三崎理乃の青春日記
- meishomitei
- 4月15日
- 読了時間: 32分
更新日:5月6日
『三崎理乃の青春日記』_佐渡いとら (2024/09)
じりりりりり、と鳴り響く目覚ましの音で、三崎理乃は目を覚ました。
いつもと変わらない朝。
理乃は眠たそうに目を擦る。生地のなめらかそうな黒色のパジャマはところどころはだけていて、いつもは自慢の長い髪も今ばかりはボサボサだ。
「あれ……?」
ふと理乃は違和感を覚えた。
部屋の様子に変なところはない。理乃が今いるベッドと、少し大きめのクローゼット。乱雑に物の置かれた勉強机に、パパにねだって買ってもらったリュウグウノツカイのぬいぐるみ。高校の制服は壁に掛けられてある。二階の窓からは裏手の公園のブランコが見える。
理乃は自分の体を見下ろす。手をグーパーさせてみて、乱れた服を軽く直して、それからペタリと胸に手を当てる。いつも通りだ。うん、何も変わっていない。
変な夢でも見たのだろうか、と理乃は疑問に思いながらも、布団からごそごそと這い出て、立ち上がった。
理乃は一階のリビングで朝食をとって、寝ぐせまみれの髪を整えてから、自分の部屋に戻った。鼻歌まじりにパジャマを脱ぎ捨てて、壁に掛けてある制服に腕を通す。最近聞いてるアイドルグループの曲。ところどころ思いっきり音を外しているが、本人はそんなこと気にも留めない。
着替え終わると、クローゼットを開いて、扉の内側についた鏡に自身を映す。今は夏服で、理乃は半袖のシャツを着ている。その袖からすらりと伸びた二の腕は白く、クラスでも一番なんじゃないかと自負している。
そろそろ夏服から冬服へ移行する時期だった。冬服のブレザーも可愛いっちゃ可愛いけど、夏服ほどの破壊力はない。これで胸がもう少しでかければ。こう、制服のボタンが外れてしまうくらいの、ってそれはやりすぎだけど。
試しに第三ボタンまで外して、少し前かがみになりながら腕を寄せてみる。
……う
ーん、思っていた以上に色気がない。
谷間どころか、盆地にすら見えない。
むきになって、ぐい
っと脇に力を込める。皮膚を寄せるようにしながら、肘と肘がくっつくんじゃないかってぐらい近づけると、うっすらと数センチほどの線ができた。
その状態で、腰をくねくねと動かしてみたり、唇に指をあててみたりする。
…………。
なにこれ。
恥ずかしくなって、理乃はベッドにダイブして足をばたばたさせた。
「んんんんん~~~っ」
ばふっと布団から顔を起こす。
こんなことしてる時間はないのだ。
理乃は飛び跳ねるように起き上がって、制服のボタンを上までとめて、スクールバッグを手に持って、部屋の扉をバンと開いた。
ガタゴトガタと階段を駆け下りる音。
「行ってきます!」
元気よく挨拶して、理乃は家から出ていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃の通う高校は街はずれの小高い丘の上にあって、最寄り駅までは理乃の家から電車で五駅ほどである。通学時間は四十分ほど。電車の中は涼しくて快適なのだが、駅から高校までが上り坂で、夏の暑い時期だとそれだけで汗だくになってしまう。
高校は、二棟の校舎が平行に並んでいて、そのうちの南側、グラウンドに面したほうが本校舎だ。その二階の左から三番目、西階段を上ってすぐのところに、理乃のクラスがある。
時刻は十二時を回った頃。四時間目の授業は古典だった。理乃は廊下側の前から二番目の席に座って、教科書とノートを開いている。授業の内容は源氏物語だった。その一番初めの、桐壺のところ。
理乃は壁に半分もたれかかるようにしながら、教壇に立つ先生の方を向いていた。さらさらの黒い髪が、机と壁でできた角に散らばっている。理乃は、頬杖をつくような恰好で、さりげなく口元を隠す。
源氏物語って結構どぎつい内容だったような。
さっきからその事ばかり頭に浮かんでいた。
先生は真面目そうな面持ちで、いかにも堅物といった雰囲気で、まるで由緒正しき聖典でも語るかのように源氏物語の解説をしている。まさかちゃんと読んだことないわけではあるまいに。
それとも、思春期特有の過剰反応なのだろうか。
理乃は一時期、古典文学読んでたらカッコいいと思っていたことがあり、その時に漫画版の源氏物語を読んだことがあった。が、今理乃が覚えていることといえば、光源氏が色んな女といちゃいちゃしてたことぐらいで、大昔のハーレム本だという印象しか残っていなかった。
「三崎さん」
そんなことを考えていると、先生に名前を呼ばれた。
「は、はい」
上擦った声で返事をする。それからキョロキョロと周りの様子を窺う。
「え、えーっと」
「二段落目のあたまからです」
先生が抑揚のない声で言った。
「あ、はい」
理乃は立ち上がり、言われたところの文を音読してから、現代語に訳す。なんとなく内容は覚えていたし、古文は不得意ではなかったから、特に詰まることはなかった。
言い終えて、席に座りなおす。
と、そこで変な感覚に襲われた。
誰かに見られている、気がする。
いや、そりゃあ自分が当てられたところなのだから、視線が集まるのは普通なのだけど、もっとこう、ねっとりしてる、というか。じろじろと舐めるように見られている、感じがする。
横を向くようにして、教室全体を見渡す。だけどクラスの生徒はみんな黒板の方を向いていて、理乃に目を向けている者はいない。
じゃあ後ろか? と振り返る。後ろの席に座っているのは、紀野
星也という男の子だった。普段は真面目で大人しく、友達と話すよりも本、それも小難しい心理学の本を読んでいる変な奴なのだが、理乃に対してだけはやたら積極的に話しかけてくるのだった。理乃は、ひそかに彼が自分のことを好きなんじゃないかと思っている。
が、彼もやっぱり先生の方を向いていた。理乃が振り返るのに気づいて視線を逸らした、とかってわけでは、ないだろう。
と、じろじろ見すぎたせいか、紀野が理乃の方に目を向ける。
目が合う。
理乃は慌てて前を向いた。
わざとじゃないから、と心の中で言い訳をして、両手で顔を覆う。ふるふると首を振ると、髪の毛がシャツの上を左右に揺れた。耳まで赤くなっている。
これじゃあまるで、理乃が紀野に気があるみたいじゃないか。
気があるのは彼の方なのに。って、直接聞いたわけじゃないけど。
背中越しに生温い視線を感じる。が、もう一度振り返るわけにもいかず、理乃は残りの授業時間中、悶々としながら過ごした。
ようやく昼休みになって、理乃はさりげなさを装って立ち上がった。うーんと大きくのびをしながら、教室をぐるっと見回す。と、紀野が顔を上げて理乃の方を見ていた。
「さ、さっきのは何でもないからね!」
理乃が慌てたように言うと、紀野は首を傾げた。
「さっきのって?」
「あ、いや、気にしてないなら、いい、んだけど……」
しりすぼみになりながら、理乃は言う。というか、冷静に考えたら、ちょっと目が合ったくらいでそんな意識する方がおかしい。見たら結婚とか、古代の貴族じゃないんだから。
「三崎さんはさ」
理乃があれこれ考えて頭を沸騰させていると、紀野が口を開いた。
「好きな人が他の女の子と仲良くしてたら、やっぱり嫌なものなの?」
「え、なに、その質問」
理乃が戸惑っていると、
「ほら、源氏物語の解説で、昔は
一夫多妻制だったから複数の人と関係を持つのは普通だったって話があるじゃん。だから光源氏は悪くない、みたいな。ただ実際それで納得できるのかなって気になったから、人の意見も聞いてみたくて」
「なるほど?」
好きな人が、他の人と……想像してみようとしても、目の前に紀野がいるせいで彼に引っ張られてしまう。好きな人が、って話なのに。
「まあ、そりゃあ、嫌なんじゃないの。……あたしは好きな人とかいないからあんまわかんないけど」
「ふーん、そういうもんか」
「っていうか、源氏物語でだって、他の女に嫉妬する人なんていくらでも出てくるでしょ」
「確かにそうか」
紀野は今の返答で納得したのか、机の上の教科書を片付け始めた。理乃
は拍子抜けした気分で、席に座りなおす。
一体何だったんだろうか。ただの雑談にしちゃ、内容が、ちょっと、あれだったけど。って、意識しすぎか?
理乃はスクールバッグから、弁当箱を取り出す。その間も、後ろから見られているような気がして、落ち着かなかった。変に心臓がどきどきする。こんなこと、今までなかったのに。
ああもう。
理乃は弁当箱を持って立ち上がった。
「……あれ?」
ちらりと紀野の席を見ると、いつの間にか彼はどこかに行ってしまっていた。
ただ、今更座りなおすのも気まずい感じがして、理乃は教室を出ていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ちゃぷん、とお風呂のお湯が揺れる音がする。
窓の外はすっかり暗くなっていた。理乃はお湯につかりながら、ふーと大きく息を吐く。
今日はなんだか変な一日だった。何か特別なことがあったわけでもないのに、どっと疲れたような気がする。
何をしていても落ち着かないというか、常に監視されてるみたいというか。
まあ、気のせいなんだろうけど。午後からは感じなくなったし。
ザバン、と理乃が体を起こす。
それから洗い場に上がって、シャワーの蛇口をひねる。シャワーのお湯が風呂場の扉に当たって、小気味のいい音をあげる。
ふと、脱衣所の方を振り返った。
「あれ、ママ? いるの?」
しかし、脱衣所の中には誰もいない。
不思議に思いながらも、こういうこともあるか、と理乃は体を洗い始める。
風呂場のドアはすりガラスになっていて、向こう側はぼんやりとしか見えない。理乃は、爪先までボディソープで洗うと、立ち上がってシャワーを浴びた。
理乃のすらりとした肢体がぼんやりと映る。髪は腰の近くまで伸びていて、白い肌とのコントラストが際立っていた。自分でも、それなりにスタイルは良い方だと思う。この二の腕とか、ウエストのあたりとか。
これで胸が大きければ完璧なのに。
「……なんちゃって」
なんだか自分の裸を見てるのが恥ずかしくなってきて、理乃は風呂場の扉に手をかけた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃はすっかり寝る支度を終え、ベッドに倒れ込んだ。
ばふっとくぐもった音がして、柔らかい枕に顔をうずめる。
腕とか足とかの力が抜けていって、段々と体がベッドの中へと沈み込んでいくように感じる。理乃は眠りにつくときのその感覚が好きだった。
今日のパジャマは紺色の半袖半ズボンだった。寝転がった拍子に裾の部分がめくれて背中がちら見えしている。部屋は暗く、時折理乃が寝返りを打つのが、布の擦れる音でわかる。呼吸に合わせて理乃の背中がゆっくりと上下する。
秋になってようやく涼しくなってきた。肌が布団と擦れる感触が心地よい。
理乃は布団を巻き込むようにひっくり返って、仰向けになった。
天井に手を伸ばす。それからふっと力を抜いて、大の字になる。
紀野は変な奴だ。好きな人が他の人と仲良くしてたらとか、そんなの嫌に決まってるじゃないか。彼はよくわからないという顔をしてたけど。まあ、あいつは恋愛どころか、他人に興味あるかどうかもわかんないくらいだからなあ。
そのくせ理乃に対しては積極的に声をかけてくる。
ほんと、よくわからない奴。
好きっていうのなら、嫌な気はしないけど。
ぐいっと布団を引っ張って顔に被った。が、すぐに息苦しくなって鼻まで外に出す。
それとも何か事情があって、学校の人とあまり仲良くできないとか、あるのだろうか。親に決められた婚約者がいる、みたいな。だけど理乃のことが好きになってしまい、こっそり仲良くなろうとするんだけど、それが親にばれてしまって、仕方ないから今から遠くへ逃げようって、理乃の家に忍び込んで。
って、そんなわけないんだけど。
頭を少し起こして、足元を見る。もちろん、そこには誰もいない。いつもの理乃の部屋だ。
そういうことを、何度か繰り返した。
なんだか、よく寝付けない夜だった。気温は涼しいはずなのに。変に緊張してるみたい。
ちらりとベッドの下を見る。なんだか子供っぽくて、抵抗があるけど。
ごそごそと上半身だけ布団から出して、リュウグウノツカイのぬいぐるみを釣り上げる。それを添い寝するみたいに理乃の隣に置いて、そっと腕の中に招き入れる。
ぎゅっと胸の方に抱き寄せる。こうしていると、思考が深く深く沈んでいくような気がする。日の差し込まない深海。何も見えず、何も聞こえず、静かで、暗くて、穏やかな。
それでもまだ心細くて、理乃はしがみつくように足を絡みつける。頬をすりよせると、どこか安心できるような気がした。そうこうしているうちに、理乃は眠りに落ちていた。
すーすー、と可愛らしい寝息を立てる。
寝返りを打つときもリュウグウノツカイは抱いたままで、一晩中、ぴったりと身を寄せていた。
次第に窓の外の明かりも少なくなって、星の
光だけが部屋を薄く照らしていた。
じりりりりり、と鳴り響く目覚ましの音で、理乃は目を覚ました。
眠い目を擦る。と、腕の中にリュウグウノツカイがいるのに気づく。
昨日はこれを抱いて寝たんだった。理乃は体を起こし、リュウグウノツカイをベッドの隣の所定の位置に置く。身をかがめた拍子に髪の毛が肩から前に垂
れて、うなじが露になる。
「えっ」
突然、理乃が後ろを振り返った。が、部屋には理乃の他に誰もいない。
「気のせい……?」
にしては、はっきりと感じた。
……誰
かに覗かれている?
理乃は窓のカーテンを閉める。それからベッドの下やクローゼットの中を確認する。勉強机の引き出しまでも全部確認したが、そんなところに誰かいるわけがない。壁や天井を見ても、穴が空いているわけではなさそうだ。
なのに、一向に見られている感覚はなくならない。
なんだか気味が悪かった。
だけど、このまま部屋で神経をとがらせていても仕方ないと思って、理乃は部屋から出ていった。
朝ごはんを食べ終えて、理乃は自分の部屋に戻ってきた。
後ろ手に扉を閉める。寝ぐせは綺麗に直し終わって、目もすっかり覚めていた。
理乃は壁にかけてある制服を取って、パジャマを脱ごうとする。が、ちらりとおへそが見えたところで、その手が止まった。
やっぱり、気のせいじゃない。
ママと話しているときは気にならなかったが、一人になると途端に視線を感じる。
もう一度部屋の中を隅々まで調べる。だけどやっぱり誰もいない。
気にしなきゃいいと言えばそうなのだが、一度気になってしまうと、無視することはできなかった。
理乃は制服を抱えたまま部屋の隅に移動する。勉強机と壁に挟まれてひしゃくのような形になっているところだ。理乃は背を向けたままパジャマの上を脱いで、素早く制服のシャツを着る。ボタンを下まで全部とめると、そのままスカートを履いた。そのあとに、パジャマのズボンを脱ぐ。脱いだパジャマは軽く畳んで、ベッドの上に置いた。
まだ時間には余裕があったが、ただ待っているというのも落ち着かない。
理乃は今日ある科目の教科書が入っていることを確認し、スクールバッグを手に持つ。扉に手をかけ、最後にもう一度部屋を見回してから廊下に出た。それから、ゆっくりと階段を下りる。
「あれ、もう行くの?」
一階で理乃の母の声がする。うん、と理乃は返事をすると、そのまま玄関の扉を開けた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃の家の最寄り駅は徒歩十分ほどの所にある。
普段はそこまで混んでいるわけではないのだが、朝の
この時間は制服姿の学生や会社員であふれている。理乃はいつもより少し早い時間に駅につくと、定期券を使って改札の中へと入る。
この時間なら、いつもより一つ早い電車に乗れる。
理乃は列車を待つ列の後ろに並んだ。
ちらりと周りの人の顔を窺う。心なしか、制服よりもスーツ姿が多い気がした。見覚えのない顔も多い。比較的朝に弱い理乃は、この時間の電車に乗るのは初めてだった。
後ろを振り返る。
やはり、理乃のことをじろじろ見ている人なんていない。
なんなんだろう、この違和感は。
ずっとつけられている、にしては、全然姿が見えない。
そんなことを考えているうちに電車がホームにやってきて、理乃は人の流れに乗って電車の中へと入っていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
電車の中は人で混みあっていた。ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが、腕を広げたら人に当たってしまう。座るなんてもっての他だ。
ガタンゴトン、と電車が揺れるたび、理乃の体が左右に動く。理乃は左手でつり革につかまりながら、右手でスクールバッグを体の前で抱えるようにしている。
さっきからずっと見られている気がする。理乃は首を右、左、と交互に向けながら、きょろきょろと電車内を見回す。が、ここでも理乃の方を見ている人はいない。大体の人は、スマホを見ているか参考書を開いているか、目を閉じてウトウトしているかだった。だったら電車の外だろうか。だけど、そんな遠くから見えるのだろうか。望遠鏡とか使って? それに、理乃を見つめる視線は、もっと近い所、それこそ舐め回すような位置から見られているような感じがする。
すでに、違和感は確信へと変わっていた。
昨日からちょくちょく感じてはいた。その時は気のせいか、近くにいた誰かの視線を感じているだけなのだろうと思っていたが、間違いない。ずっと理乃のことを監視し続けている何者かがいる。それも、理乃には絶対に気づかれないことを確信しているような、遠慮のない視線で。
電車が駅に停まると、隣に立っていた人が電車を降りて、別の人が寄ってくる。誰も理乃のことなんて気にしていない。
理乃の前の席には、違う高校と思しき制服の男子生徒が座っていた。じっと手元の本に目を落としている。タイトルは見えないが小説のようだった。
その様子に、なぜか既視感のようなものを感じた。
脇目もふらずのめり込むように本を読むその目つきに、うすら寒いものを感じる。別に、理乃の方を見ているわけでもないのに。
電車が停まって、周りの人が動きだす。と、男子生徒と目が合った。理乃はさっと窓の向こうへと目を逸らす。
何やってんだろう。
これじゃあ、理乃の方が不審者だ。
ガタンゴトンと電車が揺れる。理乃は落ち着かない気持ちのまま、残りの時間をじっと窓の外を眺めて過ごした。
電車がゆっくりと停車し、駅名のアナウンスをする。理乃の高校の最寄り駅だった。
普段だったら同じ高校の生徒が何人か一緒に降りるのだが、今日は制服姿の
人は理乃一人しかいない。
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駅から高校まではほぼ一本道になっている。距離はそんなにないのだが、結構急な坂道のせいで、体感二倍くらいある気がする。
理乃が駅舎から出てくる。こつこつと、ローファーがアスファルトを踏む音。通い始めた頃は少し歩くだけで息を切らしていたが、今では多少は慣れた。
理乃は、小さく溜め息をつく。
電車から出てなくなったかと思ったが、そんなことはなかった。今もどこかからじっと見てきているのを感じる。振り返っても誰もいないのに。
いつもなら同じ高校の生徒がたくさんいるのに、今は理乃だけだった。それが無性に心細くなる。怯えるように辺りを見回して、知らず知らずのうちに駆け足になる。
なんでこんなことに。
何か悪いことでもした? それとも、やばい奴に目をつけられたの?
もう秋も深まってきてるのに、理乃の首筋にはうっすらと汗が浮かび上がっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃が教室に入るときにはすでに、紀野星也は席についていた。他の生徒はまばらで、まだ半分以上は来ていない。
結構朝早いのか、と驚く。まあ、たまたまかもしれないけど。
紀野は自分の席で、いつものように心理学の本を読んでいる。理乃が来たことには気づいていないようだ。理乃は、その前の席につく。
まだ少し息が上がっていた。顔も赤い。頭から湯気でも上がってるんじゃないかと思う。
今日の一時間目の授業は数学だったはずだ。理乃は数学の教科書とノートを取り出して、宿題になっていたところを開く。ゆっくりと息を整えるようにしながら、ノートに数式を書いていく。
ベクトルの問題。この三角形OABの辺をベクトルを使って表して、三角形の面積の公式はなんだっけ。
なんだか見られている気がして、集中できない。
後ろを振り返ると、紀野は変わらず本に目を落としていた。他の人も、各々本を読んだり、友達と喋ったりしている。
「ねえ、紀野くん」
思わず声をかけていた。
「ん?」
「えっと、その……」
後から話すことを考える。よく考えてみると、紀野とはさほど接点があるわけではない。たまに彼が授業終わりなんかに授業に関係あるんだかないんだかわからない話をしてくるぐらいで。だから、これといった共通の話題もなかった。
紀野が視線を下ろそうとしたから、慌てて口を開く。
「紀野くんは、誰かから視線を感じることってある?」
「……今みたいなこと?」
そう言って紀野は、理乃と自分を交互に指さした。
「そ、そうじゃなくて、誰も自分のことを見ていないはずなのに、視線を感じる、みたいな」
「それは……」
十秒ほど、紀野は考える素振りを見せる。
「……ないな。うん、一度もない」
「そう……」
理乃が呟くように言うと、紀野はもう話は済んだのかと視線を本に戻す。
普段はいきなり喋りかけてくるくせに。
理乃は縋るように言葉を続ける。
「紀野くん、心理学とか勉強してるじゃん。何か知らない? 視線を感じるっていうのについて」
「あんまり知らないな。僕が読んでるのって、精神医学というよりは認知心理学の方だから」
精神医学って。まるで理乃の方に問題があるみたいな。
「まあ、順当に考えるなら、気のせいなんじゃないの? 人の目を気にしすぎているだけ、みたいな」
確かに客観的にはそう見えるのかもしれない。
だけど、理乃はこれが気のせいではないと確信していた。
「順当じゃない考えなら?」
「まさか、幽霊の仕業とでもいうつもりかい?」
紀野は呆れたように言う。
「でもそこまで言うなら、そうだな。人の心についてはまだわかっていないことが多いんだ。視線を感じるという時に、実際のところ何を感じ取っているのかすら、わかってない。ただ一つ言えることがあるとすれば、視線には実体があるわけではないということだ。目からビームが出てるわけじゃないからね。だから、三崎さんが何か感じてるのだとすれば、それは視線そのものじゃなくて、その向こうにいる人の気配なんじゃないかな」
その話を聞いている間も、理乃はどこかからの視線を感じていた。何かしてくるでもなく、ただじっと観察してくるような何者かの気配。
紀野は言い終わってから、思い出したように付け加えた。
「一応、言っておくけど、僕じゃないからね」
理乃はじっと紀野の目を見つめる。と、耐え切れなくなって、顔を逸らす。
だけど、紀野はいつもと変わらない口調で続けた。
「勘違いしてほしくないから」
「か、勘違いとかしてないんですけど!」
理乃は顔を真っ赤にしながら、ふんっ、とそっぽを向いた。
それから隣の席の佐々倉栞里が教室に来て、理乃は栞里と話して過ごした。
椅子を横向きに座って、壁にもたれかかるようにする。教室全体が見渡せる形だった。だけど、謎の視線は、どこからともなく理乃のことを見つめている。それが気になって、理乃はなかなか話に集中できなかった。
「理乃ちゃん、どうしたの?」
理乃の視線がせわしなく動いているのに気づいて、栞里が訊いてくる。
「あ、ごめん、なんでもない……」
理乃は手を振って、誤魔化すように笑う。すると、栞里
が顔を近づけて、耳元で囁いた。
「……紀野くんのことが気になるの?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
もし本当にそれだけだったらよかったのにと思う。好きな人の視線が気になるとか、そういうよくある青春の一コマみたいな話だったら、ちょっと恥ずかしいだけの笑い話で済むのに。
「ふーん」
栞里は不思議そうに首を傾げながら、自分の席に座りなおした。
ホームルームが終わると、すぐに一時間目の授業が始まる。数学の先生は、少し強面の、五十代くらいの男性だった。
結局、宿題をする時間はなかった。時間というか、余裕が。普段だったら、授業中にでも、ささっと解いておくことだってできるのに。
びくっと顔を上げる。
先生はいつものように黒板の方を向いて数式を書いている。もちろん、理乃の方を見ているわけもない。まして、思考を覗かれることなんて。
視線をノートに戻す。黒板の数式を写して、シャーペンをノートの横に置く。
すべて行動が、衆目に晒されているかのようだった。それどころか、心の内まで見透かされているような気がする。
いや、読、まれて、、、いる、、と言った方が正確だろうか。
まるで青春小説でも楽しむみたいに。
気持ち悪くなって、手で口元を押さえる。
「すみません、体調が悪いので保健室に行ってもいいですか」
理乃が手を挙げながら弱々しく言うと、先生は一言、
「わかった」
と言った。
理乃はクラスの人の視線が自分に集まるのも気にすることなく、教室から出ていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
保健室は、本校舎の一階から渡り廊下をわたってすぐのところにある。中には、ベッドが四床とソファがあり、隅に保健室の先生の使うデスクがある。先生は赤縁のメガネをかけた三十代ほどの女性で、今日も今日とてパソコンの前で事務作業をこなしている。
保健室には、彼女の他には誰もいなかった。
カタカタとキーボードを叩く音だけが、部屋の中で響いている。
ちらりと、彼女が保健室の扉を見た。その向こうを、黒い影が通り過ぎる。
彼女は再び画面に視線を戻す。ぐりぐりと肩を二度ほど回した。
それからしばらくして、一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。それまで、誰も保健室の中には入ってこなかった。
ガラガラと扉が開く
「理乃ちゃん、体調どう?」
顔を覗かせたのは、佐々倉栞里だった。保健室の先生が、彼女の方に目を向ける。
「あれ、今日はまだ誰も来てませんけど」
「え、そうなんですか」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃のクラスは休み時間に入っていて、そこかしこで話し声が聞こえていた。
紀野星也は自分の席に座って、心理学の本を広げている。だが、視線は本ではなく、空席のままになっている前の席に向けられていた。紀野は机の中を手で探って、封筒を頭半分だけ出す。彼らしい、何の装飾もない封筒だ。紀野はちらりと教室の扉を見てから、封筒を机の中にしまう。
佐々倉栞里が教室に戻ってきた。理乃と仲のいい女子生徒が彼女の方に駆け寄る。
「理乃ちゃん、どうだった?」
「それが、保健室に来てないらしくて」
「え、そうなの」
女子生徒が驚いた声をあげる。
「勝手に帰っちゃったとか?」
「理乃ちゃんがそういうことするとは思えないけど」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
廊下にもちらほらと生徒の姿があった。
化学の教科書を持った男子生徒四人が、談笑しながら廊下を歩く。そのうちの一人が、背の低いもう一人の頭を教科書でぺちっと叩く。叩かれた方は、いってえな、と大声を上げた。その隣を、前髪の長い物静かそうな男子生徒がすれ違う。手には何も持っていない。彼は、そのまま男子トイレの中に入っていく。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
二階の女子トイレでは、洗面台の前で二人の女子生徒がケラケラと笑い合っていた。ポニーテールにしている方が、ぱっぱっと水を切って、スカートからハンカチを取り出す。
トイレの個室は四つ。そのうち、手前から三つは空いていた。
その一番奥の個室の中、理乃は便器の蓋を下ろして、その上に座っていた。
幾分か気分は落ち着いていた。さっき入ってきた二人の声が、遠ざかっていくのが聞こえる。
あの謎の視線も、常に理乃に張り付いているわけではないようだ。理乃の部屋、駅、電車の中、高校への上り坂、教室。なめらかに繋がっているようでいて、実際はそうではない。まるでシーンを区切るみたいに、合間合間には必ず切、れ、目、がある。
現れることのできる場所に限りがある?
だが、いつまでもここに籠っているわけにもいかない。
「……え」
ぞくりとした寒気を感じて、理乃は上を見上げた。個室の扉と天井の間、そのわずかな隙間から理乃のことを見下ろす者が……いない。
「なん、で」
理乃は顔をゆがめた。個室の扉を開け、廊下へと駆け出す。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃は廊下の人の間を縫うように、早歩きで移動する。
「あれ、理乃ちゃん?」
佐々倉栞里が声をかけた。
「ごめん、早退するって先生に伝えといて」
「えーっ⁉」
理乃は栞里の方を見ることもなく言うと、階段を一段飛ばしで駆け下りた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
一階には、主に一年生の教室がある。その廊下を理乃は走っていた。
一年生たちの視線が理乃に集まる。だが、その中にあっても、まとわりつくようなあの視線を、今の理乃は明確に感じ取ることができた。
理乃は小さく舌打ちをする。
途切れ途切れでありながらも、確実についてくる。場所に制限があるわけじゃないのか。でも、だとしたらなんで、あのトイレの個室には授業が終わるまで現れなかったのか。
見失った?
理乃は、教室の扉を開けて、その中に入った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
一年二組の教室は騒然としていた。それもそのはず。突然、上級生が入ってきたのだから。
教室の中に、理乃の姿はない。
「今の、三崎先輩だよね。二年の」
一人の女子生徒が言った。
「え、誰?」
「知らないの? なんかすっごい頭いいらしいよ。いつもテストで学年トップなんだって。部活の先輩が言ってた」
「へえ。……で、なんでその頭のいい先輩がうちの教室突っ切って窓から出ていったわけ?」
「……さあ?」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
グラウンドには体操服姿の生徒がぞろぞろと集まってきているところだった。次の
時間は三年生の体育で、グラウンドの手前側にハンドボールが山のように入った籠がある。先生を含む何人かは、奥でゴールを運んでいた。残りの人たちは、周りの人と喋っていたり、先にキャッチボールを始めたりしている。一年二組の騒ぎに気付いている人はいない。
ゴールが運び終わったタイミングで、チャイムの音が鳴った。先生が走って生徒たちの集まっているところに行く。生徒たちはボールを片付けて、出席番号順に並ぶ。
「おい、走れ!」
先生が昇降口の方に向かって声を張り上げた。そちらから、一人の男子生徒が小走りで近づいてくる。彼は途中、ちらりと後ろを振り返った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
昇降口では、体操服を着た男子生徒二人が、のんびりと運動靴を履いている。
理乃の下駄箱には、上履きだけが入っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
理乃は、駅と学校を結ぶ坂道を歩いていた。
荷物は何も持っていない。いつもは重いスクールバッグを持っているから、何も持たずに歩くのは新鮮だ。
ちらりと腕時計を見る。ベルトの細い、ピンク色の可愛らしい時計。
「……っ!」
理乃は立ち止まった。
もう追ってきてる。
靴を履き替えたのは失敗だったか。
理乃は立ち止まって、後ろを振り向く。
「いい加減にしてよ! なんなの、ずっとずっとあたしにつきまとって。人の生活覗き見て何が楽しいわけ?」
宙に向かって指さすように、びしっと人差し指を向ける。
「あんたに言ってんの! 気づいてないとでも思ってるの? じろじろと無遠慮な視線向けてきて、嫌でも気づくっての」
だが、理乃の声は誰もいない道路に虚しく響き渡るだけ。
ぎりっ、と理乃は歯噛みする。
聞く耳は持たないらしい。
理乃は再び、坂を駆け下りる。
どうすればいい? どうすればこの目から解放される?
視点が切り替わるときには、ほんの数秒、空白の時間が生まれる。その隙をつけば、一時的には逃れることができるだろう。
だが、相手は神出鬼没だ。ずっと逃げ続けることなんてできるのか? そもそも、日々の生活はどうなる。学校とか家とかに行けば、一発で見つかってしまうじゃないか。
考えろ。何か方法はあるはずだ。
相手だって、全知でもなければ全能でもない。そのことはすでに実証されている。
理乃は駅の中へと駆け込む。
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駅は、改札と待合スペース、それからコンビニが一つ入っているだけの簡素な造りだった。通勤・通学の時間は終わってるせいか、人はほとんどいない。
駅のホームにちょうど電車が来るところだった。理乃の家の方へ向かう、二両編成の列車だ。
理乃はまっすぐ改札の中へと入っていった。
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電車の中は、朝とは比べ物にならないくらいに空いていた。
座席にはゆとりがあり、隣の人と感覚をあけて座ることができる。隣同士で座っているのは、大学生ぐらいの男女二人組だけだった。女の方は手元でスマホを触っており、男の方はまっすぐ前を向いて流れゆく景色を眺めている。
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隣の車両も似たような感じだ。
車内にはパラパラと人が座っている程度。ただ一人、あご
ひげを生やした男性だけが、車掌室の手前に立って外の景色を眺めている。
車掌が次の駅を告げるアナウンスをする。
車内に制服姿の人はいない。
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駅の待合所には、白髪を生やした初老の男性が一人座っている。彼の手元には一冊の本が開かれてある。単行本サイズの本で、帯には『権力者たちに隠されてきた歴史の真実!』とある。
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駅の前の道路を、車が走っている。
空は雲一つない晴天だ。街路樹が風に揺られてさわさわと音を立てる。
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理乃のクラスは、再び休み時間に入っていた。
紀野星也は相変わらず、心理学の本を開いている。
「ねえ、紀野くんは何か知ってる?」
紀野に、佐々倉栞里が声をかけた。紀野は顔を上げると、ぶっきらぼうに応える。
「何の話」
「理乃ちゃんのこと。なんか朝から様子がおかしかったし、いきなり早退するとか言い出すし」
栞里は困ったように言う。
「LINE送っても既読つかないし、どうしちゃったんだろう」
「今日の朝、三崎さん、視線を感じる、みたいなことを言ってた」
「視線?」
「そう。誰も見てないはずなのに、視線を感じるんだと」
「何それ、ストーカーってこと?」
「さあ。ただのストーカーなら、三崎さん、気づきそうなものだけど」
紀野は本に目を落としたまま、落ち着いた様子で言う。
「まあ、三崎さんのことだから、大丈夫でしょ。きっと明日にはけろっと学校に来てるって」
「ほんとかなあ。あの子、頭いいくせに、結構危なっかしいところあるから」
栞里は、心配そうにそう言うと、窓の外に目をやった。
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理乃の部屋は、カーテンが閉まっているせいで昼間でも薄暗かった。
リュウグウノツカイのぬいぐるみが、虚ろな目で部屋を見つめている。昼間の住宅街は静かなものだった。部屋の中は、さながら深海のようだ。
ベッドは朝理乃が起きた時のまま。布団は足側にぐちゃっと畳まれていて、枕は壁際によけられている。
勉強机の上には今日授業がない科目の教科書やノートが積まれていて、それだけで三分の一ほどのスペースが占められている。所々に消しカスが散らばっており、隅の方には丸められたティッシュが二つある。
ガチャリと玄関の扉が開く音がした。
下の階で物音がして、誰かが階段を上ってくる。
部屋の扉が開いて、理乃の母が顔を覗かせた。
「あれ、理乃いないの?」
理乃の母は部屋の電気をつける。部屋の中には、彼女以外誰もいない。
「早退したって言ってたのに」
彼女はスマホを取り出すと、理乃に電話をかける。
コール音が鳴る。が、出てこない。
「もう、何やってるのかしら」
理乃の母は、位置情報共有アプリを開いた。理乃は、学校からさらに十キロほど先に行ったところにいた。
もう一度、電話をかける。しかし、今度はコール音もならなかった。
『おかけになった電話は電源が入っていないか……』
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高校から駅を挟んだ反対側に、大きな道がある。線路と平行に走る、この町の幹線道路の一つだ。その道を理乃の家とは反対側に行くと、次第に建物が少なくなっていき、ちょうど山道に差し掛かったあたりに、理乃はいた。
すぐ隣の車道を、時速六十キロオーバーの車が走る。
理乃は電柱に手をついて、息を切らしている。手にはスマートフォン。電源を切ったのだろう、画面は真っ暗だ。
額には滝のような汗が浮かんでいる。その下の瞳が大きく見開かれた。
「嘘、でしょ……」
理乃は足から力が抜けたように、その場にへたりこむ。
シャツは汗でぐっしょりと濡れて、体に張り付いていた。理乃は後ろに手をついて、力なく宙を見つめている。座った拍子にスカートの裾がめくれて、太ももが露になっている。息をするたびに胸が上下する。
理乃がスカートの裾を引っ張って、形を整える。
「……見ないでよ。あたしは見世物じゃない。ねえ、人の気持ち考えたことある? どこの誰ともわからない人にずっと生活覗き見されて。あたしが何してても、何を言うにも、関係ない奴にじろじろ見られて。もう、あたしのことなんてどうでもいいでしょ。放っておいてよ」
理乃は胸を隠すように腕を体の前に持ってくる。
「だから見ないでって言ってるでしょ。あんたに言ってるの。今これを読んでるあんたに。なに自分は関係ないみたいな顔してんの。あたしはあんたに、今、ここで、読むのをやめろって言ってんの」
理乃は、きゅっと胸の前で手を握りしめる。
「……ねえ、お願い。もう、見ないで」
理乃は泣きそうな声で言った。
秋の空は澄んでいて、どこまでも高く感じられる。
返事はない。
目の前を自動車が走り抜けた。
吹き抜ける風が、理乃の髪を揺らす。
理乃は悲しげに目を伏せた。
「まあ、あんたはこういうあたしの反応も含めて、楽しんでるんでしょうけど」
理乃はゆっくりと立ち上がる。
「ほんと、趣味の悪い」
辺りを見渡しても、建物はほとんどない。これでは隙をついて逃げることもできない。
ふらふらとした足取りで、理乃は歩き出す。
随分と疲労がたまっていた。スマホの電源をつけると、不在着信やら
SNSのメッセージやらが大量に来ている。返信しようかとタップしかけて、やっ
ぱ
りやめる。これも見られてると思うと気が進まない。
しばらく歩くと、コンビニを見つけた。
喉が渇いていたから、理乃はコンビニに寄ることにした。駐車場を突っ切って、中へと入る。
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コンビニは小さめで、中央に棚が二列、レジと垂直に並んでいて、その奥にドリンクコーナーがあった。レジの中には、爽やかな青年が一人。理乃の他に客はいない。
理乃はドリンクコーナーの前に立って、商品を眺める。左側に普通の飲み物があって、その隣に酒類がある。右の方を見ると雑誌コーナーが目に入る。派手な表紙の雑誌が所狭しと並んでいる。
リンゴジュースを手に取って、なんとなく雑誌コーナーの前を通ってレジへと向かう。そういえば、最近はコンビニで全然えっちな本を置かなくなった。規制が厳しくなっているのだろうか。
いや、全然悲しがってなんかないけど。
断じてこっそり立ち読みしてたとかそんなことはないけど。
レジで会計を終え、ペットボトルを受け取る。
と、そこでふと思い至る。
コンビニのドアが開いて、理乃は出ていった。
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理乃は走り出していた。
手に持っているリンゴジュースはすでに半分以上なくなっている。
理乃の口元には、久しぶりの笑みが浮かんでいた。
間違いない。これならいける。
理乃は大通りから小道へと入っていく。
辺りは一面田んぼだった。すでに収穫時期は過ぎていて、視界を遮るものは何もない。隠れられそうな場所はどこにもない。
だけど、それでいい。
むしろ好都合だ。
理乃は十字路になっているところまで来て、立ち止まった。
辺りを見渡す。人の姿は見当たらない。遠くで車が走っている。その車が近づいてきて、そして遠ざかってゆく。
今しかない。
理乃は、シャツのボタンに手をかけた。上から三つまでのボタンを外すと、そのまま頭から脱いでしまう。それからスカートに手をかけて、一気に地面まで下ろす。脱いだ服は、その辺に投げ捨てた。
誰かに見られているんじゃないかと不安になる。びくっとして、振り返る。が、誰もいない。
下着に手をかける。と、咄嗟に体を隠すように、うずくまってしまう。
いやだ、恥ずかしい。
こんなところで。
理乃は、なんとか下着を脱ぎ捨てる。だけど腕で体を隠したまま、起き上がることができない。
今もこの姿を、じろじろと舐め回すように見られているのがわかる。
そう。舐.
め.回.すように....、.見てきているのだ。この視線は、必ず舐め回すような近い所から、理乃のことを眺めている。
……た
った一回を除いては。
昨日、理乃が風呂に入っていたとき。あの時だけは、同じ風呂場の中ではなく、隣の脱衣所から理乃のことを見つめていた。それも、直接ではなく、すり
ガラス越しに。他の時は、必ず同じ空間から見てきてたのにも関わらず、である。
なぜ直接見なかったのか?
見なかったんじゃなくて、見れなかったんじゃないのか。
理乃はまだ高校二年生。未成年だ。だから、直接裸を映すわけにはいかなかったのではないか。
だとしたら、今ここで理乃が裸を見せれば、この物語を強制的に終わらせることができる。
理乃は、意を決して立ち上がる。
「人のプライバシーくらい守れ! この***************************!」
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