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夢浮橋

「夢浮橋」

                                   ナカジマ杓子

 京阪宇治駅のバスロータリーは街灯の光に照らされて、穏やかな夜を迎えていた。川面から、さみしい風が吹いていた。むやみに美味いと評判の寿司屋も既に灯りを落としていて、骨格だけがそこにぽつりと残されていた。出町柳の先輩宅でご馳走になった美酒の火照りが身体をほかほかとさせていたお陰か、私は久々にいい気分で、どこか定まらない心持ちのまま、宇治橋へ向けて歩き出した。左手に広がる山々の影に今更の感慨を覚えていると、石(とび)蚕(けら)が数匹目の前を横切る。対岸のパチンコの広告だけが、不釣り合いなほど煌々としている。すぐに歩くのに飽いた私は橋の三ノ間にのんびりともたれて、黒々とした水の流れを、どこを見るでもなく眺めた。無性に人恋しく感じながらも、そこを動く気になれなかった。

暫くそうしていたところ、なんだかふと気配を感じて、後ろに首を巡らせた。ひとが一人、こちらに向けて歩いてきていた。コツコツというのはブーツの音である。そのひとの顔が、灯篭を模した電灯によって、ちらちらと点滅しているのが見えた。

「……あずまや。」

 私はその呟きが自分の唇から出たことに驚き、そしてそれからやっと、それがブーツの彼女の名であることに思い至った。お世辞にも優れているとは言えない私の記憶力が、一体何故その名を覚えていたのか、特に親しかった覚えもない、十年近く会っていない小学校のクラスメイトの顔と名前がするりと出てきてしまったことは、我ながら不思議と言う他なかった。強いて挙げるならば、その苗字が少し変わっていたからかもしれないと思った。実際、いくら頭をひねっても彼女の下の名前までは、思い出すことができなかった。

 彼女の方でもこちらに気付いたようだった。一匹の怪しい酔漢などは良識ある女のひとなら、石蚕と同じく無視してしかるべきであるが、彼女は酔狂なことに足を止めた。それから若干の驚きを込めて、私の名を呼んだ。軽いノックを彷彿させるその確かめるような呼び掛け方を、私は何となく喜んだ。酔っていたのである。そして、私の苗字はさして珍しくないということを、自分の中で確認した。

「ここは涼しいですね。」

 と私は言った。言いながら、彼女がなかなかに社交的なひとであったことを思い出し、私に声を掛けたことには特別な意味はないのかもしれないと考えた。正確には考えようと努めた。それには多大なる困難を伴ったものの、しかし私はやり遂げた。

 お互いの近況、共通の知人、十年ぶりの再開に相応しい世間話がひとしきり続いた。彼女も京都の大学に通っていた。

話すうち、私は嘗て彼女と仲が良かったのではという気がしてきた。でなければ、ここまで話が弾むだろうか。幼少期の記憶というものは往々にして曖昧なものである。

「今もこっちにいるの?」

 と私は尋ねた。

「ううん、家は大阪の方に。」

 と彼女は返答した。親戚の家が白川にあり、遊びに来たのだということだった。私は少し落胆した。

 水音は代り映えもせず続いていた。一台の自動車が通過してゆき、足の裏が小さく震えた。

 会話の中で、私は覚えず奇妙なことに気が付いた。私が彼女の名を呼ぶ度に、小さな羽虫が羽ばたくようなどこまでも微かな陰影がその顔に去来するのだった。一体どうしたことであろうかと考えて、私は先日目にした雑誌の記事を思い出した。名前をむやみやたらと呼ぶのは、惚れている証拠であるとの事だった。そのように受け取られているとすれば、厄介なことかもしれなかった。しかし逡巡の末、それはそれでよろしいと私は考えを改めた。そう受け止めていても尚、彼女が話を続けようとするのは、それなりの理由があろうと思った。繰り返すように、私は酔っていたのである。

 バイクが走り抜けていった。空気が振動した後の余韻が、私達を一寸黙らせた。彼女が口をもごもごとさせたのを、私は横目で見て取った。何か言いたいことがあるのに迷っているという風情であった。

私がさり気なく促すと、彼女は唐突にごめんなさいと謝った。

もっと早くに言い出しておくべきだったのだけれど、タイミングが掴めなくてと彼女は言った。

 彼女はもう東屋ではないのだった。しかし、結婚をしたというわけでもなかった。

会っていなかった十年間の半分ほど、彼女は東屋ではなかったらしかった。そう呼ばれるのは久々であるとのことだった。

私は得心した。

 天ケ瀬ダムの開門を告げる放送が、川から離れるように言ったので、私達は再び歩き出した。彼女は平等院通りの方へ行くと言い、紫式部像の前で軽く手を振って私達は別れた。

月が虚しく上っていた。クサキリの声が染み渡るように響いていた。

 居るのかもしれなかったし、居ないのかもしれないと思った。

 ただ、澱みなく時間は流れていることは分かった。

第一ホテルの建物からは、まだ僅かに光が漏れていた。

時計道路沿いのコンビニで、私は魚肉ソーセージを買った。

 酔いが醒めるというのでもなかったが、私は広場のベンチに腰を下した。そして、来し方に思いを馳せながら、ピリリとビニールの口を破った。

 なぜか懐かしい味がした。

 
 
 

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