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南北朝漫談㊃ 廃立

 

物騒なタイトルですまない。本稿では、南朝劉宋(四二〇~四七九)の廃立について述べる。廃立とは、在位中の君主を強制的に退位させることで、前漢以来多々見られた。廃立は君主の地位、国家のあり方と密接な関係がある。その意義について、戦前の歴史家、内藤湖南 (文庫版二〇一五 二一頁)が以下のように概括した。

「君主は一族すなわち同姓の親族のほかに、外戚・従僕までをも含めた一家の共有物で、従ってこれら一家の意に称(かな)わないと廃立が行われ、あるいは弑逆(しぎゃく)が行われた。六朝より唐にいたるまで、弑逆・廃立の多いのは、かかる事情によるので、この一家の事情は、多数の庶民とはほとんど無関係であった。」

すなわち湖南は、廃立の多発の背景に、君主を皇室一家で共有するという唐以前の国家構造を見出したのである。その見立てに従えば、廃立が多発する背景を明らかにすることで、唐以前の国家構造の特殊性を解明できよう。唐以前では、宋斉梁陳の南朝(四二〇~五八九)で特に廃立が多く、一七〇年間に七回(斉の東昏候を含む)起きた。また、新皇帝を補佐するはずの臣下が廃立を行ったり、廃立を行った臣下が即位したりするなど、君主の地位は不安定であった。本稿では、宋の三回(少帝、前廃帝、後廃帝)の廃立を中心に、即位から廃立に至る過程をたどり、廃立が多発する背景を考察する。特に、宮中の近衛兵(宿衛)、彼らを含めた宮中の軍隊を管理する領軍将軍に注目する。この職は、『宋』巻四〇、百官志下に記述があり、越智(一九六一)の研究がある。

危篤の皇帝が臣下に次期皇帝の輔佐を任せる命令を「顧命」と言い、輔佐を託された臣下を「顧命の臣下」と呼ぶ。本稿では、顧命の臣下たちが新皇帝を補佐する体制を、川合(二〇〇二)にならって「輔政体制」と呼ぶ。

最後に、宋の建国に至るまでの流れを概略しておく。西晋が三国を統一したが、内乱と遊牧民の侵入によって滅んだ。三一七年に皇帝が遊牧民に殺されると(『晋書』巻五、孝愍帝紀、建興五年、一二月条)、建康(今の南京)に駐屯していた司馬睿が皇帝に即位し、長江以南(三国呉の旧領)を治めた(東晋)。しばらくは安定していたが、四〇三年に軍閥により滅ぼされた(同、巻一〇、安帝紀、元興二年一二月条)。劉裕(宋の武帝)は、その軍閥をクーデターで打倒するなどの功績を立て、四二〇年に東晋を滅ぼして宋を建国した(同、巻一〇、恭帝紀、元熙二年六月条)。宋の後、宋斉梁陳と王朝が交代した。以後は、それら南朝が、北方の遊牧民政権(北朝)と対立・交流する南北朝時代となった。五八九年、陳が北方の隋に滅ぼされて南北朝が統一された。この時代を六朝時代ともいうが、六朝とは、三国の呉、東晋、南朝のことである。


〇少帝

 少帝(劉義符)は初代皇帝武帝(劉裕)の長男で、十七歳で即位した。だが、武帝に輔佐を託された大臣に廃立・殺害された。永初三(四二二)年、武帝は瀕死の状態となった。前王朝の東晋では、母后臨朝、つまり皇太后が皇帝の代わりに最高権力者となること、が行われた。武帝は遺言でそれを厳禁し(『宋書』巻三・武帝紀 永初三年五月 以下『宋』と略)、徐羨之、傅(ふ)亮、謝晦、檀道濟に少帝の輔佐を任せた(『宋』巻四三・徐羨之伝)。徐羨之は揚州(首都南京周辺の最重要地)長官・録尚書事(中央に集まる文書をすべて管理する最高行政長官)として、宰相の地位にあった。武帝の遺言で、宰相は揚州長官と兼任となっていた。傅亮は中書令として行政を、謝晦は領軍将軍として宿衛を統括し(『宋』巻四四・謝晦)、檀道濟は護軍将軍として全国の軍隊を統括した(※『宋』巻四三・徐羨之伝では武帝の危篤時に鎮北将軍となっているが、巻四三・本伝では鎮北将軍となったのは武帝の死後に南兗州に就任した時)。このように、武帝は内政、軍事の両方を顧命の大臣に任せた。彼らは武帝の挙兵時から仕えてきた、建国の功臣である。

だが、顧命の大臣たちは、喪中に軍事演習を行うなど素行が悪かったので(『宋』巻六〇・范泰伝)、少帝を廃立し、第二皇子の義真も殺害した。廃位に先立ち、徐らは檀道成と王弘を入朝させた(『宋』巻四・少帝紀・永初二年五月)。王弘は名門琅(ろう)邪(や)の王氏出身である。当時の貴族は○○(本籍地)の○氏と名乗って家柄を誇った。首謀者でないことを理由に許されており、積極的に協力してはいない(『宋』巻四二・王弘伝)。檀道成は武帝以来の旧将であり、彼の威信で宿衛の抵抗を抑え、宿衞は誰も動かなかった(『宋』巻四三・檀道濟伝)。謝晦は領軍将軍として宿衛を統括していたが、檀道済の威信により宿衛を確実に掌握したうえで廃立した。また、皇太后令が出され、少帝が種々の悪事を働き、このような皇帝では国家が滅亡すると述べられた(『宋』巻四・少帝紀)。

その後、徐らは荊州長官の第三皇子義隆(一八歳)を即位させた。第三代皇帝の文帝である。徐羨之らは文帝に対抗した。荊州(今の湖北省周辺)は長江上流にあった軍事的要地で、北方遊牧民に備えて厳重な軍備があり、長江を下って都を攻めることもできた。武帝は皇子以外が長官になるなと命じていた(『宋』巻五一・宗室・劉義慶伝)。徐らは謝晦を荊州長官に移し、軍事力を掌握し続けた(『宋』巻四四・謝晦伝)。元嘉三(四二六)年、文帝は徐羨之らを処刑し、謝晦を討伐した。王、檀は許され、文帝に仕え続けた。

文帝は治世三十年で皇太子に殺害された。皇太子は弟の劉駿に討伐され、劉駿が即位した。これが第四代皇帝の孝武帝であるが、彼の子は廃位された。


〇前廃帝

前廃帝(劉子業)は第四代皇帝孝武帝(劉駿)の長男で、十六才で即位した。孝武帝は遺詔で以下の人物に輔佐を任せた。「義恭は尚書令を解任して中書監にし,柳元景は尚書令となって、宮城内に住め。重要事項も細かいことも,すべて二人に関係させよ。大事は沈(しん)慶之と決定し,もし戦があれば、総大将にせよ。尚書中の事は顏師伯にゆだねよ。外監が統括するところは王玄謨に委ねよ。」(『宋』巻六一・武三王・義恭伝)つまり、劉義恭(孝武帝の叔父)、柳元景、顔師伯を行政の中心とし、沈慶之に戦時の総指揮を、王玄謨に外監(調査中)を任せた。

この輔政体制はすぐに崩壊した。劉義恭・柳元景・顔師伯は帝を廃して義恭を即位させようと謀った。前廃帝はそれを聞いて、自ら宿衞兵を率いて彼らを殺害した(『宋』巻七七・柳元景伝)

帝のクーデター後も廃位計画があった。蔡興宗は名門出身だが、顧命を受けてはいなかった。蔡は王玄、沈慶之に廃立協力を求めた。蔡は沈に対し、沈氏の庇護民や宮中の軍隊を、帝の近臣かつ沈慶之の縁戚である沈攸之(ゆうし)(『宋』巻七四・沈攸之伝)に率いさせ、その武力で廃立せよと勧めた(『宋』巻五七・蔡廓附興宗伝)。また、王玄にも挙兵を勧めた(同)。しかし、両者とも蔡の提案を拒否した。沈慶之は前廃帝から自殺を命ぜられたが従わず、沈攸之に殺された(『宋』巻七七・沈慶之伝)。

蔡の廃位計画が実行される前に、前廃帝は殺された。明帝(劉彧(いく)、太宗)は弟たちとともに宮中に監禁・虐待されており(『宋』巻七二・文九王・始安王休仁伝)、明帝の側近、前廃帝の側近と共謀して、自衛のため前廃帝を殺害した(『宋』巻七・前廃帝紀)。そして、宿衞に「湘東王(明帝)殿が太后さまの命を受け、狂主を取り除かれたぞ。」と大声で命令した(『宋』巻九四・恩倖・阮佃夫伝)。また、皇太后令が出され、あまりの悪行で人民が苦しみ、国家が滅亡しそうだと述べられた(『宋』巻七・前廃帝紀)。しかし、明帝の即位を認めない勢力は多く、前廃帝の弟子勛(しくん)を奉じて全国的に反乱した。(安田(一九六七)も参照) 明帝は反乱鎮圧のとき、皇位継承候補者になりうる前廃帝の弟、つまり自分のおいをことごとく処刑した。自分と皇太子の地位を安定させるつもりだったが、明帝の死後にまた廃立が起きた。


〇後廃帝

後廃帝(劉昱(いく))は明帝の長男で、十歳で即位した。蕭(しょう)道(どう)成(せい)はその輔政に参加し、後廃帝を暗殺して廃立した。以下では、後廃帝の即位から宋の滅亡までを、蕭道成の権力を中心にたどる。

明帝は袁粲、褚淵、劉勔(べん)、蔡興宗、沈攸之ら重臣に顧命を与え、後廃帝の輔佐を託した。遺詔では、中領軍の劉に尚書右僕射を兼ねさせ、尚書右僕射の褚淵に護軍将軍を兼ねさせ、蔡興宗を荊州刺史に任命した(『宋』巻八・明帝紀、泰豫元年四月)。中領軍は領軍将軍と同じく、内軍すなわち中央軍を管理する。護軍将軍は外軍すなわち地方軍を管理する。【『宋』巻四〇・百官志下、越智(一九六一)一〇~一二頁によれば、内軍・外軍の指すものは時代によって異なるが、東晋南朝では護軍将軍が外軍(地方軍)を支配した。】

尚書令・尚書僕射は行政の中心である。荊州は本来皇子が刺史となるべき州、郢州は荊州の隣をおさえる軍事的要地である。つまり、褚淵・劉が全国の軍事を統括し、彼らと袁粲が都で輔政し、蔡興宗・沈攸之が重要州を管理するということである。また、遺詔は蕭道成を右衛将軍、衛尉に任じ、褚淵・劉、袁粲と重要事項を管理させた(『南斉書』、以下『斉』と略、巻一・高帝紀 )。

この輔政体制はすぐに変更された。蔡興宗の代わりに沈攸之が荊州刺史に、晋煕王劉 (りゅうしょう、後廃帝の弟)が郢州刺史になった。さらに、蔡興宗は病死し、劉は戦死した。その翌月、褚淵・袁粲は、劉の後任となって中領軍を受けるよう、蕭道成を説得した(『斉』巻二三・褚淵伝)。蕭道成はそれに従った中領軍就任と同時に、蕭道成は褚淵・袁粲、皇族の劉秉(※ 『宋』巻五一・宗室・劉秉伝によると、初代皇帝武帝(劉裕)の弟の劉道憐の孫にあたる。) と輔政を行うことになった。こうして、蕭道成は宿衛を管理する中領軍として、輔政体制に参加した。

新たな輔政体制では、蕭道成と沈攸之が軍事的に互角だった。沈攸之は荊州軍府の長官で、補政体制内では特に強大な軍事力を持っていた。蕭道成は中領軍として中央軍を管理しつつ、地方官を通して沈攸之を牽制した。蕭道成は張敬児が沈攸之を防ごうと言うのを受け、彼を雍州(荊州の北隣)長官に任命した(『斉』巻二五・張敬児伝)。雍州州都の襄陽は荊州州都の江陵に近く、荊州を監視する場所にあった。陳(一九五六)六二~六七頁の言うように、雍州は軍事的に重要だった。また、長男の蕭(しょうさく)が郢州刺史・鎮西将軍の武陵王劉(りゅうしょう)の幕僚となって、荊州隣の郢州に赴任した(『斉』巻三・武帝紀)。蕭道成は荊州周辺から沈攸之を牽制し、軍事面で沈攸之に対抗した。何(一九九六)三一四~三一七頁によると、雍州、郢州が荊州を抑制する地位にあった。新たな輔政体制では、蕭道成の軍事力が強大なものとなりつつあった。

元徽(げんき)五(四七七)年七月、直閤将軍の王敬則が蕭道成の意志を受け、後廃帝の左右二五人らに帝を暗殺させた(『宋』巻九・後廃帝紀)。王敬則は蕭道成と結託し、皇帝の動向をうかがっていた(『斉』巻二六・王敬則伝)。直閤将軍の任務は不明だが、前廃帝紀には彼らが帝の腹心だったとあり、皇帝の親衛隊長であろう。だが、暗殺当日、宿衞は皆逃げ、內外の出入りを管理していなかった (『宋』巻九・後廃帝紀)蕭道成は宮中の軍隊を管理する地位にあって、宿衛に指示したのであろうか。

暗殺後、蕭道成が権力を握った。四貴が次の皇帝を決定する際は、王敬則が四貴を脅し(『斉』巻二六・王敬則伝)、褚淵が蕭道成に主導権を委ねた((『斉』巻二三・褚淵伝)。その結果、蕭道成は独断で後廃帝の弟劉準(順帝)を即位させた。また、蕭道成に暗殺を命じたという皇太后令を出させて暗殺を正当化した。二男の蕭嶷と王敬則に宮中の宿衛を管理させ(『斉』巻二二・豫章文献王伝、巻二六・王敬則伝)、軍事面で四貴に優越した。宿衛を含めた宮中の武力を掌握することで、蕭道成は皇帝を暗殺し、輔政体制内で権力を掌握できた。

廃立の後、蕭道成は宋を滅ぼした。暗殺と同年の一二月(『宋』巻一〇・順帝紀、昇明元年一二月条。同書巻七四・沈攸之伝では一一月に反乱し、一二月に進軍。)、沈攸之が荊州で挙兵した。蕭道成が四貴に相談なく皇帝を暗殺し、宮中軍事権まで掌握したことへの非難がその理由であった(『斉』巻二五・張敬児伝)。宮中では、四貴の袁粲、劉秉が反乱した(『宋』巻一〇・順帝紀・昇明元年一二月)。だが、先述のとおり、蕭道成は長男の蕭と張敬児を荊州周辺に置き、王敬則と蕭嶷に近衛を管理させていた。そのため、蕭の後任となった柳世隆が沈攸之を食い止め(『斉』巻二四・柳世隆伝)、張敬児が荊州州都を占領して沈攸之を敗走させた(『宋』巻七四・沈攸之伝)。宮中内の反乱は王敬則たちが倒した(『斉』巻二六・王敬則伝、『宋』巻一〇・順帝紀・昇明元年一二月)。こうして、蕭道成に抵抗するものは消えた。昇明三(四七九)年四月、順帝は蕭道成に皇位を譲り、宋は滅んだ。


〇結論 

南朝宋の廃立には、三つの特徴がある。一つ目に、宿衛が廃立の成否を左右した。少帝の場合、宿衛を服従させたうえで廃立を行った。前廃帝の場合、帝は宿衛を率いて顧命の大臣を殺害し、廃立計画では宿衛の利用が試みられた。後廃帝の場合、蕭道成が宿衛・親衛隊を操って皇帝を暗殺した。二つ目に、輔政体制がたやすく崩壊した。少帝・前廃帝の場合は皇帝自らが、後廃帝の場合は蕭道成が、輔政の大臣を殺害した。いずれの輔政体制も武力により容易に破壊され、安定的な輔政ができなかった。三つ目に、皇太后令により正統化された。これは、武帝の母后臨朝禁止規定と合わせて考察すべきである。

今後は、他の王朝での廃立を検討し、廃立が可能になる背景を考察したい。


〇制作裏話

 卒業論文のテーマは蕭道成の簒奪だったが、扱った時代が狭く、結論を出すのに苦労した。二月の試問で、先生方に多くの間違いを指摘され、卒業論文を書き直すことにした。冒頭の湖南の言葉を思い出し、時代を広くとって、廃立から時代の特徴を見直そうと考えた。本稿は、卒業論文の書き直し(書きかけ)に用語解説を加え、漢文の引用を削ったものである。これを研究室の発表会で発表したらボロカスに言われ、卒論のテーマはやる意味がないと言われた。それでも夏休みに時代を広げて論文にまとめたが、このテーマには行き詰まりを感じた。そこで、北朝史に移り、後期は北魏の裁判制度を中心にやっていた。


〇参考文献

・史料 『晋書』、『宋』、『斉』中華書局

・日文

越智重明(一九六一)、「領軍将軍と護軍将軍」、『東方学報』四四(一)

川合安(二〇〇二)「宋と劉宋政治史」、同(二〇一五)『南朝貴族制研究』、汲古書院に所収

内藤湖南(二〇一五)『中国近世史』、岩波書店、(原著は一九四七年に出版)

安田二郎(一九六七)「「晋安王子勛の叛乱」について 南朝門閥貴族体制と豪族土豪」、同(二〇〇三)に所収

同(一九七〇)「蕭道成の革命軍団 淮陰時代を中心に」、同(二〇〇三)に所収

同(二〇〇三)『六朝政治史の研究』、京都大学学術出版会


・中文(ピンイン順)

陳寅恪(一九五六)「述東晋王導之功業」、同(一九八〇)『金明館叢稿』初編、上海古籍出版社に所収

何徳章(一九九六)释“荊州本畏襄阳人”」、同(二〇一〇)『魏晋南北朝史稿』商務印書館に所収

祝总斌 (一九八六) 「晋恭帝之死与宋初政争」、同(二〇〇六)『中国古代史研究』三秦出版社に所収




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