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吾輩も一回生であった 


 吾輩も一回生であった。将来の見通しは当時も今もまだない。どうしてこうなったのか、頓と見当がつかぬ。何でも数学の先生Mの暴言で傷ついて、教室で一人膝を抱えてにゃあにゃあと泣いていたことだけは記憶している。(関西は一回生、関東は一年生という。)




目次 


・なぜ京大/文理の壁/怠惰/僕はコマじゃない/学問ごっこ/友/あとがき




・なぜ京大


 京大を選んだ理由は三つある。(就活の面接でも聞かれる。)


一つ目に、兄が通っていたから。兄弟で京大はよくある。中一で、古典の先生に進路を聞かれて、知っていた「京大」と言った。それ以来、「自分は京大に行く」と思い込んだ。兄を訪ねるたびに、京大で学ぶ兄がうらやましかった。高二のときは、兄の手引きで、文学部の講義に潜り込んだほどだ。


二つ目に、難関大学なら入学後に何とかなると思ったから。学年主任の先生が、高三の春に「高い山に登ってください。低い山からは見えない景色が見えます」と言っていた。吾輩は中学以来京大を目指していたので、京大志望でよいと思い込んだ。


三つ目に、中国史を学びたかったから。吾輩はもともと国文学に興味があったが、中国史に関心が移った。(余談 自分の関心の変遷を知ると就活に役立つ。関心の対象は変わるから、自分の将来をあまり限定的に考えなくてもいい。)小学校で『四谷怪談』『今昔物語』にはまり、中一で品詞分解によって古典が読めることに感動したことがきっかけである。中三のとき、『平家物語』冒頭の「秦の趙高、漢の王莽…」が気になって、貝塚茂樹の『史記』、冨谷至の『古代中国の刑罰』を読んだ。それ以後、吾輩は中国古代史にはまった。進学を決定づけたのは、高二の夏に受けた、人文科学研究所(人文研)のセミナーだ。父の勤め先の高校に来たパンフで偶然知った。オープンキャンパスの前後に、高校生を集めて、漢籍の講義や書庫見学を行った。そこで冨谷先生に出会って話し、いよいよ京大に行きたくなった。


高校の頃は、大学の後を考えなかった。吾輩の周囲には、推薦で大学を決めたが、将来の職業を明確に説明している人がいた。例えば、サッカー部のある人は、顧問の先生のようなすばらしい先生になりたいという夢を語っていた。その姿は吾輩にはまぶしかった。一方の吾輩は、大学を出た後を考えず、学問は楽しみのためで、大学とは好きな学問を究める場所だと思っていた。(学問の意義については、『研究計画書デザイン』参照。)ああ、大いに偏っていた。




・文理の壁


吾輩は、数学ゼミの先生(仮にMとしよう)ゆえに、理系が怖かった。ゼミはほぼいじめだった。母校では、進学校を目指して、放課後に非常勤の先生を呼んで、数学ゼミをしていた。そこでは、模試の数学の点数が一定以上の生徒に、問題と答えを割り当て、それを板書・説明させる方式をとっていた。吾輩は数学が苦手で説明も下手だったから、何度も怒鳴られた。耐え難いのは、Mが文系を貶める言葉をよく吐いたことだ。すっきりしていない板書を「国語の答案みたいにだらだらと」と言ったり、「文系の男嫌い」と断言したりした。理系は文系の敵だとさえ思った。


大学ではある理学部生の影響で、理系が怖くなくなった。太田出先生の東洋史の授業は、四共(吉田南四号館の略。共東は吉田南総合館東棟の略。)の階段教室はごった返していた。(柴山圭太先生の「社会システム論」などの人気講義で大混雑。)多くの人は、中国に関心があるからではなく、その授業が出席とコメントだけで単位が来る楽単だから取っていた。楽単は、概説的過ぎてつまらない、怠けすぎで単位を落とすこともある。とはいえ、学内フリーペーパーの『Chot Better』の春・秋号で探す人も多い。


全学共通科目、中でも概説的なものでは、文系と理系が混ざって受けることも多い。吾輩は隣に座った理学部生に話しかけられた。彼は他学部の学生と話したいそうで、授業後に彼と二三時間ほど立ち話した。彼の志望は地学だったが、話は科学全般にわたって面白かった。そして、彼は授業でもいつも真剣だった。理系には、文系の全学共通科目は出ないか寝るかしている人もいると聞く。だが、彼はいつも真剣に聞き、しっかりと調べ考えて意見を述べていた。文理の壁を越えて学ぼうとする彼の姿がかっこよかった。また、理系の人が文系の学問を学んでくれていることが、素直にうれしかった。




・怠惰


 GW明けころから、吾輩は無気力に苦しんだ。理由は三つある。


 一つ目に、コマを入れすぎた。大学では、コマ数制限(cap)の範囲内で、取りたいだけ授業をとれる。兄から「やる気のある一回生のうちにとれるだけとれ」と言われたので、一日平均四コマは取った。一日何コマが適切かはわからない。確実に言えるのは


・理系は学部指定講義が多いとか→自分で決める余地が少ない。


・文学部は英語以外は自由に決められるから、つい取りすぎる。


・文学部は二回生のときに履修できる講義が少ない。


→二回生のときに取る分も残す。教員・司書・学芸員資格を取る人はそれも考慮。授業を履修して得た資格は、将来の職業選択肢の一つとなる。


(履修できる=履修して単位が出る、時間割に登録される)


・一日四コマ続きは疲れるし、十五分間での教室異動も大変。


授業の入れすぎは二つの問題がある。一つ目に疲れる。帰宅後や休日には動けず、パソコンを眺め、夜が来るのを待っていた。二つ目に、各授業がおろそかになる。課題のない授業も多く、予復習の他に、自分で課題を探す必要があるらしい。そうしないと、ただ受けているだけで、授業が身につかない。しかし、吾輩は何も考えず、単位を取らねばと焦っていた。(高校は受験で使えるかを重視するが、大学では単位になるかを重視する人が多い。単位にならずとも学ぶ人も多いが。)


無気力になった二つ目の原因は、高校の延長で授業を受け、受験の次の目標がなかったからだ。入学時にやろうと思っていたイスラームへの興味を失い、何をしていいかわからなくなった。東長靖先生の授業で紹介された研究入門で本を探さず、(日本で二番目に大きな大学図書館があるのに)自分でイスラーム関係本を読まなかった。これから何をしたらいいかわからなくなった。『○○の歴史』のような概説書(学問的な内容を、新書などの形で、一般読者向けに平易に解いた本)は世界史の延長かと誤解して読まなかった。専門的な研究書(学術雑誌に載った論文を中心に、研究者向けに、注や説明を省略せずに書いた本)は歯が立たず、何もできずにいた。(ちなみに、『○○研究入門』で探す、新書や研究書の参考文献を読む(芋づる式)、kulineやNDLサーチなどのOPAC(蔵書検索システム)で検索(件名や分類で検索するのもあり)など)


無気力の代償は大きかった。まず英語について。ライティングの単語テスト、GORILAはともに単位に反映するが、それだけでは足りぬ。(単語帳は基本的な語彙を網羅しており、文学部については、院試まで使える。)青谷正妥先生の英語勉強力という講義に出ていたが、吾輩は日々の練習を怠っていた。(先生はスピーキングを基本にした、脳科学に基づく英語勉強法を講義なさった。ご著書、youtube、「新入生リンク集」http://aoitani.net/Links.html を参考。)


実際に、十二月の二度目のTOEFLは、ほぼ四月と同点だった。中国語は、予習と課題をこなすだけで、自分で単語帳や文法ドリルをせず、身につかなかった。悪いことに、研究に興味があるのに、院試に中国語が出ないことを知ると、それを口実に中国語をなまけていた。その場しのぎでやって、後で苦しむという高校以来の癖は抜けなかった。(自分の悪癖を知っておくと役立つ。)


 学期末はテストとレポートで大変だった。語学は単位を落とさずにすんだが(語学は単位を落とすと翌年再履修)、自分より忙しい同級生が、自分よりずっと高い点をとったのを見て、吾輩は情けなくなった。より大変なのはレポートだった。授業で生じた疑問をこまめに調べていないから、とても苦しんだ。(ただ板書を書くだけでなく、リアルタイムで考えて、それを書き留めねば。)しかも、参考文献はそうそうに借りられ、図書館も大混雑で資料が読めない。また、参考文献の書き方すら知らなかった (『理科系の作文技術』、『大学生のための「論文」執筆の手引 : 卒論・レポート・演習発表の乗り切り方』も参照)




・僕はコマじゃない


 幸いにも、レポートに追われていて、宗教団体(○○研究会という名だが、広島の赤い野球チームのような名前を使う。実は統一教会) の合宿に行かずに済んだ。本学の公認サークルのなかには、宗教団体もいる。生協の出している『サークル大百科』に載っていないものには、危険なものもある。大学は同学会(全共闘の生き残りで、二〇一五年にバリケードストを本学で行った)を取り締まるが、民青や宗教団体は放置する。


 昼休みに吉田南グラウンド横の道でアンケートと称して近づいてきた。(駐輪場にもよく出る)アンケートのはずが、サークルの紹介になり、スマホで動画を見せられた。連絡先を見せろと言われ、吾輩はぼーっと連絡先を教えて、北白河のアジトにもついていった。アジトでプロジェクトXを見せられた後、七月第一週の合宿に来るよう、二人の会員から言われた。吾輩はレポートがあったので、苦労して断った。夏休み中にその正体を知った。彼らが何も知らない吾輩を引き込もうとしたのだと知ると、怒りと悲しみがあふれた。「どうしてだまして引き込もうとするのか」と問いただしたかった。そして、三つの結論に至った。


一 悪党は「大学に入ったからには~しよう」と言って、素性を隠してしのびよる。


二 宗教団体も政党も、組織のコマを探している。 


三 大学に頼れない。


理由㊀大学は学生を放置する。大学に不利益なら、ビデオカメラをもった職員さんで取り囲み、警察を呼び、退学処分を乱発する。


理由㊁学生は大人として、自分の身は自分で守らねばならぬ。




 この事件の後、大学では立て看板の禁止、同学会の逮捕などが続いた。吾輩は、「なぜ宗教団体は公認して、こっちは大弾圧なのか」と、その区別がわからなかった。「自由の学風」「変人は誉め言葉」という宣伝文句は、いまいましい嘘だと思った。こうして、吾輩は大学不信になり、自分もいつか大学に捕まると恐れ、入学を後悔した。そう思いつつ夜の時計台を眺めていると、涙が出そうになった。




・学問ごっこ


吾輩は夏休み中も課題を探さねば、そうでないと無気力に陥ると思った。


まずは、授業で紹介された参考文献を読んだ。特に、佐藤一進先生の現代経済社会論で言われた、『保守のアポリアを超えて』に感動した。その先生はその著書をもとに話していらしたので、後期にやる部分も読んだ。注で引かれた参考文献も一部は読み、本の内容をノートにまとめた。あの頃は、今のように焦らずに、頭からじっくり読み通せた。


さらには、自分でレポートを書いてみた。ネタは全学共通科目の授業から得た。藤原辰史先生の「現代史概論」で、窒素肥料の話が出た。また、二〇世紀学の講義レポートで、戦後日本と朝鮮文化について調べたので、朝鮮にも興味を持った。そのために、植民地朝鮮の窒素肥料について書いた。自分で史料を見ず、研究書を無批判に引用しただけだ。論文に引かれた史料やデータは、書き手の判断で切り取られたものだ。大学では、それを本当かと疑って、自分で原典を読み、実験や検証をして、真実に近づくことを目指す。吾輩はそれに至っていなかった。だが、納得のいくまで調べたり、化学や生物の話を基礎から調べたりしたのは、今でもいい思い出だ。また、レポートを書く中で、文学部の書庫に入り始めた。書庫内には、時代劇に出てくるような帙入りの古い本が並んでいる。学生はそれを自由に手に取ってながめ、多くは借りられる。読めない漢籍を取り出して、ただページをめくるだけで楽しかった。


研究へのあこがれは、夏休みの研究室訪問で強まった。文学部では、一回生の夏に系文属を決め、二回生の夏に専修を決める。吾輩は歴史基礎文化学系、東洋史専修に進んだ。(選んだ系に属さない専修にも進めるが、講義や基礎演習を三回生で取るのは大変。) 研究室訪問では、その準備として、研究室で先生方や先輩の話を聞く。東洋史研究室では、今の指導教授である吉本先生に初めて会った。先生は、


「研究は創作料理や。メニューの決まった定食やない。自分で材料集めて、自分で調理法考えて、一から作らなあかん。」


とおっしゃった。今も吾輩にはそれができるのかを考えている。


将来のことはわからなかった。院に行こうかと考えて、院試の説明会に出たり、文学部の教務さんから院試の過去問を見せてもらったりした。卒業後に就職も考えてはいた。よく考えると、三回生で就活を始めるまでわずかだから、早く先を考えるべきだった。しかし、吾輩は受験の重荷がなくなって、研究もどきで今を楽しむことしか考えられなかった。


(補 就活 エントリーシート(略ES、企業に出す履歴書+志望理由、自己PR文)や志望理由書を書いたり、面接練習をしたりする。ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)には皆苦労する。大学のキャリアセンターに電話で相談するといい。公務員試験を受ける人は早くに試験対策が必要。)




その翌年、史料講読の授業に出て、史料から読み取る楽しさを知って、研究を志したが、破滅の元であった。


多くの人はもっと有意義に夏休みを過ごす。自動車免許を取ったり、アルバイトで社会経験を積んだり、長期インターンシップに行ったりする。(本格的な職場体験をやっている企業もあるが、説明会とグループワークがほとんど。夏休み以後に行われ、六月には応募締め切りのことも。マイナビ、リクナビなどで検索できる。) だが、吾輩は面倒で怖くてできなかった。自動車は自動運転技術ができるまで運転するまいと思っていた。アルバイトは、今無理して働かずともよい、無理に怒鳴られに行かなくてよい、と思っていた。アルバイトは重要であり、多くの人はガクチカでこれを言う。インターンは説明会やグループワークなどで、実務から遠いことも多々ある。ちなみに、免許を持たないことでつける職種が限られること、アルバイト未経験は社会経験のなさ、ひ弱さを印象付けることを、吾輩はまだ知らなかった。(吾輩は面接で「弱そう、お客さんに怒られてすぐやめそう」と言われた。)ああ、『就活準備』『図解 働き方』を読んでおけばよかった。


 


・友


夏休みに高校時代の友と会った。彼は高二のときに転校してきて以来、吾輩と大の仲良しだ。彼は名古屋に住んでいたので、彼と名古屋に遊びに行った。本屋と電気屋を歩き、喫茶店でしゃべっていた。


彼の大学生活の話を聞くと、自分も努力しようと思った。彼は小学生と交流するサークルを立ち上げ、ゲオでアルバイトもしていた。彼はもともとスポーツ万能で、長期留学経験もあったが、よりアクティブになっていた。そして、公認会計士を目指して、吾輩よりもずっと充実した生活をしていた。前期の吾輩は、ぐだぐだと過ごして、将来の目標もなかった。


夕食の後、名古屋駅を歩いた。吾輩が「もう受験生じゃねえ、遅くなったっていいんだ」とつぶやくと、彼は「そうだそうだ」と言った。吾輩は帰りの電車で、大学図書館の本を読みつつ、内心「もう受験生ではない」ことの重大さを考えていた。


その一方で、大学での友達はほぼいなかった。ガイダンスで隣になった一人とたまに話すだけだった。しかも、同級生との関係を意図的に絶っていた。なぜなら、吾輩は変人で、頭が脂臭いからである。語学の授業でも、あまり周りと話さなかった。たまに出たクラスの飲み会でも、とんちんかんなことばかり言った。迷惑をかけまいと、一一月祭のクラス模擬店にも参加しなかった。(一回生の各クラスは、優先的に出店できた)以後も孤立を深め、周囲が何をしているかを知らず、就活もしなかった。バイトやサークルで授業を休む人を馬鹿にし、嫌われないように近づくまいとしていたために、意図的に彼らを避けていた。




あとがき


 今回の話は、就活の面接準備や面接で思い出したことを、まとめたものである。吾輩は低レベル院生で、研究に挫折し、就活してみたが、やはり研究を続けようかと迷っている。(文理で意味が違う。理系院生は、専門的な知識を即戦力として活かせるので、院に進学する人も多い。文系の知識は即戦力でないので、院進学=研究職を目指すこととされる。しかし、研究に挫折して就職する人もいる。) なぜ身動きとれぬ状態になったのかがわからなかった。そこで、自分の過去を高校から見直してみた。すると、自分はその場だけやり過ごそうとする癖、孤立癖、行動の伴わない強い義務感があることがわかった。また、チームでやり遂げた経験の欠如は、就活で不利になることもよくわかった。ガクチカでは、サークルやアルバイトで、チーム一丸となって達成したことを言った方が、働く姿を想像させやすい。しかし、吾輩にはそうした経験がなく、自己PRもガクチカもろくに言えなかった。こうした吾輩の失敗談は、これから大学生活を送る人にも役立つかもと思って、新歓冊子に載せる。




言及した本(稲盛以外は学内図書館に所蔵)


稲盛和夫(二〇〇九)『図解 働き方』三笠書房


貝塚茂樹(一九六三)『史記 中国古代の人びと』中央公論社


木下是雄(二〇〇二)『理科系の作文技術』改版、中央公論社


杉村鉄(二〇一三)『就活準備:就活を始める前に気づいておきたかったこと』文芸社


高崎みどり編著(二〇一〇)『大学生のための「論文」執筆の手引 : 卒論・レポート・演習発表の乗り切り方』秀和システム


冨谷至(一九九五)『古代中国の刑罰:髑髏が語るもの』中央公論社


細川英雄(二〇一五)『研究計画書デザイン:大学院入試から修士論文完成まで』増補改訂、東京書籍



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