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南北朝漫談



今年は南北朝時代の詩集『文選』が、タピオカほどではないですが流行りましたから、北宋の史書『資治通鑑』(一九五六年。中華書局)に基づいて、中国の南北朝時代の話をいたしましょう。(年代は『資治通鑑』に基づきますから、南朝滅亡までは北朝のできごとも南朝の年号です。)




南北朝時代の始まり


三国志と隋の煬帝の間に何があったか知らない方も多いでしょうから、晋滅亡から陳滅亡までの南北朝時代前後についてまず申しましょう。


三国志の戦いのさなか、司馬懿仲達の子が魏を滅ぼして晋ができ、太康元(二八〇)年に晋が三国を統一します。しかし、遊牧民匈奴の攻撃を受け、太興元(三一八)年に皇帝が殺されます。これより先に内乱を避けて永興元(三〇四)年に江南へと逃げていた司馬睿が晋の皇位を継ぎますが、元興二(四〇三)年に宋に滅ぼされます。一方、遊牧民が割拠していた華北は北魏により元嘉十六(四三九)年に統一され、南北対立の構造が明確になりました。内田銀蔵が『近世の日本』で東ローマ帝国とゲルマン国家の対立にたとえた、中国の南北朝時代の始まりです。(内田銀蔵は、日本で初めて江戸時代を近世と呼んだ人です。)




南朝 


南朝が遠征して華北領土を回復することはまれで、領土は北朝に奪われる一方です。防衛のため、皇子に将軍、刺史(州長官)、都督○○諸軍事(○○地域の軍事全般)などを兼任させ、熟練の実務官僚を将軍府や都督府の幕僚、行〇州事(〇州行政の代行人)か州内の太守(郡長官)につけて、国境に派遣し防衛させました。こうして南朝は何とか国土を守ろうとしましたが、それでもよく北朝に侵入されました。


内政は安定が続くこともありましたが、君主が酒や道楽をほしいままにし、君側の奸や外戚が権力をふるうことも多々ありました。(なんです、そういうグロデスクな話が聞きたいですと。いやいや、過激で極端な逸話よりも、人間を動かすもっと普遍的な話の方が面白いですから、今日は割愛いたしますよ。)


最終的には、反乱鎮圧に活躍したかクーデターを起こした武人が、公から王になり、皇帝に禅譲(皇帝に位を譲らせ、臣下が皇帝になることで、実質はクーデターです。) を迫って国を奪うのを繰り返し、宋斉梁陳と王朝が変わります。(平氏を滅ぼした源頼朝が後鳥羽天皇を追放して自ら天皇になるようなものです。)




北朝


漢人王朝が逃げた(漢人は多く残ります。)後の華北は、匈奴、鮮卑、漢人などが各地に国を建てます。匈奴、鮮卑などの五胡以外に、柔然、契丹、突厥、高句麗、蛮など無数の民族が登場するのです。その中から、鮮卑(モンゴル系遊牧民と言われていますが、実際はどうかわかりません。)の拓跋氏が北方から中原を統一し、永明一一(四九三)年に華北の中心の洛陽へ遷都します。しかし、安定もつかの間、冷遇され続けた辺境の武人たちが普通四(五二三)年から大反乱を起こします。それを鎮圧した爾朱栄という荒くれ者が朝廷で全権を握りますが、彼が中大通二(五三〇)年に死ぬと、爾朱栄の武将の高歓が最高権力者になります。しかし、北魏の皇帝は高歓の横暴に耐えられず、中大通六(五三四)年に高歓の部下の宇文泰のもとに逃げます。かくして、魏の皇室を奉じた高歓は東へ、宇文泰は西へ移り、北魏が東西に分裂します。(日本の南北朝時代に似ています。) しばらくして北魏の皇帝を廃して、太宝元(五五〇) 年に東は斉、太平元(五五六)年に西は周を名乗ります。太建九(五七七)年に斉が周に亡ぼされ、太健一三(五八一)に周が隋に滅ぼされます。その隋が開皇九 (五八九)年に南朝の陳を亡ぼし、ついに南北朝時代を終わらせます。


南北朝時代と言っても、日本の南北朝時代とは似ても似つかぬとおわかりいただけたでしょう。さて、次にそんな南北朝時代の面白いところについて話しましょう。




異例の冊封


異民族に官爵(将軍、都督、刺史、太守、王、公など)を与え、その土地の支配を認めること、いわゆる冊封が南北朝時代に盛んに行われます。倭の五王などのように漢人が異民族に官爵を与えることが多いのですが、なんと漢人王朝が異民族に王号を与えられることもありました。例えば、承聖三(五五四)年に南朝の梁の亡命政権が周に滅ぼされて、その宗室を周、斉が梁王に即位させ、諸侯国扱いすることがありました。モンゴルなど近世の異民族王朝であれば、漢人王朝を滅ぼしても冊封などしませんから、異民族に漢人が王にされるなど珍しいことです。




個人の存在と氏族・家柄


この時代は、戦乱を避けて南朝に移住したり、流民になったり、捕虜として強制移住させられたりするなど、身の安全もままなりません。そんな時代に、人々は自分や他人の家柄を重視するようになりました。


南朝では、華北から南渡した漢魏以来の名家が残ります。彼らは武人の簒奪に参加し[一]、どの王朝でも高官を占めます。また、官職も家柄を基準に与えられます[二]。(東洋史では彼らを貴族とすら呼びます。)


遊牧民の北朝でも家柄あるいは氏族は重視です。鮮卑は宇文、拓跋、慕容、段、禿髪氏に分かれて互いに争い[三]、結局他の鮮卑国家は拓跋氏の魏に滅ぼされます。一方で、義煕十(四一四)年に禿髪氏は拓跋氏と同源という理由で源の姓をもらうなど、同族の意識も確かにあります。


南北とも今と違った親族意識が存在し、人々の生を左右したのです。




廃仏と崇仏


 社会不安の影響を受けてか、この時代は仏教が流行します。南朝では廃仏が起きませんが、北朝では廃仏と崇仏の両極端を行き来します。北魏では元嘉二三(四四六)年に僧侶処刑令・仏像破壊令が出ますが、元嘉二九(四五二)年に禁令が解けて以後、厚く仏教が保護されます。しかし、中大通六(五三四)年に魏が分裂し、西の周では太建六(五七四)年に仏教・道教が禁止されます。しかし、隋を開く楊堅(煬帝の父)が実権を握った太建一二(五八〇)年に禁令が解かれます。もちろん、唐や五代の時代にも廃仏は起きますが、南北朝時代には廃仏と仏教愛好を極端に行き来します。




歴史学の継続


南北朝時代は戦争に明け暮れますが、古代のものが全て破壊されたのではありません。古代文化の中でも、歴史書を作り読むことは南北で続けられました。南朝では、元嘉一五(四三八)年に大学に史学科(実態不明) が設けられるなど、歴史を学ぶことは続きます。建元二(四八〇)年の『宋書』(正史の『宋書』とは別)のように個人的に史書を作ることもあれば、永明十(四九二)年の『宋書』のように、王朝が正史を作ることもあります。


北魏も史書を編纂させ、永明五(四八七)年からは単純な年代記を改め『史記』・『漢書』式に紀伝体で書きます。北魏が分裂して間もない大同十(五四四)年の東魏では、北魏の歴史書『魏書』編纂が開始されます。


古代帝国の漢が崩壊した後にも、歴史を書くこと、読むことは続き、唐初の歴史書編纂事業に結実します。政治的には不安定で明日をも知れない時代にも、人々は歴史書を書いて読むことをやめなかったのです。




南北朝時代を見る意味


 中国は統一されているのが正常だとすれば、南北朝時代は中国が分裂した変則的な時代です。また、家柄の重視や極端な仏教政策などの現象は、宋以降の中国に受け継がれなかったように見えます。しかし、だからといって、南北朝時代は中国史の異常な時代として片づけてはならないと思います。そうした不思議な時代の史料を丹念に読めば、近代史だけではわからない中国史を貫くものが見えるはずです。『資治通鑑』だけではなく、南北朝時代の正史もしっかり読んでからまた面白い話ができればと思っております。




読書案内


最後に南北朝時代について知りたい方のために、読書案内を行っておきます。全体の流れを生き生きと動的につかみたい方は、川勝義雄の『魏晋南北朝』(二〇〇三年。講談社学術文庫)をお読みください。(私はこの本と『資治通鑑』が面白くてこの時代に関心を持ちました。) 家柄の話で触れた官吏登用制度については、宮崎市定全集六巻所収の『九品官人法の研究』(一九九二年。岩波書店) が一番です。(五十年以上誰も覆していない名著です。)


今回あまり触れられなかった文化史、精神史については森三樹三郎の『六朝士大夫の精神』(一九八六年。同朋舎) 、内藤湖南全集十巻の『支那中古の文化』(一九六九年。筑摩書房)、吉川忠夫の『六朝精神史研究』(一九八四年。同朋舎)をお読みください。『六朝精神史研究』は難しいですが、序章だけでも見てください。


 皆さまつまらぬ話をお聞きくださり、ありがとうございました。











[一] 例 昇明二(四七八)年条では斉を建てる蕭道成が王倹を幕僚にします。 [二] 例 永明八(四九〇)年条では吏部尚書(人事部長)が「不譜百氏」を理由に、皇帝の決めた後任を拒否します。(百氏とは人選の判断基準となるいろいろな氏族のこと。) [三] 太興二(三一九)年には宇文氏、段氏らが慕容氏を討ちます。

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