじゃない。楽しいスポーツ大会の片隅で、ずっとお山座りしてたんでしょう? あーあー、みじめーみじめだねー」

「黙れえ!」

 俺は再び激高した。一説によれば、人は図星をつかれた時にこそ(以下省略)。

 とにかく怒髪冠を衝いた俺は、(妹に言い負かされたわけではなく)、やつの部屋を飛び出し、安住の地たる自室に駆け込み、ベッドにダイブし、……ふて寝した。


 目が覚めた。反射的に枕元の時計に目をやると、十三時と表示されていて、ああ、一時間も寝たのか、と若干後悔する。あくびを漏らしつつベッドから転がる形で、床に降りる。ドスンと大きな音がした。大きく手足を伸ばし、体を覚醒に向かわせる。目の前には一冊の文庫本と黒のブラジャーが転がっていた。

……。

 ああ、読み飛ばしてしまったという方のために繰り返そう。何気なく記述してしまったので、今度は傍点付きで。

 ゆっくりと、出来れば声に出して読み上げて頂きたい。さあさ皆さんご一緒に、さんはい。

黒の、ブラジャーが、転がっていた[#「黒の、ブラジャーが、転がっていた」に傍点]。

……。

……。

……。

……。

 いや待て。待て。勘違いするな。

俺が婦女子を部屋に連れ込み、事に及んだというわけではない。

もしくは、これまでは全部叙述トリックで、「俺、俺、と書いてきたけれども、男子だとは名乗ってはいない! 俺はボクっ子ならぬ、俺っ子だったのだ!」というわけでもない(お兄ちゃんって呼ばれている)。

皆さんが最初に想定したであろう可能性、清廉潔白な男子高校生の部屋に、全く身に覚えないない女性用下着が放置されていたというのが、まさに正解である。

ん?

うーん? なぜだ?

俺の部屋に? なぜ? ブラジャー? 急展開である上に、謎展開すぎる。前後の繋がりをどうするつもりなのだろう? 

もしかしたらブラジャーそっくりの何かかもしれないと矯めつ眇めつしてみたが、このファインディングニモに登場していたクラゲを二体くっつけたような独特の形状、間違いなくブラである。俺は決してブラに詳しい男ではないが、これくらいは断言できる。

ふーむ、これまでブラを観察する機会に恵まれてこなかったため、知らなかったが、意外と硬いものなのだな。まあ、胸の形状を維持するという目的のために作られたものらしいから、それも当然か。ああ、ここのホックを使って後ろを止めるのか。なんだか難しそうだなあ。学ランのホックとどちらが難しいのだろうか。カチカチと留めたり外したりしてみる。なるほど、なるほど。色々と興味深い。未知との遭遇はいつだって刺激的だなあ。

 ではない。

 男子高校生としての健全な興味を発露させている場合ではない。

 このブラをどうすればいいのか?

 ずっとこの部屋に飾っておくわけにもいかない。変態になってしまう。(今の時点ですでに十分変態であるという意見については考慮しないものとする)。

 やはり、持ち主に返すことを考えるべきだろう。だが、持ち主をどうやって特定するのか。

 ここに謎がある。

 一体どういう方法で、ブラがここに現れたのか。

 なぜ、ブラがここに現れたのか。

 そして、このブラは誰のものなのか。(違う?)

 俺は思考を開始した。


 この下着が現れたのは、何時頃のことだろう。少なくとも今朝この部屋から出た時にこんな物体は存在していなかった。今朝は寝坊して、十時に起床。それからノータイムでご飯制作にあたったので(手際が悪いと時間がかかる)、部屋には戻っていない。ふて寝しに戻った時は、涙で目の前が濡れていたので見逃した可能性があるが、このブラが俺の部屋に入ったのは、それを除外しても今日の午前中、十時以降に絞れるだろう。

先ほど「俺の部屋に入った」と言ったが、自力での移動が可能な下着というのは、男性用、女性用

を問わず、これまで寡聞にして聞いたことがない。だから、誰かが移動させたのだろう、というのはわかる。

 ブラを移動させる人間。

 まず思いつくのは、家族だろう。というか、両親はいないので妹犯人説。

 だが、どういうシチュエーションだ? 

自分で言っておいてなんだが。何を考えてそんなことをやったのか、全然説明がつかない。 

 かの神学者トマス・アクィナスは若かりし頃、ドミニコ修道会に入るという決意を折ろうと画策する両親から美女をあてがわれたという。いや確かに、トマス・アクィナスに対して美女なら、俺に対してはブラで十分だという理論はわかる。わかるが、誰がそんなことをするのか。別に出家しようとか、入信しようとか思ってないぞ、俺は。

 大体兄貴の部屋に下着を投げ込む妹とか、それこそ両親が泣く。いくらあの阿保でも、そんなことはしないだろう。

 しかし、この仮説が否定されてホッとした。妹の下着を矯めつ眇めつしていたなんて、シスコンとブラコン(ブラジャーコンプレックス)ここに極まれりという所なので。

 では次の案。

下着泥棒の仕業というのは考えられないか? 

この部屋は建物の二階部分にあり、東側に面している。開けた、日当たりのいい南面とは違い、こちら側はごみごみした裏通りであり、まさにお隣さんと軒を連ねるといった具合なのである。我が家にベランダ等はついてないが、その手のプロ(?)はちょっとした足場があるだけで、スイスイ壁を登れてしまうという。警官に追われていた下着泥棒が、ここまで登ってきて、緊急避難的にブラを放り込んだというシナリオはありえなくはないのでは?

……いや、有り得ないな。俺は首を横に振る。窓の鍵は夕べからずっと締まっているはずだし(唯一勝手にこの部屋に入りそうな妹は、現在自室から一歩も出ずに生活しているのだ)、何より、そんな捕り物が行われている気配はなかった。念のために確認してみたが、窓のクレセント錠の周辺が小さく割られているということもなかった。

 では、我が家の内部に下着泥棒がいるという線はありうるだろうか。……いや、俺ではなく。別の、その道のプロが。

 想像してみるとなかなか怖い。全身タイツにゴーグルをかけた謎の男が、どっかの天井に張り付いているのだ。腰のベルトには洗濯バサミがスカートのひだのようについていて、その一つ一つにパンツやブラがぶら下がっている。彼は今も虎視眈々とさっき落とした一葉の下着を取り戻すチャンスを伺って……。

 なかなかなんてもんじゃない。ものすごく怖い。

 俺はゆっくりと天井に目をやる。……よかった。誰もいない。

 だがまだ安心はできない。

 俺は玄関、裏口、窓という窓を片っ端から調べた。施錠、施錠、施錠、施錠、施錠。大丈夫だ。昨晩確認したままだ。まあ、もともとあまり換気をしてないので、窓の鍵もかけっぱなし。昨日洗濯物を取り込んだ時、裏口から出入りした記憶があるが、その時も施錠は忘れなかったようだ。

 下着泥棒説は却下。外からの侵入者は存在しない。

 安心して部屋に戻り、どっかりと腰を下ろす。

しかし、ぱっと思いついた可能性はずべてつぶされてしまったな。あと残っている考え方としては……、まさか自然発生的にこの物体は生まれたのか? この部屋にかかっている気圧、温度、湿度、空気中の塵等々の諸要因が複雑な織物のように作用して、無からブラジャーを形成したというのか。だとすれば、これはおそらく世界初の天然物のブラジャーである。これは大事にしないと。オーガニックファッションがブームらしいし、売り出せばかなり流行るかもしれない。俺は「結城オーガニックランジェリー」の初代社長となり、ベンツを二百台くらい購入し、それをずらりと並べて笑うのだ。雑誌のインタビューに対して、「全ては一枚の下着から始まったんですよ。あのブラがなかったら、今の僕はありえない。……私はお客様一人一人のために誠意を籠めて、自分の部屋でブラを醸成するだけです」。

 ……ダサい。

 さて、冗談はこれぐらいにして(最初から冗談しか言っていないという説もある)、そろそろ真剣にブラと向き合わなくてならないようだ(真剣にブラと向き合う?)。

 とりあえず、ハウダニットについては置いておこう。どうやって下着が部屋の中に入った、または発生したとしても、それが誰の下着でも可能な方法であれば、解明したところで意味をなさない。それは本質的な問題ではないのだ。フーダニット(?)、即ち誰の下着なのかさえ判明すれば、持ち主への返却が叶い、全てが丸く収まるのだ。

 だが、まさか道行く女性の皆さんに、シンデレラの王子様よろしく、「このブラジャーをつけていただけませんか?」と声をかけて回るわけにもいかない。結構な人がヒットしてしまうだろうし、俺の頬にも結構な数の平手がヒットするだろう。(以前から思っていたのだが、同じ靴のサイズのやつって結構いそうなものだが……。よくシンデレラでのみヒットしたものだ。すごく足がちっさかったのか?)。

 では、どうすれば……。

 考える。腕を組み、胡坐をかいて、まるで地獄の炎を背負った不動明王の如く、微動だにすることなく考える。ロダンがこの光景を見ていたら、自分の彫像をぶち壊し、新たに作り直したであろうこと請け合いである。それほど真剣に考えた。

 自分の頭の中で物事が整理されていくのを感じる。

要するに、誰のものか、特定できるような情報があればいいのだ。イニシャルが縫い付けられていたり、免許証が縫い込まれていたりするのが最も理想的だが、今回そういったものはない。他に個人を特定できて、なおかつ残りやすい証拠はないだろうか。専門的な分析を行えば、皮膚片を検出してDNA鑑定に回してもらえるのかもしれないが、俺にそんな技術力はないし……。髪の毛が引っ付いていたりもしない。

うーん、どうしたものだろう。

俺は考えて、考えて、考えて、考えて、ふと。


 ……嗅ぐか。


 天啓のようにそう思った。

 そう、匂いでわかるかもしれないではないか。

 望み薄なのはわかっている。だが、もう希望はそこにしかないのだ。

 視覚、触覚、味覚、聴覚、嗅覚。人間は五感を使って外界から情報を獲得し、日々生活を送っている。そして、その中でも「過去」を知覚することができるのは、嗅覚だけだ。匂いは発生してから広がり、とどまり、持続してゆく。フェロモンという物質も多くは匂いであり、アリがエサの位置を仲間に教えるときに使うのも、クマやオオカミがマーキングに使うのも、匂いである。そう、生物は本来的に、匂いでものを捉えている。雨の匂い、風の匂い、若葉の匂い。それらを感じることこそ原始の狩りの基本であったし、ヒトやモノを探すという観点で考えて、嗅覚に頼るというのは悪くない選択だ。

いや、むしろ視覚に頼り過ぎてしまった現代文明へのアンチテーゼとして、痕跡を感じ取るための最後の手段として、嗅ぐという様式は最もふさわしいやり方なのではないか。

 二○二一年一月。宮城県警のベテラン警察犬「ハッピー」(雄、八歳)は、行方不明になった七十代男性を、匂いをたどることで見つけ出し、感謝状をもらっている。二〇二〇年十月。群馬県警の警察犬「ハルダ・フォン・レーベン号」(雌、四歳)は、前橋市で行方不明になった八十代女性を、枕カバーの匂いを頼りに見つけ出した。

 そして、二〇二一年二月。この俺、結城貴裕(雄、十七歳)がこの下着の持ち主を、匂いをたどって探し出すのだ。

 え? お前は犬じゃないだろう? 

だが、俺は去年の夏休み、妹に「いい加減宿題やれよ」と声をかけたところ、「宿題をまじめにやるなんて、権力の犬である証拠だよ」と返答された経験があり、人類の中では比較的犬に近い存在であるということが確認されている。匂いでの捜査も、やってみれば案外できるかもしれない。「やらずに後悔するよりはやって後悔する方がいい」とは有名な言葉だが、どんな手段でも試してみるのは捜査を行う者として当然の心構えだ。無駄こそ私の仕事、とポジティブに捉えることができなければ、この下着の持ち主など永遠に見つかるまい。

よし。

 そうと決まれば、行動に移そう。そして行動するからには、全力でやらなければ。恥ずかしがってなどいられない。カップの中の空気をすべて吸引するぐらいの心持ちで嗅ごう。嗅ぐという概念を覆すほどの嗅ぎっぷりを見せてやろうではないか。それくらいしなければ、おそらく意味がない。

 俺は大きく息を吸い込むと、精神を集中するために目を閉じ、ゆっくりとその黒色の生地へと鼻を近づけて……

「……何してるの、お兄ちゃん」

「はうっ!」

 氷のような声が聞こえた瞬間、ガツンッと後頭部に衝撃が走った。

 目の前がまず赤く光って、次に真っ白になり、最後に真っ黒になった。最後の色はどうやらブラの色であった。

 カップの内側から鼻を離して、俺は後ろを振り返り、とりあえず力の限り叫んだ。

「違う!」

 松葉杖を棍棒のように構えつつ、妹はまるで変態でも見たかのように震えていた。

「何が違うというの……」

 俺はいっそ胸を張る。

「俺はブラの匂いを嗅ごうとしていただけだ!」

「じゃあなにも違わない!」

 やつは松葉杖を振り回しながら、

「あーもー! なんでよ、どういうことよ! 私がさっきはちょっと言い過ぎたかな、お粥も意外と美味しかったな、謝っといてあげようかな、とか殊勝な気持ちで足引きずって兄の部屋まで来たら、……なんでその兄貴があたしのブラの匂いを嗅いでんのよお! お気に入りのやつだったのに! トラウマだ、トラウマだ、トラウマだ! もう一生お兄ちゃんとは口きかない! 家庭崩壊まっしぐらだね! もうあんたなんて部屋に閉じ込めて縛り上げられ、顔面がジャガイモになるまで殴られて、潰れたトマトみたいにされて、『妹を性的な目で見た男』ってプラカードでもつけられて、今度の火曜日の燃えるゴミの日に集会所前に出されればいんだ! カラスについばまれればいいんだ!」

 あーあー、と叫ぶ妹に、俺は恐る恐る、

「……今、『あたしのブラ』って言ったか?」

 と尋ねる。

「そういったけど! なにか!」

「……お前の、下着?」

「そうだけど! お気に入りのやつだったけど!」

 ……。

 そうか、そうだったのか……。

 奇妙な実感が俺の体内を満たしていく。妹の、妹のか……。妹のだったのか。こいつが毎日身に着けていたものの匂いを俺は……。鼻いっぱいに……。

その一言は、自然と口からあふれ出た。

「きもちわっる!」

「こっちのセリフじゃ、ぼけぇ!」

 杖の一撃を食らった。

「アルコールを用意しなくては! 鼻を消毒し、変な菌が入らないようにしないと!」

「失礼すぎるよ!」

 ツッコみながら妹はけんけんをするような形で、部屋の入り口へと向かう。

「スマホ、スマホ! お母さんに連絡しなきゃ! 変態兄貴を勘当してもらわなきゃ!」

 そうはさせじと、俺はギプスにしがみつく。

「ひゃあ! 放してよ、痴漢!」

「待て、待て! 早まるな、説明させてくれ! 全ては誤解の産物なんだ!」

 そうして俺は、顔面で拳を受け止めつつ、一部始終をやつに話したのだった。


「……どうしてそれでブラの匂いを嗅ごうとしたことが正当化できるのかわからない」

 顔面フルボッコの後に待っていたのは、辛辣なコメントだった。ぐうの音も出ない。

「なんで外部犯まで考慮すんのかな、この阿呆は。想像力が無限大過ぎて手に負えないよ」

 誉め言葉だと受け取っておく。

「だが、どういうことなんだ? お前にはわかるのか? お前のお気に入りの下着がどうやって俺の部屋に入ったのか」

「たぶんね」

「なに? ああ、そうか。最初に除外したのは間違いだったのか。やはりお前は兄貴の部屋にブラを投げ込んでキャッキャッと喜ぶ……」

「違うわ! どんな痴女だ! そんな阿保な仮説じゃないよ。もっと現実的で、もっと有り得そうな、そんな真相」

 ほほう。自信ありげだな。

 聞かせてもらおうじゃあないか。

 妹は大きくため息をついた。

「……どーせ、お兄ちゃんが持ち込んだんでしょ」

 なんだと。

「心外だな。俺にそんな趣味はない」

「説得力皆無……」

 そんな冷たい目で見るな。

「なにも変態的動機で持ち込んだなんて言ってないよ。今日はまだしてないみたいだけど、昨日は洗濯、してくれたでしょ? 洗濯物、この部屋で畳んだりしなかった? その時に洗濯籠からこぼれて落ちたんだよきっと。」

 言われてみれば確かに、覚えがあった。ただ洗濯物を畳むのは面白くないような気がして、音楽を聴くか、本を読むかしながら作業しようと思って、この部屋まで洗濯物を持ってきたんだった。

「昨日洗濯物は畳んだ。それはその通りだ。だが、さっきも言っただろう。この部屋にブラが現れたのは、今日の午前中のことなんだ。今朝起きた時には、この物体はなかったんだから」

 ここで妹はついに、ジト目になった。こいつがジト目になるのは本気で呆れている時だけである。

 俺はたじろぐ。

「そ、そんなにおかしなことを言ったか?」

「うん。ものっすごくおかしなことだよ。私がもう教えてあげるのも嫌になるくらい、バカバカしいこと。でも言ってあげないと今後のあなたの生涯に差し支えそうなので親切にも説明してあげる。あのね、お兄ちゃん……」

 一拍ためて、

「こんなきったない、カオスが具現化みたいな部屋で、今朝なかったなんて言われても、信じられるわけがないでしょうが!」

 ビシッと指さされたけれど。

 え、そうか?

 全然普通じゃないか?

 こんなきれいに整頓された部屋で、散らかりすぎていてブラが認識できないなんてことが起こるわけがない。

 俺は、漫画本が床に散らばり、小説が山と積み上がり、学ラン、ジーンズ、パーカーが一緒くたにベッドの下に押し込まれ、食べかけのポテチの袋やじゃがりこの箱が並び、電子辞書、鉛筆、三角定規が一つの山を形成し、プリント類が運河をつくり、複雑に折り重なる雑誌の大波が荒れ狂い、よくぞここまで! と称賛してしかるべきほどの巨体を手に入れた埃の塊や、悪臭を超えもはや激臭を放つに至った靴下や、なんとなく父の部屋から持ち込んだ今となっては邪魔以外の何物でもない健康器具の数々が跳梁跋扈し、しわくちゃになったハンカチがマンタのごとく羽を広げ、俺の生活痕が地層のように降り積もった結果、もはや足の踏み場という踏み場を喪失しつくした普通の部屋を、ぐるりと見まわした。

「……そうか?」

「そうだよ! こんなのちょっと本か服の下敷きになるだけで存在が消えるじゃん!」

 確かに、ブラを発見する直前、ベッドから転がり落ちたので、本が崩れる、服の位置がずれる等々の変化が起きる原因はあったが……。

 あー、そういえば!

 俺の脳裏に稲妻が走った。

 ブラってどこにしまうんだろう、後で聞こう、と思って脇によけた瞬間。

 昨晩夜中に本の山を崩してしまった記憶。

 伸びをした腕が、なにか硬い物(本のような)にあたった感触。

 すべてが鮮明に思い出された。

 鬼の首を取ったように妹は叫ぶ。

「お父さんとお母さんが出張に行って一週間。その短期間でここまで部屋を汚くできるなんて……。いっつも掃除をお母さんに頼ってるからそういうことになるんだ! お兄ちゃんはやっぱりさ、生活力がないんだよ! だから女子にもモテないんだ!」

「うるさい!」

 だからそれは言うなって!

「たとえそれが真実でも、言っていいことと悪いことがあるだろう」

「はあ? なんですか、お兄ちゃんは私の言論の自由を制限できる権限をお持ちですか? 法廷に引きずり出しましょうか?」

「なんだと。なんでもかんでも訴えようとしよって! そんな若者が増えているから日本の経済は回らないんだ」

「うわー、爺臭い発言! 訴訟は国民の権利ですう!」

「権利権利とわめきおって! 納税の義務を果たしてからにしろ! なんださっきから。怪我人怪我人と主張してると思ったら、結構自力で移動できるじゃないか、猪口才め! 松葉杖武器にすんな!お前はいっつもそうだ、自分に都合のいいことばかり考えて!」

「お兄ちゃんには言われたくない!」

「俺だってお前にだけは言われたくない!」


 俺がふて寝を開始するまで、あと三十分も、必要なかった。

                                         了

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