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傘を失くした

更新日:5月6日


『傘を失くした』_暮四 (2024/07)




20歳 6月

最愛の女を抱いた日の夜、僕は傘を失くしたことに気がついた。そのことは少なからず僕を動揺させた。その夜は酷く雨が降っていて、僕はそれに対処する手立てをひとつも持っていなかったからだ。僕の手もとには何もなかった。タクシーを呼ぶ金も、助けを求めることができるような友人や家族も。そんな僕を置き去りにして、雨は一秒ごとに強さを増しているようにさえ見えた。しばらくは降り止みそうにない。そして僕は何よりも、一刻も早くこの場から離れたかった。

それだから僕は走った。十秒と経たないうちに全身が酷く濡れた。水を吸って重くなった服は僕の身体にぴたりと張り付き、肌の表面からじわじわと熱を奪っていった。そのくせ心臓はバクバクと動いて、身体の芯だけが燃えるように熱かった。十分な酸素を失った喉が締め付けられ、口の中に鉄の味が広がり始めたあたりで、僕は脚の動きを緩めた。もうこんなんじゃ走ったって意味がない。そもそも目的地すらないのだから。僕はゆっくりと身体を前に進めた。全身が重かった。まるで水中にいるかのようだった。光も届かないような、暗い海底。

「夕セキ?」

名前を呼ばれて振り返ると、傘を差した早苗サナエがいた。彼女は反対の手に僕の失くした傘を持っていた。そこで僕はようやく、その傘を彼女の家に置きっぱなしにしていたことに思い至った。

「よかった、もう、私心配したんだよ」

彼女は手に持った傘を開いて、僕に差し出した。僕は、反射的にそれを手で弾いた。その傘は彼女の手を離れ、ふわりと雨の中を舞った。その姿は鈍色の空に紛れて見えなくなった。

僕は彼女に背を向けて走り出した。それは最愛の女を抱いた日の夜だった。

17歳 2月

僕と彼女の出会いに、何か運命的なものがあったわけではなかった。僕らの関係を言い表すならそれは家庭教師とその生徒にすぎない。でもこの出会いは、必然的なものではあったのかもしれない。僕らの父親は職業上の繋がりが強かったから。彼女の父親はこの平泉の街を代表する県議会議員で、僕の父親はこの街ではそこそこ名の知れた旧い地主の家の跡継ぎだった。彼らはともに、千年に亘って平泉に遺り続ける歴史の遺物を大切に保存し続けることをその人生の目的としていた。そしてその目的を果たすために、互いの存在は互いにとって有用だった。地主が遺産保全に多額の援助を出し、県議が遺産の重要性や希少性を世間に訴える。そして彼らは当たり前のように、その役割を彼らの一人息子や一人娘に継がせようとしていた。それだから結局、どんな形であれ僕らは出会っていたのだろう。つまり今のように、地主が息子を地元の国立大に入れるために、その大学に通っている県議の娘を家庭教師としてあてがうことがなかったとしても。そして僕らはどんな形であれ、今のように秘密を隠し持った共犯関係になっていたはずだ。

「例えば私は、古代の宝物を守るシステムについて考えるの」

零レイ花カさんが僕の家庭教師を始めて最初の授業で、彼女が突然言った言葉を、今でも鮮明に覚えている。その日は僕の自室が教室になっていた。この家庭教師の授業は週に一回、僕と彼女のどちらかの家で――それは僕らの父親がどちらの家で会合、、を行うかによって決められる――行われる。

「インディー・ジョーンズに出てくるみたいな罠ってことですか?」

「そう。矢が飛んできたり床が落ちたり、あるいは石像が動き出したりね」

彼女は薄く笑ってそう言った。その笑顔と目が合って、僕は思わず視線を逸らした。至近距離に座る年上の美しい女性に、僕は終始落ち着かなかった。そもそも僕の部屋に女性が入ってくることなんて今までなかったのだ。そんな僕のこともお構いなしに、彼女は言葉を続けた。

「もしも人類が滅んだとして、その宝物とシステムは変わらず遺り続けたとしたら、それはとても悲しいことなんじゃないかと思う」

「それ?」

「システムがずっと、宝を守り続けること。もう宝の価値がわかる人なんていないのに、それでも宝を守り続けるだなんて虚しいよ」

「価値っていうのは、それを観測する人がいないと成り立たないようなものではないんじゃないですか」

「本当に?」

その冷たい声音に、僕は顔を上げた。澄んだ彼女の瞳がじっとこちらを見ていた。僕はまた視線を外したくなったけれど、そうするのは何だかフェアでないような気がした。僕は彼女の目を見つめ返しながら「一般的には」と付け加えた。彼女は猫のように目を細めた。

「一般的にはね。でも私はそうは思わない。そもそも、本当の価値なんて誰がわかるのかな。宝物を守るだけの冷たい人生に値するような価値を、誰が保証してくれるのかな」

彼女はそう言った。そこには少しだけ彼女の感情が透いて見えるようだった。そしてその感情が理解できたのは、僕もまた、同じようなものを持っていたからだった。

「たぶんそういう悩みは、当事者にしかわからないんだと思います。誇り高い仕事だって賞賛する外野もいると思うけど、それは外野だからそう言えるのであって、誇りで人生が満たされないこともあるっていうのは、当事者しか知らないんだと思う」

僕はそう言いながら、クラスメイトのことを思った。学校の先生のことを思った。周囲の大人や、この街に訪れる観光客のことを思った。でも僕は彼らのことを口には出さなかった。隣の部屋には、誇りだけで人生が満たされる二人の男がいたから。

それを聞いて、零花さんは僕の目をじっと見つめた。深海みたいな色をした彼女の瞳に、歪んだ僕の姿が映っていた。彼女に僕の内心をじっくり点検されているような心地がした。

そして彼女はふいに立ち上がった。そして僕に背を向け、窓に向かって歩いた。その日の空は晴れていた。水色の絵の具を薄く広げたような空を背景にして、灰色の山がそびえたっていた。彼女はじっと、その山の頂上を見つめて言った。

「それなら自分で獲得するしかない。なんていうのかな、人生の意味ってものを。黴臭い神殿で宝を守って朽ちるのが嫌なら、自分の脚でそこから脱出するしかないんだと思う。脱出する方法が、必ずあると信じて」

「あるんですかね、そんな方法が」

「私はずっと、それを探している」

彼女は振り返ってこちらを見た。そして僕らはとても長い間見つめあった。それはあるいは錯覚で、もしかしたらほんの数秒だけだったかもしれない。でも僕らはそのとき、ふたりの間に横たわった空白を通して、色々なことを理解しあったのだと思う。そしてどちらからともなく、クスリと笑った。そのとき、僕らには共犯関係が生まれたのだと思う。その言葉が似合わなければ、僕らはそのときに信念を分かち合える仲間になったのだろう。

17歳 4月

平泉はにわか雨が多い。周囲を山に囲まれた内陸の街だから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。しかしその性質は事あるたびに僕を憂鬱にさせた。僕にはなぜか折りたたみ傘を持ち運ぶという習慣が定着せず、そのせいで僕はたびたび雨の中をびしょ濡れになって走るはめになるからだ。完全に自分が悪いということはわかっていながらも、いや、わかっているから、僕はそのとき酷く惨めな気持ちになる。自分以外の、用意周到な人たちは皆傘を差し、安全圏に収まりながら僕を見るのだ。醜くもずぶ濡れになった僕を、哀れみの目で。それはあるいは自意識過剰なのかもしれない。でも、当の僕にはそのようなことは関係がなかった。実際に見られていることと、見られているように思うこととの間には、一体どんな違いがあるというのだろう? とにかく僕は、にわか雨に濡れることが嫌いだった。それはひとえにどうしようもない疎外感と惨めさを覚えるからだ。雨の日にはこの古い遺産の街に黴の匂いが立ちこめるのも、その理由の一列に付け加えてもいいのかもしれない。

「私はかつて、鳥がこの世で最も自由な存在だと信じていた」

零花さんは、まるで歌うような声音でそう言った。僕は手もとのテキストから顔を上げて、彼女の方を見た。彼女は薄曇りのような笑顔でこちらを見つめていた。その背景にある窓の向こうでは、一匹の鳥も停まっていない一本の電線が力なく弛んでいた。僕は少し考えてから、口を開いた。

「I used to believe that birds were the freest beings in the world.」

「正解。でも、今のは問題じゃないの」

彼女はゆっくりと首を回して、その柔らかな髪を掻き上げた。背中にまで伸びる彼女の黒髪は、そのすぐ隣に座っていた僕に香水の香りを届けるのには十分だった。彼女は大人の女性の香りがした。実際に彼女は僕より四歳年上の、紛うことなき大人の女性だった。

「夕くんは、何がいちばん自由な存在だと思う?」

「問題ですか?」

「ううん、雑談」

僕はもう一度手もとに視線を下ろして、少し考えた。彼女はどうやら僕にある種の信頼を寄せているようだった。それは家庭教師先の生徒としてもそうだし、おそらくそれ以上のものとしても。そして僕は当たり前の感情としてそれに応えたかった。だから僕はそれなりにちゃんと悩んで、悩んだなりの答えを口に出した。

「一番はわからないけど、やっぱり少なくとも、人間よりは鳥の方が自由なんだと思います」

「どうしてそう思うの?」

「鳥は生身で空を飛べます。木の高い枝に停まることも、夜の星に近づくこともできます。あるいは、人間が自分の脚で行くよりは簡単に、山を越えられるかもしれない。そのぶん、鳥は自由なんだと思う」

そして鳥は、人間的なしがらみからも自由だ。それは思っただけで口に出さなかった。隣の部屋には僕の父親と彼女の父親がいるし、核心に触れることを言わないのは僕たちが少しずつ築き上げてきた大切なルールでもあった。でも彼女は、僕の言いたいことの全部をきちんと理解したようだった。彼女は概ね満足したような表情で「そうだね」と呟いた。

「きっとそれも事実の一側面を表しているんだと思う。私もかつてはそう思っていた。でも私は、人間が一番自由な存在だと信じている」

「自由意志を持っているから」

「それもある。大事なことだよ。私が思うに、人間の一番自由なところは傘を差せるところなんだ」

隣の部屋から、二人の男の笑い声が聞こえた。また他所の県議の悪口でも言っているんだろう。僕は声のボリュームを抑えながら、「傘?」と訊ねた。彼女はやっぱり小さな声で、「そう、傘」と悪戯っぽく答えた。

「鳥は自由に飛べる。でもそれは晴れの日だけ。雨の日は飛べないんだよ。翼が濡れちゃうからね。それに対して人間は傘を発明して、それを使うことができる。そうすれば雨の日でも安全に移動することができる」

「傘を差していても、濡れることはありますよ」

「うん。だからいつか、もっとちゃんと雨から身を守れる傘が開発されるんじゃないかな。現状を変えることができるのが、人間の持つ自由さの本質なんだと思う」

僕は頷いた。彼女の主張に言い返そうと思えばいくらでも言い返すことができるけれど、そうする必要はない。これは授業の合間に挟まれたただの雑談なのだ。それに、僕らにとっての本当の話は別の水準できちんと動いている。

「人間は雨の日でも、あの山を越えることができますか?」

僕は窓の向こうを見やった。そこには平泉の街を取り囲むような大きく青い山があった。

「うん、きっと。十分な強さの傘と、意志があれば」

「零花さんは?」

「準備してる、ちゃんと」

彼女ははっきりとした口調でそう言った。彼女は、零花さんは、この街から逃げ出す準備を進めていた。

18歳 6月

「じゃあ、今日はこんな感じで終わりにしようか」

零花さんはそう言って数学の参考書を閉じた。その日は彼女の家の客間で授業は行われた。新しい畳の張られた、綺麗な客間。襖を隔てた向かいの部屋では、僕らの父親が飽きもせずいつも通りの会合、、を開いていた。僕は隣から漏れ

出る愉快そうな話し声を冷ややかな気持ちで聞きながら、荷物をかばんの中に入れた。

「そういえばさ、夕くん、今日誕生日だよね」

そんな僕を眺めながら、彼女はそう言った。予想外のその言葉に、僕は「あ、はい」としか返せなかった。彼女はいつもよりは幼い表情で、「おめでとう」と笑った。

「知ってたんですね」

「うん、夕くんの家庭教師やるって決まったとき、君のお父さんに基本的な情報は教えてもらって。私、人の誕生日を覚えるのは結構得意なの」

「僕は零花さんの誕生日を知りませんよ」

「いいよ私のは知らなくて。二十歳を越えると、誕生日を迎えるのは階段を降りていくような気持ちになっちゃうの」

そういうもんですか、と僕は答えて、そういうもんだよ、と彼女は返した。それでも僕は彼女の誕生日が知りたかったけれど、そんな恥ずかしいことが言えるはずもなかった。だから僕はその代わりに襖を見つめた。

「もう何年も、誕生日を祝われたことはありませんでした」

「そうなの?」

「はい」

背後の彼女の顔は見えなかった。見えなくてよかったと思う。そして何よりも、彼女に僕の表情が見られなくてよかったと思う。

「僕は地主の子で、将来の遺産保全を担う跡継ぎなんです。父にとっての僕とはつまりそういったもので、それが全部なんです。母はそうじゃなかったと思うんですけど。もう幼い頃の記憶しかありません」

襖の奥は更に賑やかになっていた。おそらくお酒を飲んでいるんだろう。もちろん、聞き耳を立てなくてもわかるけれど、僕の誕生日について話している様子はない。

遺産を守るのはいい。それが世界的に価値を認められていることもわかっている。僕には理解しがたいけれど、この山に囲まれた小さな街で、遺産を守って生きていくことに人生の意味を見いだすのも父の勝手だ。僕がどうこう言うことじゃない。でも。身近な人の幸せさえ、つまり、幼い頃にはもういなくなってしまった母や、僕の幸せさえ守れずに、一体何を守ろうというのだろう。そこにどんな価値があるというのだろう。僕にはそれがどうしても理解できなかった。

「帰ろうか」

彼女はやさしく言った。「はい」と、僕はただ返事をした。

零花さんはいつも通り僕を玄関まで送ってくれた。そして僕は彼女に一礼して、引き戸を開けた。そこでようやく雨音に気づいた。この街にとってはおなじみの、にわか雨が降っていた。

「夕くん、傘持ってる?」

彼女の問いかけに僕は首を振った。おそらく折りたたみ傘は押し入れの奥底で息を潜めているだろう。

「どうしようね、もう暗いし」

「走って帰ります」

「だめだよ風邪引いちゃう。私の傘貸そっか?」

「でもそうしたら零花さんが一週間傘使えなくなっちゃいますよ」

「じゃあ、夕くんちまで一緒に入っていこうか」

帰りは私一人で傘使えばいいし。彼女はそう軽快な声音で言った。僕は

驚いて彼女の方を向いた。彼女は僕の視線に気づくと、ちょっと照れくさそうに笑った。

「いや、さすがに僕んちまで一往復させるのは申し訳ないです」

「遠慮しないでよ、今日誕生日なんだし」

その言葉に僕は押し黙った。誕生日を祝われたことのない僕は、それに反論する言葉を持っていなかった。

僕らは雨の街を、一つの傘の中で歩いた。彼女の傘は女性用にしてはずいぶんと大きく、しっかりしていた。それでも歩くたびに、僕らの肩はやさしく触れ合った。授業をしているときよりも彼女との距離は近い。香水とシャンプーの甘い香りが絶え間なく僕の鼻腔をくすぐった。雨の日特有の黴の匂いは、今ばかりは感じなかった。

「こうやってふたりきりになるのは初めてだね」

彼女はそう言った。並んで歩くと彼女は意外と小柄で、その表情はよく見えない。

「いつもは近くに父親たちがいますからね」

「じゃあ心置きなく話せるね」

彼女はしかし、そう言ったきり黙ってしまった。心置きなく話せる。それは、普段暗号めいた比喩で話している彼女の計画についてだろう。この街から逃げ出す計画。彼女の父親から離れるための計画。僕はただ彼女の言葉の続きを待った。僕らの間には、雨が地面を打つ音と、傘に跳ね返る音と、わずかな衣擦れの音だけが鳴っていた。

「私、東京の会社に就職するの」

僕の家の前にある曲がり角で、彼女はそう言った。僕らは電柱の陰で立ち止まった。そこはうまいこと死角になっていた。

「この前、卒論の資料調査って嘘ついて、東京行って。そこで最終面接受けてきた。昨日内定のメールが来てて。だからもうお父さんの事務所には就職しない。この街も捨てる。東京行ったらもう実家には帰らないし、連絡も取らない」

彼女はそう言い切った。ああ、そうか。彼女はやりきったんだ。彼女の父親にばれないように就活をして、最終面接までこぎつけて。周到な準備をして、内定を手に入れた。この街以外でも、あの山の向こうでも、生きていけるつて、、を手に入れたのだ。たぶん雲隠れの仕方も考えているんだろう。誰にも感づかれずにこの街を去る方法を、彼女はきっと考えている。

「おめでとう、ございます」

口から言葉が漏れた。これはすばらしいことなんだろうと思う。何年もかけた計画が実を結んだのだから。これで彼女は解放される。僕だけが、この街に残る。僕はまた、この街に沈殿する閉塞感とか孤独感とか、親の欺瞞だとか黴の匂いだとかに囲まれながら、過去の遺物に縛られて生きていく。共犯者を失った僕は、無辜なシステムとして生涯を終える。

「おめでとう、ございます、ほんとうに」

自分の声が震えているのに気がついた。彼女は僕を見上げた。僕はそれが嫌だった。そうするのはフェアではないと思っていた。でも、喉の震えと涙を抑えることができなかった。僕は乱暴に涙を拭った。視界がぼやけて暗くなった。

すると、頬に温かな感触が伝わった。驚いて顔を上げると、彼女が僕の頬に手を添えていることに気がついた。彼女の指はやさしく僕の肌を撫で、涙の跡をなぞった。僕は、僕を見つめる彼女の穏やかな瞳から目が離せなかった。そのやわらかな吸引力に惹かれるように、僕の顔は彼女に近づいた。花の匂いがした。僕らは、唇を触れ合わせた。

「大丈夫、私たちは同じ傘の中にいるから」

雨はまだ止まなかった。

18歳 9月

解夏の夕暮れは晴れていた。夏の茹だるような暑さも八月と共に通り過ぎて、街を歩く僕らの間には時折涼しい風が流れた。隣を歩く彼女は、涼しげな白いノースリーブワンピースを着ていた。

「夕くん、だいぶ勉強できるようになってきたね」

「数学はダメダメですけど」

「国語と英語はできてるんだから、そこを見ないと。夏休みに猛特訓した甲斐があったよ」

「零花さんのおかげです」

「どういたしまして」

あの雨の日、僕の十八歳の誕生日以降も、僕らの関係は、ひとつを除いてほとんど何も変わらなかった。少なくとも、僕にとっては変わらないように見えた。週に一回、親たちの会合にあわせて、どちらかの家で彼女に勉強を教わる。その形自体は何も変わらない。「私たちは同じ傘の中にいる」、その彼女の言葉の意味は、ずっと明かされていなかった。

彼女と話しながら歩いていると、いつのまにか僕の家の手前にある曲がり角に着いていた。そう、唯一変わったこととしては、授業が終わった後に互いの家まで相手を送る習慣がついたことだった。今日は彼女の家で授業があったため、彼女

が僕を家の前まで送ってくれた。そして僕らはいつも電柱の陰で立ち止まる。横並

びだった二人が、正面に向かい合う。僕らはどちらからともなく顔を近づけて、キスをした。それは唇がやさしく触れ合う程度の、ささやかなものだった。僕らは互いを見送って、別れ際に数秒間のキスをする。それが新たな習慣になっていた。彼女のあの言葉と同様に、この行為の意味も、僕にはまだわからない。

この街に台風が近づいてきたのは、その

次の週だった。直撃はしない予報だったし、風はそれほど酷くなかったけれど、そこ

そこしっかりした雨が降った。僕らはそんな空模様を僕の部屋の窓から眺めながら、英語の参考書をみっちり二時間半かけて進めた。

「なんか最近は英語をやることが多いですね」

僕は参考書を本棚に戻しながら言った。授業の進め方は完全に彼女に任している。今までは英国数を満遍なく進めていたけれど、夏あたりから英国

の占める範囲が大きくなっていた。

「そうだね、まあ」

彼女はそう濁しながら立ち上がった。そしてかばんを肩にかけながら、僕の方を振り返り見た。

「今日雨だし、私の家まで送ってもらわなくていいから、手前の電柱のところまでは来てくれない?」

彼女はそう言った。その声音は、いつもより少しだけ緊張を含んでいるように聞こえた。

そして僕らはいつも通り電柱の陰で、一つの傘に入りながらキスをした。そして二つの唇が離れた後も、彼女は僕の目をじっと見つめて離さなかった。

「夕くんってさ、どの大学に行きたいかはこだわりないんだよね」

彼女の突然の問いかけに、僕はとりあえず頷いた。僕には、大学でやりたい勉強も特になかった。それだから今、父親が勧める地元の国立大をさしあたり目指している。

「最近、国語と英語ばかりやるようになったのはなんでだと思う?」

「長所を伸ばす、的なやつですか?」

「ちがうよ」

彼女はそう言いながら背伸びをして、僕の耳もとに顔を近づけた。彼女の温かな吐息が顔にかかって、思わずどきりとする。

「ねえ、夕くんも東京にくる?」

彼女はささやくようにそう呟いた。僕はその言葉の内容をうまく飲み込めなかった。

「来年の一月に仙台で模試があるでしょ? それを使えば、私がやったのと同じようなことができると思う。君のお父さんにはうまいこと言ってあげるから、その日に東京の私大の入試受けてきなよ。仙台にも会場があるらしいから。それで合格して、一緒に東京に行こう。この街から一緒に逃げよう」

「でも、僕、東京に身寄りなんてないですよ」

「いいよ、私のアパートに住まわせてあげる。だから学費のぶんだけバイトで頑張って稼いで。入学金は、まぁ、ちょっとならサポートできると思う。あぁあと、お年玉を貯めた貯金があるって前に言ってたよね」

彼女の提案は、酷く魅力的だった。自分の計画を成功させた彼女の計画なら、信頼できるとも思った。このまま彼女に頷けば、この街の鎖から解き放たれることもできるかもしれない。でも。

「どうして」

「ん?」

「どうして、僕のためにそんなにしてくれるんですか」

僕の疑問に彼女は少し笑って、そし

て再び顔を近づけた。唇を擦り合わせて数秒、彼女は顔を離して僕の目を見つめた。

「私たちは同じ傘の中にいるからだよ」

彼女は確信めいた声音で言った。

「私たちの頭上には確かな傘があるんだよ。あとは君の確かな意志だけ」

意志。いし。その言葉がとても印象的に響いた。呼吸が浅くなって、胸のあたりが締められたように痛んだ。少し顔を上げると、雨でぼやけ た視界の先に色づき始めた山が見えた。僕は木陰で雨宿りする鳥のことを思った。

18歳 4月

大学の入学式を終えた脚で、僕はそのままバイト先へと向かった。駅前にあるコーヒーチェーン。そのチェーン自体は全国区の有名店だけれど、僕がバイトしている店舗は狭いテナントで無理矢理出店したようなところだから、客入りもそれほど多くないしやることもさして大変じゃない。僕が住んでいる場所から近いのと、時給がそれなりにいいことが決め手だった。

「夕くん、今日もよろしくね」

キッチンに入ると、フロアから声をかけられた。その声の主は、同時期にバイトとして入ってきた早苗さんだった。僕は軽く礼をした。僕と同い年らしい彼女は、十八歳らしい溌剌な笑顔を作っていた。

電車の本数も少なくなり、駅前を歩く人の姿も閑散としてきたところで、今日のシフトが終わった。結局最後までシフトが同じだった早苗さんに挨拶をして帰路につく。暗い夜道を足早に抜けて、僕は玄関のドアを開けた。すると彼女が、零花さんがちょうどシャワーを浴びてきたところだった。

「おかえり」

「ただいま」

彼女はシンプルなパジャマを着て、髪にタオルをあてがっていた。彼女の黒髪は、濡れることで現実離れした艶を纏っている。火照って上気した彼女の頬には軽く紅が差して、彼女の顔つきをより健康的に、そして魅力的に見せていた。

「今日も遅かったね、おつかれ」

彼女は邪気のない笑顔でそう言った。僕はリビングに座り込んで、彼女の顔を仰ぎ見た。

「零花さんも、お仕事お疲れ様です」

「まぁ、まだ新人がやることなんて限られてるけどね。でもやっぱ、東京の通勤ラッシュは大変だよ」

「そればっかりは、地元の方がよかったかもしれないですね」

「それだけだけどね」

僕は立ち上がって伸びをした。明日も大学とバイトがあるし、早く寝る準備をしないといけない。

「もうすぐシャワー浴びる?」

「はい、零花さんは寝ますか?」

「そうだね」

僕らはシャワー室の前で向かい合った。そして自然な動作で、唇を重ねた。シャワー上がりの彼女の唇は、いつもより温度が高かった。シャンプーの甘い香りが濃く香る。僕の腕は自然と彼女の腰に伸びていった。

僕の腕が彼女の身体を抱く寸前、彼女は唇を離した。そして僕の腕を掴み、やさしく握ったあと、僕の方へと押し返した。行き場をなくした僕の腕は力なく垂れ下がった。

「おやすみ」

そう言って彼女は寝室へと行ってしまった。僕はその背中をただ見送った。そして服を脱ぎ、シャワー室へと入る。シャンプーやリンスの香りに混ざって、あの懐かしい黴の匂いを感じたような気がした。

19歳 7月

「夕さ、期末テストいけそう?」

「まあ単位は取れるんじゃないかな。早苗は?」

「私はもう専門科目とか結構あってさ。結構厳しいかも」

「早苗の学部は結構忙しそうだね」

コーヒーチェーンのバイトにももう随分と慣れた。シフトがしょっちゅう被る早苗とも親しくなり、バイト終わりにはこうやって、まかないでもらったテイクアウトのコーヒーを片手に駅前のベンチで駄弁ることが習慣となっていた。厳しい門限があった実家暮らしの頃からは考えられなかった生活だ。当時は絶対的なものだと思っていた実家の鎖も、こうやって離れてしまえばたいしたことはなかったんだなと思わされる。

「あ、やばい、もう十一時になっちゃう。そろそろ帰ろっか」

早苗がスマホの画面を見て、ぱっと立ち上がる。その勢いそのままに、彼女は駅の反対側へと駆けていった。半身をひねってこちらに手を振りながら。僕もひらひらと手を振りかえして、彼女の背中が見えなくなったあたりで僕も帰路についた。騒がしい早苗と別れると途端に、夜の街は静かで暗い場所になった。するとさっきまで忘れていたことが、忘れられていたことが、急速に脳内を支配した。僕は零花さんのことを考えていた。今日は、僕より先に帰っているだろうか。僕より先に、帰っていてくれるだろうか。

アパートのドアにカギを差し入れ、回した。そこには確かな感触があった。ドアは閉まっていたのだ。ということは、まだ彼女は帰ってきていない。重たいドアを開ける。藍色に似た暗闇が部屋全体を覆っていた。そして足を一歩踏み入れると、あの黴の匂いが鼻についた。どうしてこの部屋はこんなに黴臭いのだろう。この部屋は物が少ない上に、きちんと整頓もしてあるのに。水回りの掃除もこまめにしているはずだ。それなのに、まるで死臭みたいな黴臭さがこの部屋を薄く充満していた。僕は換気扇を回して、シャワーを浴びた。

結局、彼女が帰ってきたのは僕がシャワーを浴び終えた後だった。十一時五十分。彼女の髪型やメイクは少し崩れていた。ここ数日ずっとだった。最近色々忙しいと、彼女は言っている。

「僕、もう寝ますよ」

僕がそう声をかけると、彼女はいつもと同じように、一年前と同じように、自然な様子で僕のもとへと近寄った。外見上は何も変わらないはずなのに、彼女の内心が、僕には少しずつわからなくなっていた。僕らの唇が触れた。直感でわかる。彼女は今日、男と寝てきたことを。それも、前までのとは違う男と。

僕らは唇を離した。彼女はもう、僕と目を合わせてくれなくなった。

「僕じゃダメなんですか」

僕はふいに彼女にもたれかかって、そう呟いた。彼女の首元に香る女の匂いが、今になってはどうしようもなく苛立たしかった。

「どういうこと?」

「わかるでしょ、とぼけないでよ」

「私は君のことを大切に思ってるよ」

「それならどうしてキスするんですか」

彼女は何も返さなかった。僕の背中に腕を回すこともなく、ただ、真っ直ぐ

に突っ立っていた。僕は、数秒経ってから彼女から身体を離した。彼女が今何を考えているのか、僕にはわからなかった。ただ、彼女は、いつかに、何かしらの理由で、何か別のものへと変わってしまったということだけが、僕には理解された。

19歳 11月

それからしばらくの間、僕の生活は、そして僕と彼女の生活は、凪いだ停滞が続いた。四月の頃は新鮮に感じていた東京での大学生活もバイトも、半年も過ぎれば完全に慣れてしまった。その生活にはもはや、閉鎖的なあの街での生活との積極的な違いを見いだせなくなっていた。そして零花さんもやはり、週のほとんどを男と寝て過ごした。それでも必ず日付が変わるまでに帰ってきて、僕とささやかなキスをした。そして今までと同じように、僕が彼女と寝ることは決して許されなかった。

その日は、零花さんがいつも通り仕事に行き、僕は全休で大学に行かなかった日だった。ただその日は昼からバイトが入っていた。僕がいつも通りアパートのエントランスから出ると、それに面した道の反対側に一人の男が立っていることに気がついた。彼は僕の姿を認めると大股で歩いてきた。彼は金色に染めた髪をしっかり固め、黒を基調とした服装と派手なアクセサリーで身を包んでいた。彼は険しい表情を意図して作っているようだったけれど、目つきだけがやけに繊細な印象だった。それだから彼の全体の見た目としては、とても傷つきやすそうに見えた。

「お前、零花のとこの奴だろ」

彼は威圧的にそう言った。近くで並ぶと、彼の身体はやけに大きいように感じられた。

「あなた誰ですか」

「いやこっちが訊いてんだけど」

「あぁ、零花さんの男、の、一人、、か」

「お前もだろ」

彼はあからさまに溜息を吐いた。そして一歩、僕に詰め寄る。僕はアパートの壁に背中を預ける形になった。

「なぁ、もう零花に関わるな」

彼はそう言った。思わず乾いた笑いが出た。

「あなたは零花さんの何なんです?」

「男の一人だよ。お前が言ったんだろ」

「男の一人が別の一人に、もう関わるなって? 独占欲の発露ですか?」

「違う、わかるだろ。お前が零花を縛り付けてるんだよ」

もう一度、鼻から笑いが零れた。でもそれは、さっきのものとは違う意味の笑いだった。その証拠として、僕はうまく笑みを保っていられなかった。

「縛り付けてる?」

「お前みたいなガキのお守りしないといけないから、零花はどこにもいけないんだよ。毎晩毎晩律儀にお前のもとに戻ってこないといけない。それに」

「それに?」

僕がそう訊ね返しても、彼は何も言わなかった。彼は何か逡巡しているよう

に見えた。僕は、強がりの意趣返しのつもりで溜息を吐いた。

「何が言いたいのか知らないけど、それは全部零花さんの意志でしょ。それなら僕に詰め寄って何の意味があるんだよ。零花さんの気持ちがほしいのなら、あなたがあなたの力で彼女を振り向かせればいい」

その言葉はとても空虚な響きをもって僕自身に聞こえた。もう作り笑いもできなかった。ふと彼の顔を見上げると、彼は怪訝そうに僕の目を見ていた。そしてその表情はたちまち、激しい怒りを帯びたそれへと変わっていった。

「お前、本当に知らないのか」

「は、なにを――」

それ以上言葉が継げなかった。左頬に激痛が走った。途端に低くなった視界に、ようやく僕は殴られたことに気がついた。口の中に鉄の味がした。彼の方を見上げると、彼がその素朴な目元を酷く歪ませているのが見えた。彼の方が今にも泣いてしまいそうだった。

「今すぐ零花から離れろよ」

彼はそう言い残して言ってしまった。僕はしばらく呆然としていた。後頭部にどろりとした感触を覚えて、僕はようやくぶつけた頭が出血していることに思い至った。

簡単な応急処置だけして、僕はバイト先に向かった。なんやかんやでもう二時間近くも遅刻してしまった。僕のぼろぼろの姿を見ると、他のアルバイトや社員さんは酷く驚いていた。特に早苗の動揺っぷりは顕著だった。最後にはもうどちらが怪我人かわからなくなるほどだった。二人とも仕事ができるはずもないので、臨時で休みをもらった。

駅前のいつものベンチで、僕らは並んで座った。そして早苗に訊かれるまま、今日起こったこと、これまでに起こったこと、僕が東京に来るまでに経験したことを、洗いざらい話した。彼女はときどき過剰なリアクションを示しながらも、すべて親身になって聞いてくれた。

「夕、しばらくそのアパートに戻るのやめたら?」

彼女はそう言って、僕の頭に巻かれた包帯に手をやった。僕は少し恥ずかしくなってその手を払った。

「僕にはあそこしか住む場所がない」

「私の家来ればいいじゃん。駅近いよ」

彼女は当たり前のように言った。僕は驚いて彼女を見た。

「いいの?」

「そうして。このままアパートに帰す方がやだ。またその人みたいに夕のこと逆恨みしてる人いるかもしれないじゃん」

僕は俯いた。なかなか頷かない僕を見て、彼女は僕の手を取った。さすがにそれを振り払うことはできなかった。

「私さ、実は夕のこと尊敬してたんだよね。学費自分で払ってるって聞いてさ。私は今まで甘やかされっぱなしだったから。親にもバイトなんかしなくていいって言われてたんだけど、私は少しでも自立したかった。だからさ、なんていうのかな、私も頼りにされたいんだよ。うん、これは私のわがまま。夕が負い目とか感じる必要はないよ」

彼女は僕の顔を覗き込んで、そう言った。

「それとも、その零花さんっていうひとのところに戻りたいの?」

早苗の部屋は、僕らの、いや、零花さんの部屋とは全く趣が違っていた。必要最低限のものしかない零花さんの部屋とは対称的に、早苗の部屋はパステルカラーのクッションやインテリア雑貨などがかわいらしく並んでいた。そして何よりも、早苗の部屋には黴の匂いがしなかった。そのことは、僕の心を酷く落ち着かせた。

それから僕は、基本的に早苗の部屋で寝食の時間を過ごすことになった。零花さんがいないだろう平日の昼間を狙い、周囲に十分気を配りながら、僕の荷物をちょっとずつ回収した。服や本、勉強用具、日用品など。僕は結局、零花さんと鉢合わせることは一度もなかった。ただ部屋に残った零花さんの香りや黴の匂いだけが、僕の心を無性にざわつかせた。

20歳 6月

そんな風に毎日早苗と寝食を過ごし、零花さんとは顔を合わせない生活が半年続いた。最終的にはほとんど早苗の部屋で生活が完結するようになっていたから、数週間も零花さんの部屋には戻らないこともざらだった。そうすることで、僕は自分を何か薄暗いものから遠ざけようとしていた。

そして六月、僕は数週間ぶりに零花さんの部屋へと戻ってきた。来たる夏に向けて、夏用の服をいくつか回収したかったのだ。そしてその日は僕の誕生日だった。二十歳の、節目となる誕生日。僕はその日を、零花さんとではなく、早苗と過ごそうとしていた。

いつも通り合鍵で部屋のカギを開け、零花さんの部屋の中に入った。この部屋は、いつ来てもほとんど代わり映えしなかった。まるでプレハブ小屋みたいに、ずっと腰を据えて住むことを想定していないようだった。僕はクローゼットを開けて、僕の服をいくつか回収した。そう、クローゼットの中でさえ、僕がいたころとほとんど変わっていなかった。僕の服のためのスペースはきちんと確保されていた。僕は、毎朝このクローゼットを開ける零花さんのことを思った。

予定通り夏服を回収して、居間でそれらをかばんに詰めていると、居間の真ん中に鎮座するローテーブルにいくつかの郵便物が置かれていることに気がついた。そういえば僕は、大学に登録した住所がこの零花さんの部屋のものになっていることを思い出した。それなら大学からの郵便も何か届いているかもしれない。僕はその郵便物の束を取った。そしてその中に、一枚の手紙が入っていることに気がついた。

十一時を少し過ぎた頃、彼女が帰ってきた。彼女はあの頃と同じようにカジュアルスーツに身を包みながら、少し乱れた髪とメイクで部屋へと入ってきた。そして電気をつけようとしたときに、僕の存在に気づいたようだった。僕は黴臭いこの藍色の部屋で、彼女が帰ってくるのをじっと待っていた。

「夕くん」

彼女はそう言って、僕の前で立て膝になった。彼女の声を聞いたのも半年ぶりだった。僕はどうしようもなく泣きそうになった。僕は俯きながら手に握った手紙を睨んだ。

「今日の昼、机のうえにこの手紙があるのを見つけました。送り主は僕の父の名前になっています」

彼女は何も言わなかった。僕は、それがただ悔しかった。

「僕の最近の様子はどうだとか、勉強は順調そうか、だとか書いてありました。どういうことですか」

どうして、零花さんと父が手紙で繋がっているんだ。どうして、父は僕の近況を知りたがっているんだ。そもそもどうして、父は僕と零花さんが東京にいることを知っているんだ。わからないことだらけだった。僕は彼女に、色んなことをきちんと説明してほしかった。

すると、左肩に重さを感じた。遅れて甘い香りを感じる。彼女が、僕にもたれかかっていた。彼女はそのまま僕の背中に両腕を回した。

「ねえ、私としたい?」

彼女は消え入りそうな声でそう言った。僕は、頷いた。

ベッドに横たわった彼女に、僕は覆い被さった。そしてその白い首筋に口づけをしながら、彼女のシャツのボタンをひとつずつ外した。

「ごめんね、私ずっと君のお父さんと手紙のやりとりしてたの」

彼女の小さな鎖骨が露わになった。そこにはわずかに汗が滲んでいた。

「いつからですか」

「ずっと。君が大学に入ったときから」

ボタンを全部外し終えると、はだけたシャツの隙間から彼女の肌着が覗いた。そのままそれも捲し上げた。彼女の乳房を守る淡い色のブラジャーが見えた。

「どうして」

「そういう風に交渉したから」

交渉。僕は頭の中で反復した。そして彼女の乳房にやさしく口づけをした。

「ねえ、わかるでしょう? あの地域を担う跡継ぎが急に二人ともいなくなることを、彼らが許容できるはずないでしょう? 一緒にいなくなったら、私たちの繋がりが疑われてしまうことは当然でしょう?」

彼女のタイトスカートも脱がした。彼女のほっそりとした腰はやわらかく湾曲した輪郭を描いていた。

「大人達が、ただの子供のかくれんぼを見逃すはずがないでしょう」

僕は動けなかった。どうすればいいのかわからなかった。そんな僕を見て、彼女は僕の首に両腕を回した。僕は彼女に抱き寄せられた。

「だから私は交渉したの。私たち二人が逃げ切ることはたぶんできないから、せめて一人だけでも逃げ切れるように」

彼女は僕の手を引いて、ブラホックを外すように誘導した。僕は少しだけ手こずった後、それをどうにか外した。

「私は君のお父さんにお願いしたの。私が監督しますから、どうか大学四年間だけは、彼を自由に過ごさせてあげてください。大学を卒業したら、私が連れ戻しますからって」

ブラを取り除くと、彼女の控えめな乳房が見えた。窓から零れた青い街明かりがそのきめ細やかな肌を照らしていた。それは息を呑むほど美しかった。

「最悪君を連れもどせなくても、私は確実に平泉へと戻ってくる。そう約束した。だから彼らにとって、二人とも失うという最悪のケースは回避できたわけ

だ。そこに、君の自由の余地が生まれた」

僕は、やっぱり彼女の手に促されて、彼女のショーツに手をかけた。そして、ゆっくりとそれを下ろした。彼女は腰を浮かしてそれを受け入れた。

「君は私から離れることができれば、私から逃れることができれば、本当

に自由になれる。君を逃がしたのは私の責任になるからね。ねえ、だから君は、このまま私のもとからいなくなってくれればよかった」

僕はベッドに膝立ちになって、彼女の裸を見下ろした。一糸まとわぬその姿は、どうしようもなく美しかった。彼女のその姿はぜんぶ幻のようで、触れれば砂のように崩れて消えてしまいそうだった。

「なんでだよ」

声が震えた。なんで、この人はそうなんだ。

「一人なら、逃げ切れたんだろ。それなら貴女は一人で逃げればよかったんだ。僕を東京に呼ばなければよかったのに。どうして自分を犠牲にしたんだ」

そう言って僕が俯いていると、彼女は片手を僕の方に伸ばした。そして彼女はあのときのように、二年前のように、僕の頬に触れた。

「私があの街を抜け出そうと思ったのも、ちょうど十八歳のときだった。あのとき泣いていた君を見捨てていたら、私は大切なものをなくしていたように思う」

なんだよ、それ。ふざけるなよ。僕はずっと、何も知らないままだった。ずっと、子供のままだった。僕は意地を張りたかった。僕は何かを変えたかった。

「今から逃げましょう、二人で。二人なら逃げられないなんて誰が決めたんだよ。今からこのアパートも捨てて、どこか遠くに行きましょう」

「だめだよ。もう私の情報はぜんぶ親たちに渡しているんだから。追跡なんて簡単にできる。私が君と一緒にいる限り、君は本当に自由にはなれない」

そう言って彼女は僕を抱き寄せた。僕の身体は彼女の身体のうえにぴったり重なった。彼女の心音と僕の心音が同期して、二人の身体の境界が溶け合っていくようだった。僕は僕自身のそれを、彼女の中へと差し入れた。僕のそれはゆっくりと彼女に侵入し、そして止まった。僕は彼女の最奥まで来てしまった。それが、最後だった。僕は、もうこれ以上彼女の中へと入り込むことができなくなってしまった。僕と彼女の間には、皮膚と粘膜によって、絶対的な隔絶が生まれてしまった。

「それにね、私考え直したの。自分にとっては価値のないものでも、誰かにとって価値のあるものを守っていくのは、あるいはとても素敵なことなんじゃないかって」

僕はもう、彼女の言葉を肯定することも否定することもできなくなってしまった。僕らはどうしようもなく隔絶した、男と女だった。

最愛の女を抱いた日の夜、僕は傘を失くしたことに気がついた。そのことは少なからず僕を動揺させた。その夜は酷く雨が降っていて、僕はそれに対処する手立てをひとつも持っていなかったからだ。僕の手もとには何もなかった。タクシーを呼ぶ金も、助けを求めることができるような友人や家族も。そんな僕を置き去りにして、雨は一秒ごとに強さを増しているようにさえ見えた。しばらくは降り止みそうにない。そして僕は何よりも、一刻も早くこの場から離れたかった。

それだから僕は走った。十秒と経たないうちに全身が酷く濡れた。水を吸って重くなった服は僕の身体にぴたりと張り付き、肌の表面からじわじわと熱を奪っていった。そのくせ心臓はバクバクと動いて、身体の芯だけが燃えるように熱かった。十分な酸素を失った喉が締め付けられ、口の中に鉄の味が広がり始めたあたりで、僕は脚の動きを緩めた。もうこんなんじゃ走ったって意味がない。そもそも目的地すらないのだから。僕はゆっくりと身体を前に進めた。全身が重かった。まるで水中にいるかのようだった。光も届かないような、暗い海底。

「夕?」

名前を呼ばれて振り返ると、傘を差した早苗がいた。彼女は反対の手に僕の失くした傘を持っていた。そこで僕はようやく、その傘を彼女の家に置きっぱなしにしていたことに思い至った。

「よかった、もう、私心配したんだよ」

彼女は手に持った傘を開いて、僕に差し出した。僕は、反射的にそれを手で弾いた。その傘は彼女の手を離れ、ふわりと雨の中を舞った。その姿は鈍色の空に紛れて見えなくなった。

僕は彼女に背を向けて走り出した。それは最愛の女を抱いた日の夜だった。

僕は一晩中、雨の中を走り回った。走り疲れて、目についた公園のベンチに座った。そうしてそのまま、夜が明けるのを待った。だんだん太陽が昇ってきて、水色の光が街を照らし始めた。僕は少しだけ顔を上げた。公園の端に、雨に打たれて風にとばされ、ひしゃげてしまった一本の傘が見えた。僕はそれに見覚えがあった。それは、昨晩早苗が差し出した僕自身の傘だった。結局僕は、一晩かけて街をぐるりと一周しただけだったのだ。僕は、生まれた街を捨て、愛した女を捨てても、どこにも行くことができなかったのだ。

その傘を視界の隅に捉えながら俯いていると、ふと、ベンチの前に誰かが立っている気配がした。僕は顔をあげた。傘を差した早苗がそこに立っていた。彼女はやっぱり溌剌な笑顔で、僕を見下ろしていた。

「いつか帰ってくるかもと思って私の家で待ってたけど、やっぱり心配になって探しに来ちゃった」

彼女はそう言って、自分が差している傘を僕の方へと傾けた。僕は思わず身を捩ってそれを避けた。彼女は怪訝そうに僕を見た。

「どうしたの」

「僕が君の傘を受け入れてしまったら、僕は何か大事なものを失ってしまうような気がする」

「君が濡れて風邪を引いちゃうことよりも、大事なことってある?」

そして彼女は半ば無理矢理、自分の傘に僕を入れた。僕は彼女の瞳を見つめた。彼女のその言葉は、僕の心の底にあった澱みのようなものをゆっくりと解きほぐしていくように感じられた。

「大丈夫、一人でできるから」

僕は立ち上がって、公園の端へと歩いた。そして僕のひしゃげた傘を拾い上げ、それを頭上に掲げた。さっきまで僕の全身を打っていた雨は、傘のビニールによって僕に触れる前に弾かれた。その感触が持ち手にも伝わってきた。傘っていうのはこんなに重いものなのかと、僕はそのときはじめて気がついた。


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