――さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。
レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』
人物表
容疑者
・テリイ :シルヴァーの妻
・エドワード:テリイの同居人
・ラムディ :テリイの同居人
・リンダ :テリイの同居人
・アイリーン:テリイの同居人
その他
・シルヴァー:テリイの夫。被害者
・マリイ :わたし
※人物表の名前は、仮名を含みます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日、わたしが午前一時半という早い時間に起きてしまったのは、ひとつには空にとどろく低い音があまりにうるさかったからだし、もうひとつには言いようのない不安が不意にやってきたからだった。ベッドをぬけだして窓の外を見ると、ちらちらと白いものが舞いはじめているようだった。わたしはマッチを擦って葉巻に火をつけた。起き抜けのねばついた口には、煙の苦みは酷いものだった。
コーヒーを淹れて、湿気たナッツと共に味わった。アルコールを入れたいという気持ちにかられたが、今はブラックコーヒーよりも強いものを飲んではいけないという強い予感があった。わたしは窓の外をじっと眺めながら、その予感の正体がやってくるのをじっと待った。
二時十分ごろになって、天気は回復した。そのせいでわたしの中で何かがひと段落したような気になって、やはりベッドに戻ろうと決めた。カップを水だけでさっと洗い、また、葉巻に火をつけた。今度は悪くない味だった。
わたしの住むアパートメントの扉がいささか乱暴に叩かれたのは、そのすぐ後の事だった。扉の向こうからは、よく知った女の声が聞こえてきた。「マリイ、起きて、マリイ」焦りを帯びた口調だった。わたしは扉を開いた。そこにはテリイがいた。わたしが待っていた予感の正体というのが、ようやくやってきたのだと悟った。
彼女は、マスクをし、伊達眼鏡を掛け、フェルト帽を目深にかぶっていた。よほど興奮しているようで、身体はぶるぶると小刻みに震えていた。当世その恰好だけでお巡りにしょっ引かれるのには十分だった。だが、今の彼女をしょっ引くにはそれ以上に十分な理由があった。
彼女は、拳銃を握っていた。
◆
テリイとの最初の出会いは2018年のことで、その日、彼女は中央駅そばの街灯の下で船を漕いでいた。そのとき、時刻は既に午前一時を超えていて、まわりの人間は皆、めいめいに帰路についていた。街灯にもたれかかって苦しそうに寝息を立てている彼女は、見捨てられた子犬のように見えた。
「お客さん、困るんだよ」
正面の店から出てきたボーイが、彼女にそう呼びかけていた。彼女はこのクラブではめをはずし過ぎたようだった。
「店の前で潰れられちゃあね、面倒なんだ、さっさと退いてくれないか」
ボーイは、大柄で、やけにタフぶった男だった。
彼女は、ボーイに向かって湿っぽい目を向けた。
「すみません、でも勘弁してくれませんか」
彼女は吐息交じりにそう言った。ボーイは溜息を吐くと、テリイの襟首を掴んで、引きずるようにして店から離れさせた。金や色仕掛けではどうにもできない事柄があるという事実を示すために、彼のような男が雇われているのだろう。テリイはぐだぐだに酔っていて、なんの抵抗も出来そうになかった。
彼女は駅前のベンチに捨て置かれた。暑い夏の日の事だったが、そのままにされていたら風邪をひくかもしれなかったし、風邪よりもたちの悪いものに引っかかるかもしれなかった。わたしは彼女に近寄った。酔っ払いに関わるのが間違いだとはわかっていた。ただ、彼女に肩を貸して歩き出したわたしも、それなりに酔っていたのだった。
駅のすぐそばに止めてあったビートルに彼女を押し込んで、わたしは車を走らせ始めた。助手席に座る彼女は、やすらかに寝息を立てていた。
この時期のわたしは、中央駅からいくぶん離れた片田舎に部屋を借りていた。家賃はかなり安かったが、それは家主が一時的に開けている家だったからだった。三年、あるいはもっと早くに家主の息子が返ってくる予定だった。その時には、すぐに部屋を明け渡さなければいけない契約だった。
酔っぱらいを運び入れるのに、部屋までの道に階段がないというのは幸いだった。わたしは彼女を床に横たえ、毛布を掛けてやった。首元が苦しそうだったからネックレスを外してやった。
「どうも、ありがとうございます、親切な方」
目をうっすらと開けて、彼女は言った。その口調だけをみれば、彼女が紅茶よりも強いものを飲んだとは考えにくかった。
「それで、ここはどこですか」
「わたしの家。しばらく休んで帰るといいよ、その調子じゃ自分の家にもたどりつけないでしょう」
「ああ、それがいいでしょうね、どうも、ありがとう」
二度目のありがとうの声は消え入るようで、彼女はすぐに寝息を立て始めた。酔っ払いを助けたのは初めてだった。そして、彼女の手の甲に刻まれた特徴的な刺青を見て、軽く後悔した。もしこれがマフィアの印であれば、とんでもない人間と関わってしまったわけだった。
彼女が目を覚ましたのは、翌日の午前七時の事だった。彼女はぼんやりとした目で、わたしに「ここは、どこでしょうか」と尋ねた。わたしは彼女にコーヒーを差し出しながら答えた。
「わたしの家。昨夜あんたが正体を失っていたから、休ませるために連れてきた。迷惑だったなら謝るけれど」
「いえ、そんな。ごめんなさい、こちらこそ迷惑をおかけしました」
「べつにいいよ。コーヒーを飲むといい、お腹が空いているなら、トーストくらい出せる。それで頭をしゃっきりさせるの。家までの帰り方を思い出せるようにね」
「ええ、ありがとうございます」
彼女はコーヒーだけを口にした。わたしは彼女をビートルにのせて、彼女の案内で家まで送った。わたしの家から一キロほど離れた森の中に建っている家で、周りに他の者が住んでいる様子はなかった。道路に面した側にはこじんまりとした庭があり、よく手入れされた花壇にはいくつかの花が植えてあった。敷地は低い塀でぐるりと囲まれていた。家の横には一台が入るだけの車庫が付いていて、中には真黒なベンツが停まっていた。
門の前でわたしの車を降りて、彼女はありがとうとさようならを口にした。わたしは助手席の窓越しに、彼女が庭を通って家へと入っていく様子を眺めていた。自分の家であるにもかかわらず、彼女の足取りはまったく気乗りしない様子だった。
彼女の姿が見えなくなった。わたしはアクセルを踏み込んだ。車は導かれるようにして、南へと直進していった。
彼女と初めてかかわったその日、わたしたちはさして言葉を交わしたわけではなかったが、それ以来、時折連絡を取って、二人で飲みに行くようになった。大抵は中央駅のすぐそばの店だった。
「なにを飲んでいるの?」
その日も、わたしたちはカウンターに座って、グラスを傾けていた。まずくないチキン料理と、わるくない酒を出す店だった。わたしの問いかけに、テリイは答えた。
「アイラ。あなたも飲む?」
「ああ……あまり得意じゃないの、アイラは」
というより、ウイスキー自体があまり得意ではなかった。だがテリイはあやしく笑った。
「一度、飲んでみるといいわ――マスター、同じの、ひとつ、ロックで」
ほどなくしてマスターが、なみなみと注がれたロックグラスを差し出した。わたしは仕方なく、それを少し飲んだ。意外な香りが口の中に広がった。わたしはマスターに言って、ボトルを見せてもらった。
「へえ……うまいね」
「でしょう? その土地で出来たお酒が、その土地の料理に一番合うの」
テリイは、わたしと飲むときは、決して無茶な飲み方はしなかったし、正体を失ったこともなかった。初めて会ったあの日は、ただむしゃくしゃしていただけだったという。
「わたしはね、ちょっとへんなところに住んでるのよ」
顔が赤らみ始めると、彼女は決まって、自分の身の上話をし始めた。彼女の話は突飛だったし、現実味に欠けていたが、真実味はあった。
「街のはずれの、一軒家にね、六人で暮らしているの。皆血のつながりはないけれどね――まあ、ポッター・ファミリーっていう名前にしときましょうか」
彼女の話では、ポッター・ファミリーは呪術師の寄り合いだという事だった。
「世界にはね、数百年前まで呪術師が沢山いたの。だけど、今はもうわたしたち六人しかいない――呪術師ってね、結局のところ、殺し屋みたいなものだから」
「殺し屋、というと?」
「対象を呪い殺すの。死因は心臓発作になるから、ただの病死で片づけられる。首元に痣が残るから、呪術師には見分けられるんだけどね――一般の人には普通の痣にしか見えないから、暗殺にぴったりなの」
「でも、だったらなんでそんなに人数を減らしてしまったの?」
「怖いからよ、そんな優秀な暗殺者、依頼人としては手に余るもの。もしかしたら自分も何らかの理由で殺されてしまうかもしれない――呪殺っていうのはね、術者に一度出くわした時点で、名を知られた時点で、もう自分の死を危ぶまなくてはならなくなるの。だから、そんな暗殺者に関わり合いたくない、依頼なんてしたくない――だから、わたしたちは誰にも求められることはなくなった。求められなければ、生き残ることもできないのよ」
「もしかすると、わたしもいま、あんたに呪い殺される危険性があるっていうのかな」
わたしは冗談めかして言った。テリイは、真剣な眼差しになって、頷いた。
「そうよ」
彼女は自分の手の甲を見せた。そこには、例の、特徴的な刺青があった。
「この街で、この刺青をしている人間を見つけたら、悪いことは言わないから関わらないことね。これはポッター・ファミリーの紋章。まあ、もう世界で六人しかいないから、見かけることもないでしょうけれど」
「でも、いま、わたしはあんたと話している」
「ええ、そのようね」
彼女は、寂しそうに笑った。
その日のわたしはわりに酔っていて、冗談めかして言ったのだった。
「呪術師同士で殺し合ったりするのかな」
彼女はふっと息を吐いて、答えた。
「いつだってにらみ合っているわ。――いつだって」
「ふうん。それで、よく同じところに住んでいられるものだね」
「だからこそ、ってところもあるのよ。お互いにらみ合っているから、監視し合っているから下手に手出しができない。お互い剣を突きつけ合っていれば、おいそれと足を踏み出せないものね」
「お互い、どんな切っ先を突きつけ合っているの?」
「聞かない方がいいわね」彼女はグラスを呷った。「言ったでしょう、関わらない方がいいって」
「ならあんたは、そもそもわたしに身の上話をするべきじゃなかったね」
「ええ、すまないと思ってるわ――駄目ね、酔っていると、口が軽くなる」
「そう、そして、今のあんたもきっとそうだってわけだ」
彼女はわたしの眼をじっと見つめて、呆れたように口元を歪めた。
「後悔したってしらないわよ」
「後悔の仕方をしらないんだ、きっと」
彼女はマスターにもう一杯頼んで、ゆっくりと話し始めた。
「名前は、そうね、全部仮名ってことにしておくわ。ポッター・ファミリーには、わたしの他に五人がいるわ。エドワード、ラムディ、リンダ、アイリーン、それとシルヴァー。シルヴァーはわたしの夫ね。エドワードとシルヴァーが男。それ以外は女」
「結婚していたんだ」
「そうよ」
「わたしみたいな女なんかと飲んでていいわけ? 家庭があるんでしょう」
「もうないようなものだもの」彼女は嘲るように笑った。「とっくの昔からね」
「すまないことを聞いたかな」
「べつに――エドワードはね、ごく普通の呪術を使うわ。対象の肉体の一部――髪の毛だったり、爪だったり――を使ってヒトガタを作るの」
「それに釘を刺すわけだ」
「ええ、まさにそういうこと」
「いくぶん東洋風だね」
「でしょう。単純で、その代わり一番恐ろしいわ。遠く離れた場所から安全に殺せるんだもの」
「イメージとして」わたしは言った。「呪いってのはそういう物な気がするけれど」
「そうでもないのよ。例えばリンダは不便ね、呪文を唱えながら相手の影に刃物を刺して呪術を発動させるの。空間的にも時間的にも、近接的な呪殺法ね」
「あまりメリットが無さそうだね、それは。やっぱり離れている方が便利だろうに」
「そう、リンダの場合ただの暗殺と同じようなものだわ。彼女はそのせいで一度失敗して、片腕をなくしているの――でも、離れていればいいっていうのも、それが過ぎると考えものだけれど。ラムディなんかは大変よ、相手に直接触れて呪いをかけると、ずっと徹夜して、五回日を跨がなければならないの。そうしてようやく、呪いを発動できる」
「冗談みたいだね、どうも」
「ええ、ほんとうに。冗談と言えば、アイリーンなんかも大変よ。相手の身体に紋章を描いて、一日気付かれないようにする必要があるもの」
「あんたの夫は?」
「シルヴァーも紋章を刻むわ、ただし空間に。三つの紋章で囲まれた区域に対象を一時間留める」
「それで、あんたは?」
テリイは、すとわたしの胸元に手を当てた。手の甲の刺青が、怪しく輝いている気がした。
「こうして、相手に触れて、呪文を唱えるだけ――わたしが一番単純で、手間がかからない」
冷たい声で、彼女は続ける。
「皆、呪術を発動させるときは呪文を唱えるの。だから怪しげな言葉を唱えている人を見たら注意することね、まさにその瞬間に、人が死ぬって事だから。――どんな呪文か、気になる?」
彼女の手がこわばっているのが分かった。わたしは彼女の話をまるっきり信じてなどいなかったが、彼女の目つきのせいで、背筋に冷たいものが走った。「よしてよ」そう言うわたしの声は僅かに震えていた。テリイは、目を細めて、手を離した。「まさか、いまここでやると思った?」
「いつであっても、どこであっても、やってほしくはないね」
「でしょうね」
彼女はグラスの中の酒を、なめるようにして飲んだ。
「聞くに、随分剣呑な雰囲気だね」
「そうは言っても、それなりに仲よくはしているわ。――たった六人の同族だもの」
それきり、その日は、彼女がファミリーの事について語ることはしなかった。
その日はその一杯で切り上げて、わたしたちは外に出た。
テリイはいつも、黒のベンツに乗っていた。二年ほど前に購入したもののようで、よく手入れされている様子から、この車に対する彼女の愛着が窺えた。彼女が言うにはボディは高撥水加工をしているという事で、ちょっとやそっとの雨や雪では汚れないという事だった。
「送って行こうか」
そう言って、テリイは助手席を開けた。わたしは近くまで車で来ていた。だから彼女の好意を断って、さよならを言った。彼女もさよならを言った。わたしたちの口にはよくなじんだ響きのことばだった。
テリイとわたしの付き合いは、ちょうど一年続いた。わたしたちの間では、毎週金曜日の夜に飲むのが恒例のようになっていた。
彼女との付き合いの、最後のひと月、彼女は二週間ほど姿を見せなかった。さして心配していたわけでもなかったが、しばらくぶりに会ったその日、わたしは彼女にそれとなく尋ねた。彼女はなんでもないように答えた。
「ちょっといろいろ立て込んでいて。リンダがひどく手首を捻ってね。その治療やらなんやらで。治るまであと一週くらいかかるって」
「そりゃ大変だ――でも安心じゃないか、これでリンダはナイフを持てない」
「おあいにくさま、それくらいはできるのよ。重いものをもったり、つよくものを引っ張ったりは出来ないけれど。それと、ラムディがね、西に出るから」
「西?」
「ロンドン。だから準備を手伝っていたの。三日前の十時頃に向こうに旅立っていったわ」
「へえ。なんでまた」
「あっちの方が本格的に勉強できるからって。呪術じゃなくて魔術なんだけれどね」
「わたしには違いが分からないけれど」
「わからなくていいわ」
「魔術師ってのがいるの?」
「いないわよ、もう。ロンドンに残っている記録を漁りに行くんだって、随分興奮していたわ。出発の前の日は寝かしつけられたからよかったけれど」
「随分子供っぽいんだね、その、ラムディって子」
「まだ十五だもの。元気すぎて手が付けられないくらい」
「それじゃ、寂しくなりそうだね、家の中も」
「ええ……」彼女は、悩ましそうに頷いた。「彼女がいなくなったせいで、均衡も崩れてしまうもの」
「均衡?」
「ええ」
彼女はカウンターのそばに置いてあった紙とペンをとって一つの図を描きだした。
「呪術師は、当然他の呪術師を警戒しているの。だから相手の呪術に対して、防御策を講じている。呪術の属性はいくつかの要素によって区別されるのだけれど、ここでは、五人がどういう力関係なのかを述べるに限るわ」
彼女の描いた図では、各々から他の二人に対して矢印が伸びていて、五角形と五芒星を作り出していた。
「呪術師同士にも相性があるの。いくら防御をしても、相性が悪かったら意味がない。矢印が伸びている相手に対しては、呪殺が有効なの」
「つまり、シルヴァーはアイリーンとラムディに対しては攻撃が効いて、逆にエドワードとリンダに対しては防御が利かない、と」
「そういうこと。だから今まで自分に対して二人の監視が行く形で均衡が成り立っていたんだけれど、ラムディがいなくなって、それがどう影響するのかが心配なの」
「最悪、殺し合いが始まる」
「よっぽど悪ければ、ね」
「ところでなんだけれども」
わたしは首を傾げた。
「あんたは一体、この関係性のどこに入るの?」
すると、テリイはいつものように、寂しげに笑った。
「どこにも。わたしは全員に対して防御が利くし、全員に対して攻撃が利くの――つまり、皆の敵ってことね。わたしは、ひとりなの」
「なあ、テリイ」
わたしはグラスを傾けながら、彼女の顔を眺めた。
「あんたが今までわたしに話したことのすべては、もしかして現実の暗喩(メタファー)なの」
彼女は氷のように笑った。
「わたしはひとりよ。夫との仲は冷え切っているし、同居人たちにもあまり好かれていない。わたしがあのコミュニティにいられるとして、その理由はお金だけなんでしょうね。膨れた財布は魅力的なものだけれど、それを手に入れたいからであって、そう見做されたいからじゃない」
「すこし要領を得ないね」
彼女は叩きつけるようにグラスをカウンターに置いた。グラスの底が欠けたのだろうか、小さな破片が、照明にきらめいて飛んでいった。
「今も、わたしはひとりなのかもしれない」
カウンターの向こうで、若い従業員が怪訝そうな顔をしていたが、何も言おうとはしなかった。
「ねえ、マリイ」彼女は、幼い少女のような声で言った。「まるっきり受け入れてくれるだなんて思ってはいなかったけれど、わたしは、心のどこかであなたが信じてくれることを期待していたのよ」
わたしは自分のグラスを置いた。
「……まるきり信じていないわけじゃないさ」
「いいの、べつに。そう、暗喩だった。そういう事にしておきましょう。そう、わたしは現実をありのままに話すのが怖いんだ。無駄な喩えばかりを使う、迂遠なことしかできない、酒を飲んでもあけっぴろげになれずに怯えてばかりいる。何をするにも一人で抱え込んで、そのくせ誰も分かってくれないんだと腹を立てる臆病者、そういう人間なんだ、わたしは」
彼女は投げやりに言って、グラスの中のものを飲み干した。もう、つぎのものを注文するつもりはないようだった。
「酔いすぎちゃったね、どうにも」
「まだ三杯も飲んでいないでしょう」
「酔いが早く回るときもあるの。今がそのとき。それじゃあ」
彼女はカウンターにいくらかおいて、バッグをとった。わたしは彼女を引き留めなかった。引き留める資格もなかった。引き留める覚悟もなかった。さよならさえ言えなかった。
カウンターに置かれたグラスの中には、まだ半分ほど残っていた。大げさにグラスを傾けて、一気に飲み下そうとして、むせてしまった。その日の酒は、やけに喉につっかえた。
失言だったと後悔した。しかしその頃には、テリイはすでに離れた場所にいるはずだった。その日、彼女からなにかしらの連絡がくることはなかった。もしかするともう二度と連絡は来ないのかもしれないと思った。その事実に怯える私は、間違いなく小心者であるはずだった。
それから二つ、日が変わって、わたしは午前一時に目が覚めた。それはひとつには空にとどろく低い音があまりにうるさかったからだし、もうひとつには言いようのない不安が不意にやってきたからだった――。
◆
拳銃はわたしには向けられていたのではなく、ただ握られていただけだった。掌に収まる程度の小型のものだった。疲れきったような青ざめた顔と、暗い色で統一された服装から、マフィアの女のような印象を覚えさせた。
戸口に立ったまま、わたしは彼女を部屋に通さなかった。彼女はマスク越しの声を出した。
「お別れを言いに来たの。ごめんなさいね、こんな早い時間に起こしてしまって」
「あんたもロンドンに行くのかな」
「ロンドンには、いいえ。ロンドンじゃない、どこか遠い場所へ」
「なんでまた」
夫を探していたの、と、彼女は呟いた。
「夫の様子を見に行こうとして、彼の部屋に入ったの」
「それで」
「部屋にはいなかった。だから敷地中探し回った。停電していたの、そのとき」
「暗かったろうね」
「とっても」
「蝋燭か、さもなきゃランタンでも灯したのかな」
「茶化さないで、あの家にそんなものないわ。懐中電灯が非常用にあるだけ」
「すまないね、どうにも、その先を聞く気が起きないんだ。あんたは敷地中を探し回った。それであんたはシルヴァーを見つけたんだ、そうだろう」
「ええ、二時頃に」
「ひどく酔っぱらった彼を」
「いいえ」
彼女はかぶりを振った。
「彼が呪い殺されているのを見つけたわ」
「人ってやつは簡単には死なないくせに、とても簡単に無自覚に死を真似するんだ。彼は正体を失っていただけかもしれない」
「首元の痕を見れば明らかだったわ。いつか言ったでしょう、呪殺の痕のこと」
「――だれが殺したんだ」
「そう言って、私が殺したんだとおもっているんでしょう」
「まさか」
「言い合いをしたのよ、停電が起こった直後に。ひどく罵り合った。殺してやるとまで言ってやったわ。エドワードも、リンダも、アイリーンもそれを聞いていた」
「それでいて、あんたが殺したわけじゃないんだろう」
「ねえマリイ、今のあなたがわたしに対して、お前が殺したんだろう、なんて、言えるはずがないものね」
「いいかげんにして!」わたしは叫ぶように言った。「そろそろ、あんたの主張を聞かせてくれたっていいでしょう」
「殺してなんかいないわよ、誰のことも」彼女はそう答えた。「でもわたしは夫を見つけた後で、家から車を走らせてここまで来たわ」
「逃げるの」
「逃げなければならないの。――ずっと見てるわね、この銃を」彼女は右手に持ったそれを軽く掲げた。「あなたを撃つわけじゃないわ。誰を撃ちたいわけでもない」
「じゃあなんで」
「身を守るためよ。あの時、あの屋敷の中で、シルヴァーを殺すとしたらわたし以上にぴったりな人間っていると思う?」
「他の呪術師に命を狙われているって? でもあんたには、どんな呪いも効かないんでしょう」
「だけど毒を呷れば斃れるし、ナイフで刺されれば命を落とす。そう思わない?」
「しかし、逃げ出すというのはある種の告白だ」
「もう、誰にも信じてもらおうだなんて思っていないわ」
彼女はそう言った。新月の夜の事だった。彼女の声は深い闇の中に消えて行った。
「だから逃げ出すの。わたしがシルヴァーを殺したと思われたってかまわない。誰にも信用されなくたって構わない。ただ、今は、この命が惜しいだけ」
「ならあんたは、どうしてここに来たの」
わたしは彼女にそう尋ねた。彼女はわずかばかり、頬を緩めた。
「言ったでしょう、お別れをしに。それだけよ。それだけのことなのよ」
「ならあんたは」わたしは言った。「シルヴァーの死をわたしに語る必要なんてなかったんだ」
彼女は何かを言いかけて、しかしかぶりを振った。
「ええ、そうね。そのはずだったんだわ」
「――足はあるの」
わたしは尋ねた。彼女は背後を指さした。黒のベンツが停まっていた。相変わらず汚れ一つない、綺麗なものだった。
「さようなら、マリイ。こんな時間に起こしちゃって、すまなかったわ」
「べつに、いい」わたしは言った。「さようなら、テリイ。いつか、またアイラを」
彼女はわたしの誘いには答えずに背を向けた。ベンツの運転席に乗って、彼女は夜の中へと消えて行った。一迅の風が吹いた。わたしはさようならと、もう一度口にした。口の中が、ざらついたような感触があった。
わたしはしばらくのあいだ、玄関の前で立ち尽くしていた。わたしが動き始めたのは、再び風が強く吹いたからだったのだろう。わたしは目をこすった。部屋にとってかえして服を着替えると、ビートルに乗った。
テリイの家は、まったき闇の中に沈んでいた。ラジオ放送では、この地区では二十三時頃から停電が起きているとのことだった。わたしは家のそばにビートルを止めて、懐中電灯を握って敷地の中へと入っていった。庭の花はひどい有様になっていた。懐中電灯の光を動かすと、一瞬、光の輪の中に何かを捉えた。
車庫のすぐ目の前だった。男が倒れていた。手の甲には、例の刺青が為されていた。外傷はなかったが、首元の痕を見れば、彼が既に息絶えていることは明らかだった。動かされたような形跡もなかった。
わたしは空を仰いだ。月の無い、真っ暗な夜だった。
いいだろう、テリイ。わたしはあんたを信じよう。
わたしは目の前に転がる死体を見下ろした。
・わたしはこの男を殺害した犯人を指摘して見せよう。
・わたしは、テリイ、あんたのことばを信じよう。だから、容疑者はこうなるんだ。
容疑者 容疑者
・テリイ :シルヴァーの妻
・エドワード:テリイの同居人 ・エドワード:呪術師
・ラムディ :テリイの同居人 → ・ラムディ :呪術師
・リンダ :テリイの同居人 ・リンダ :呪術師
・アイリーン:テリイの同居人 ・アイリーン:呪術師
テリイ、あんたが言ったさようならが、わたしへの挑戦状なんだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
補足
・地の文に誤りはありません。
・外部犯は考えなくていいです。
・誰かと誰かが共謀して殺人を犯したという可能性はありません。
◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
〇解答編―Aira―
テリイの話を信じるならば、シルヴァーは呪いによって殺された。そして、シルヴァーを呪い殺すことができるのは、テリイを除けばエドワードとリンダだ。
わたしは暗闇に沈む建物を見た。テリイの話を信じるならば、シルヴァーが死んだのは停電が起こって以降の事だった。また、今日は月が出ていない。つまり、シルヴァーが殺されたとき、この付近はまったき闇に包まれていたことになる。
リンダの呪殺法について考える。彼女は、呪文を唱えながら対象の影にナイフを突き刺すという事だった。という事は、対象には影が出ていなければならない。そして、停電が起きていて月明かりもないこの場所で対象の影を浮かび上がらせるには、何かしらの照明で照らさなければいけない。テリイの話では、この家には懐中電灯があるだけだったようだ。ならば、懐中電灯で相手を照らして影をつくり、ナイフを刺せばいい。ただ、問題は、リンダは隻腕だという事だ。
片手で懐中電灯をもって対象を照らしつつ、相手の影にナイフを刺すことはできない。
口に懐中電灯を咥える作戦も考えられるが、そうすると今度は呪文を唱えられなくなる。よって、リンダにこの犯行はできない。
よって、シルヴァーを呪い殺したのはエドワードという事になる。
わたしは一つ、息をついて空を見上げた。
テリイも今、同じ空を見ているのだろうか。あるいはあの黒い、ぴかぴかのベンツをただひたすらに走らせているのかもしれない。わたしは、空に輝く星の頼りない光を、ただ見つめた――。
〇解答編―アイラー
――ただ、問題は。
わたしは、足元の死体へと目を戻した。
この死体には目立った外傷はなく、動かされた跡もなかった。そして、車庫の前に転がっている。
テリイは、夫の死体を見つけてから車を出して、わたしの家まで来たと言っていた。彼女の話を信じるならば、矛盾が生じるのではないだろうか。死体は車庫の真ん前に転がっているのだから、車庫からあのベンツを出してしまうと、死体を否応なしに轢いてしまうことになる。それなのに、この男の死体には外傷はないのだし、動かされた跡もないのだ――一体、どういうことなのか。
そこまで考えて、わたしははたと気付いた。そうか、べつに、車は車庫に入っている必要など無いのだ。外に出されていたと考えれば、問題は無いのだ。
わたしは空を見上げた。相変わらず星たちは弱々しい光を放っていた。テリイは一体今、どこを走っているのだろうか。もう県境を超えただろうか。あるいは、わからない、彼女は船に乗るつもりだという事も考えられる。いったい、テリイはどこに向かうのだろうか。
吹き付けるぬるい風がわたしの頬を撫でた。わたしは手の甲で、目をこすった――。
〇解答編―あいら―
――いや、まてよ。
わたしは足元の死体に目を戻した。
そして、今しがた目をこすった、わたしの手の甲を見た。目がかゆい、ざらついた感触がある――先ほどまで降っていた、そして今、風で地面からわずかにまきあげられた火山灰のせいで。
そう、今日は午前一時三十分ごろから二時十分ごろまで、ここ、鹿児島県鹿児島市では桜島の爆発的噴火による降灰があったのだ。
とすると、テリイのベンツが外にあったとすればおかしなことになる。彼女の車は先ほど見た時、汚れ一つなかったのだ。雪や雨に強い高撥水加工も、さすがに火山灰には太刀打ちできないはずだった。だから、彼女の車は二時十分ごろまで、車庫に入っていたのだと考えなければいけない。
彼女がシルヴァーの死体を見つけたのは二時頃だった。そこから車を出すのだから、やはり車庫の前のこの死体がシルヴァーのものであるとすると、おかしいわけだ。
つまり、この死体はシルヴァーのものではない。
手の甲の刺青から、彼がポッター・ファミリーの者であるのは間違いないだろう。ポッター・ファミリーのなかで男は二人だった、シルヴァーと、エドワード。よって、この死体はエドワードなのだ。
では、エドワードを殺しうるのは誰だ。
そう、ラムディとリンダだ。リンダについては、先ほどの理論を適用して除外できる。問題はラムディだ。彼女の呪殺法は、対象に直接触れて呪いをかけて、徹夜して五回日を跨ぐというものだった。
ラムディがロンドンへ旅立ったのは、最後にテリイと酒を飲んだ日の三日前だ。
テリイと最後に酒を飲んだのは二日前だ。
ラムディがロンドンに旅立つ前日は、彼女はちゃんと寝かしつけられたそうだった。だから彼女がエドワードに対して呪いを仕掛けられるのは、ロンドンに旅立つ当日しかありえない。しかし、そうすると問題が発生する。
ロンドンは日本よりも九時間遅いので、まだ五回、日を跨ぐことができないのだ。
よって、エドワードを呪殺できる人間はいなくなる。
わたしは空を仰いだ。
テリイ、君は一体、わたしをどう試そうとしたんだい。君はわたしがこうして袋小路に入り込むことを予想していたのかい。こうして、エドワードを呪殺できる人間が君だけになった時、それでもわたしが君を信じるのかどうか、君は知りたかったとでもいうのかい。
わたしは目をこすった。こんどは風に舞う火山灰のせいなどではなかったはずだった――。
〇解答編―姶良―
――いや、おかしくないか。
わたしははっとして、足元の死体を見た。足元の死体にはさしたる外傷もないが、わたしは、彼の首元の痕を見て、彼の死を確信した。しかし、テリイは言っていたではないか、呪術の痕は一般人にはわからないと。なぜ呪術に対しては素人に等しいわたしが、そんな確信を得られたのだろうか。
わたしはまた、死体の首元を照らした。
死体の首には、痕が残っていた。
――そう、索状痕が。
つまりエドワードは首を絞められて殺されたというわけだ。
こうすると、犯人を当てるのは易しい。
シルヴァーは時系列的にエドワードより前に死んでいるはずだから、彼には殺せない。ロンドンから首を絞めることは出来ないので、ラムディにもできない。けがをした片腕で首を絞めることは出来ないから、リンダでもない。よって、犯人はアイリーンなのだ。
テリイ、これで充分かい。
わたしは晴れがましい気分で空を見上げた。遠くの空に、唸るような低い音が響いた。また灰が降り始めるのは、時間の問題だろう。
一晩にして二人が死亡したポッター・ファミリー(堀田研究所と門に書かれていた)がどのような末路をたどるのか、わたしにはわからない。均衡が破滅的に崩れ、全員が全員を呪い殺し始めるのかもしれない。テリイにも魔の手が伸び続けるかもしれない。わたしにできるのは、ただ祈り続けることだけだ、テリイよ、無事で在れと。
さようならには二つの意味があるはずだった。わたしとテリイが交わしたのはきっと、悲しくて、さびしくて、切実なひびきを持っている方のはずだった。
それでもわたし(鞠井加奈(まりいかな))は、またいつかテリイ(照井(てりい)美香(みか))と中央駅(鹿児島中央駅)のすぐそばのあの店(炭火焼鳥やじろべえ)でアイラ(本格芋焼酎「姶良」)を飲む未来を想像してしまった。
だけど、さようなら。わたしはそう口にした。風に舞った僅かな火山灰のせいで、口の中でざらついた。あるいは口慣れないことばだったかもしれなかった。
了
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