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朝鮮史研究の歴史➀


➀ はじめに 


昨今の韓流ブームの割に、朝鮮半島の歴史をよく知らない人が、私も含めて多い。日本に一番近くて、交流も一番長いはずなのに、我々はあまり朝鮮の歴史を知らないように思われる。例えば、受験生は17世紀の英国史を細かく覚えても、同時代の朝鮮史はほとんど知らない。宋代史は細かく習うのに、同時代の高麗は倭寇と青磁と大蔵経しか習わない。ローマ皇帝の名前は知っていても、百済や新羅の王の名を一人も知らない。多くの人が色々な国の歴史を学び、歴史をドラマや小説などの形で楽しんでいるのに、一番近い朝鮮の歴史をよく知らない。これには朝鮮史認識を形作る外国史教育や外国史研究のあり方が大いに関係しているのではないか。今回、日本人の朝鮮史研究の歴史をたどり、その原因を捜してみたいと思う。


 なお、朝鮮半島に勢力を持った国家群(新羅、百済、高句麗、渤海、高麗など)を総称して朝鮮と呼び、区別のため朝鮮王朝は李氏朝鮮と呼ぶ。朝鮮は民族の名前であって差別語ではない。むやみにコリアや韓国に変えてしまうと、問題が見えにくくなることがあるので注意が必要だ。また、史料で用いられている場合には、中国を「支那」と表記する場合もあるがご了承願いたい。




② 東洋史と朝鮮史


明治43 (1910)年に李氏朝鮮は日本に併合された。その後、日本の学術の中心である東京帝国大学では、大正5(1916)年にどの学科にも属さない朝鮮史講座がもうけられていた。朝鮮は日本の国土になったのだから国史科で研究すべきとの声もあったが、朝鮮史は年昭和7(1932)年に東洋史学科へ編入された。【東京大学百年史編集委員会(1986)424、626】国家が広がれば、国史は新たな領域も含むかと思いがちだが、朝鮮史は、その学問の性質上、東洋史に分類されたのである。では、東洋史において、朝鮮史はどのように扱われてきたのか。


その東洋史は那珂通世(なかみちよ)が考案した。従来旧制中学では、万国史(西洋とインド・ペルシャの歴史)と「支那」史、国史が教えられていたが、彼はそれらを東洋史・西洋史、国史に三分して履修させるよう提案した【三宅(1915)32】。


 日本における朝鮮史研究の歴史を考える上では、東洋史という学問の枠組み、東洋史を作った那珂の朝鮮観を見ておく必要がある。




③ 『外交譯史』計画


通史とは太古から現代まで通して描いた歴史書のことで、対象の国家や民族の歴史を概観して研究の見通しを持つためには不可欠なものである。那珂通世(1851~1908)は二つの通史を書こうと試みた、東洋史研究の草分け的存在である。


一つは中国の通史である。彼は明治21~23(1888~1890)年に、当時の旧制中学「支那」史教科書として『支那通史』を書いた。それは日本初の西洋風(人種・地理を説き、時代区分をして、政治史のあとに文化史・制度史を書く体裁。今の歴史教科書と同じ)の中国通史である。そして、モンゴル文史料に基づいて元朝史を書くためにモンゴル史研究を始めたため、『支那通史』を宋代で中断した。【以上は三宅(1915)25、28、57、59】


もう一つの通史、すなわち日中朝関係史を書いた『外交譯史』も、モンゴル史研究のために雄略天皇で中断した。『外交譯史』序文は明治26年だが【那珂(1893)序2】、その1巻「上世年紀考」は明治11(1878)年の「上古年代考」【『洋洋社談』 明治11年38号だが、筆者は未確認である。】、明治21(1888)年の「日本上古年代考」がもとになっていることから、中国通史やモンゴル史に関心を持つよりもかなり早くに那珂通世は日中朝の交渉史執筆を構想していたと推測できる。そして、彼は『外交譯史』に掲載された段階で、「上古年代考」を出した動機を、「各國ノ史志ヲ比較シテ、人類ノ發達ヲ考究シ、殊ニ隣邦ニ關係セル事實ヲ詳カニシテ、彼此相及ボセル影響ヲ明カニセントスルニハ、精確ナル年紀ヲ得ンコト、甚要用」【那珂(1893)1】だからである、と述べ、朝鮮の史書を用いて、『日本書紀』の年紀の誤りを指摘した【同41】。彼が朝鮮史を研究した動機は、朝鮮史自体よりは、古代日本の朝鮮との関係史や日朝間の影響への関心からであったとわかる。




④ 朝鮮史講演


時代は下るが明治28 (1895)年に彼が行った、「東洋歴史地理講義」と題した講演から、彼の朝鮮観を考える。


まず彼は、第一回講義【那珂(1895)A】で、西洋人の言う世界史が西洋人種―ハム、セム、アーリヤ人―ばかり書くことを批判し、たとえ東洋―アフリカ、エジプト、メソポタミア以東を除くアジアーが「野蛮」であっても、戦争や貿易、日本を盟主とした連携のためにも日本に近い東洋諸国の歴史地理を知るべきだと述べる。そして、朝鮮、中国、東南アジア、インド、西アジア、ロシア領アジア(ほぼ中央アジア)という日本に近い順に彼は地理歴史を述べる。(ちなみに、中東史は戦時中までは西洋史で教えられた。羽田(2005)参照。)


第三回講義【那珂(1895)B】で彼は檀君神話(帝釈天の息子と熊から人間になった女の夫婦が生んだ檀君が朝鮮民族の祖先であるという話。)・三韓から現在までの朝鮮史についても概説する。彼は『三国史記』、『東国通鑑』を始め多くの朝鮮史書を読んでいたが【那珂(1893)69、70】講義自体は、任那日本府、隋唐の高句麗遠征、新羅・唐による朝鮮半島統一など日中との交流史が中心である。中国王朝の統一・分裂とほぼ同時に統一・分裂を繰り返した他律的な歴史だったと述べる【那珂(1895)B 28】。


また、第四回講義では李氏朝鮮の歴史を扱ったが、室町時代の日朝交流、豊臣秀吉の出兵、満州族の侵攻、朝鮮通信使、柳川一件(対馬藩が勝手に幕府と李朝間の国書を書き換えた事件)、開国とその後の政変だけ書いていて、空白が目立つ。【同(1895)D】


短い講義だけで那珂の朝鮮観を述べるのも不十分である。だが、『外交譯史』計画と、交渉史を中心とする彼の朝鮮史概説から、彼は朝鮮史自体よりも、むしろ日中朝の交渉史、今風に言う東アジア史に関心があったと言える。




⑤ 交渉史中心の理由


 また、那珂が日中史料の残っている日中と朝鮮との交流史に関心を持っていたのは、朝鮮側の史料が不足していたことも理由の一つであろう。


歴史研究では、同時代に残された文章や同時代のものや遺跡(出土した土器や住居跡など)、後世に編纂された歴史書などの史料を材料として、過去を明らかにする。例えば、日本古代史の歴史は、木簡などに書かれた同時代の記録と、鏡や青銅器の年代測定、遺跡の調査結果と、『日本書紀』などの後世の歴史書を組み合わせて初めて、具体的な歴史像が見えてくる。同時代の記録は断片的で人物の関係や全体的な政情などがわかりにくい。一方の後代の編纂史料では、書かれた当時の認識を反映したり、政治的理由で改ざんや意図的な削除がなされていたりする。歴史学者は、できるだけ多くの史料を集め、史料の信ぴょう性を疑う史料批判をし、より精確に事実を反映しているであろう史料を用いて、過去の事件を再構成する。


だが、【中見(1992)120】の言うように、明治期の誕生間もない東洋史では、史料が不足してせいぜい概説しかできず、本格的な研究には到達していなかった。また、考古学的な調査も未だ十分になされていなかった。そして、一番史料が不足していたのは、明治43 (1910)年まで存続した李氏朝鮮である。新羅・高句麗・百済は『三国史記』、高麗は『高麗史』という正史(王朝が編纂・公認した歴史書)があった。だが、現存の李氏朝鮮には正史がなかった。また、李氏朝鮮の根本史料である『朝鮮王朝実録』(以下『実録』)が閲覧できなかった。そのため、那珂が日中に関係のある李氏朝鮮史上の事件しか講演で述べなかったのは、あえてしなかったのではなく、できなかった可能性が大いに高い。例えば、日本初の李氏朝鮮通史『朝鮮近世史』(1901)を書いた林泰輔は朝鮮の官僚の著作を多数使用したが、彼も『実録』は利用できなかった。




⑥ 実録なし


実録とは、王の言動や臣下とのやり取りを通時的に細かく記したものである。例えば、「○○王〇年〇月壬申、王曰~、戸曹○○啓曰~、王従之」(訳 ○○王の〇年〇月壬申の日に、王が~と言った、財務大臣の○○が~と申し上げ、王はこれに従った)という具合に書かれる。日中朝の王朝で書かれてきたもので、李氏朝鮮では建国してすぐから作っていた。王の死後に公文書を編集したものだから、貴重な史料として現在の李氏朝鮮研究でも必ず参照される。だが、韓国併合以前は、17世紀にしばしば政策史料として使われることはあっても【今西(1914)204】、ソウルの王室書庫と赤裳山、五台山、太白山、江華島山奥の書庫に封印され【今西(1914)187~190】、ほとんどの人は読めなかった。まして、外国人がそれを閲覧・出版するなどはできなかった。




⑦『実録』到来 


 こうした『実録』がない、史料不足の状況は韓国併合で変わる。日本の統監府の影響下で明治39(1906)年に不動産法調査会が設立されて以来、李氏朝鮮時代の土地や相続に関する旧慣調査が行われた中で、多くの李氏朝鮮王族の書物がソウルに集められた。1910年の併合で朝鮮総督府が設置されると、明治45(1912)年に総督府官房に属する参事官、大正4(1915)年には総督の諮問機関である中枢院にその業務が受け継がれた【朝鮮總督府(1935)20、27、225、226】。旧慣調査において『実録』は、貴重な文化財ではなく、「李朝ニ於ケル制度舊慣ノ調査上必須ノ資料」【朝鮮總督府(1913)43】として、大正2(1913)年6月までにだいたいの調査が終わった【山本四郎(1984)291】。その図書調査の中で、五台山の『実録』は大正3(1914)年3月に京城に運ばれた【李(1993、2006)146 原史料は『月精寺蹟記』】。


これより先、当時東京帝国大学史学科地理学教授であった【東京帝國大学(1932)417】白鳥庫(しらとりくら)吉(きち)は、寺内正毅(まさたけ)朝鮮総督に『実録』を東大に移してほしいと願っていた【白鳥(1914)198】。その願いが許可され、白鳥が大正3(1914)年8月に朝鮮に渡った後、12月に東大へ『実録』が搬入された【同206】。しかし、大正12(1923)年の関東大震災により『実録』を収めた東大附属図書館が火事に遭い、ほぼ焼失した【學士會(1923) 8、9】。その後、生き残った太白山、江華島の『実録』が京城帝国大学へ昭和5(1930)年に寄贈され、1930~32年に同大学から日本の官公立学校に縮刷版が配布された【末松(1959)286、321】ことで、引き続き李氏朝鮮史研究が行われた。




参考文献 

今西龍(1914)「李朝の實錄に就て」『高麗及李朝史研究』今西春秋(1974)編、国書刊行会


學士會(1923)『學士會月報』427号 學士社


白鳥庫吉(1914)「朝鮮旅行談」『白鳥庫吉全集 第10巻』(1971)岩波書店


末松保和(1959)「李朝実録考略」『末松保和朝鮮史著作集6 朝鮮史と史料』(1997)吉川弘文館


朝鮮總督府(1913)『朝鮮總督府施政年報 明治四四年度』


同(1935) 『施政二十五年史』


東京大学百年史編集委員会(1986)『東京大学百年史』部局史1東京大学出版会


東京帝國大学(1932) 『東京帝國大学五十年史』下冊 


中見立夫(1992)「日本東洋史学黎明期における史料への探求」『神田信夫先生古稀記念論集 清朝と東アジア』山川出版社


那珂通世(1893)「外交譯史」故那珂博士功績紀念會『那珂通世遺書』非売品


同(1895) A「東洋歴史地理講義」第2回 『大日本教育界雑誌』162号 大日本教育界編、宣文堂書店出版部復刻


同(1895)B同第3回 同165号


同(1895)D同第4回 同166号 


羽田正(2005)『イスラーム世界の創造』東京大学出版会


林泰輔(1901) 『朝鮮近世史』


三宅米吉(1915)「文学博士那珂通世君伝」故那珂博士功績紀念會『那珂通世遺書』非売品 


山本四郎(1984) 編「大正4年11月総督府施政歴史調査書類」18章調査事業.『寺内正毅関係文書』首相以前 京都女子大学


李亀烈著、南永昌訳(1993、新装版2006)『新装 失われた朝鮮文化―日本侵略下の韓国文化財秘話』新泉社



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