山道を登りながらこう考えた。高い山に登ればいろいろなものが見えると思って、私はこの山を登ってきた。しかし、何を見たくて登っていたかわからない。地図を見るとあそこに何かあるらしい。そこへ行こう。
序章
今回の話はとても重いので注意。大学院に進んだ方、大学に疲れた方、最近傷ついた方は読まない方がいいです。
二つの理由で、私は大学院に入って苦しんだ。
一つ目に、論文が書けないことである。修士課程は二年間しかないので、修士論文を入学直後から準備せねばならない。歴史学の論文を書くには、史料を読んで、ある程度まとめて、抽象化して結論を導く。結論は事前に完全にわからないので、書きながら仮説を修正していくのを繰り返す。だが、私は事実を列挙しただけで終わり、論文にならない。私は論文を書くことはやはり苦手であったが、書かねばならないから、私は苦しんだ。
二つ目に、無気力になるからである。大学院生は、自分の研究を進めねばならない。しかし、私は専門の東洋史に意義を見出せなくなった。論文を読もうとしても読めず、無理に見ても文字が頭に入らなかった。
苦しさの具体例として二つあげる。一つ目に、希望が見いだせないことである。このまま社会に出られない、就職が得られないという不安があり、将来に希望が見いだせない。二つ目に、時間を無駄にしていると感じることである。「就職していれば今頃働けたのに」と思って、今を過ごしているのがつらい。
第一章では、私が研究者になることを決意するまでの経緯と、私が研究者になるためにやってきたことを述べる。第二章では、第一章で述べたことが間違いであったことを、そのときの誤解と生活態度から、明らかにする。結論では、今に至るまでの私の経歴を踏まえて、今後の方針を述べる。
第一章 大学院進学の理由 憧れから決意へ
本章では、私が大学院に進学するまでの経緯を述べる。以下では、進学までの経緯を、一:大学入学前、二:一回生から三回生末、三:四回生の三段階に分ける。各段階で私が目指していたもの、影響を受けたものを思い出し、進路を選択した要因を明らかにする。
一、大学入学前
研究者にあこがれたのは、自分の好きな歴史を極めたいと思ったからである。大学教授は自分の好きなことを研究して生活していると思っていた。だから、好きなことを極めるために、研究者になろうと思った。(もちろん、研究者の多くは大学教授になれず、大学教授も忙しくて好きなことができない。) 私の好きなことは歴史であった。高校二年のころには、多民族国家が成り立つしくみをきわめたかった。こう思ったのは、世間の動向が影響している。二〇一三年(私は中学三年生) ごろから、ヘイトスピーチが取りざたされるようになった。私はその風潮に影響され、過去の多民族共生の事例から、民族差別がない社会を作れないかと考えていた。そのために、過去の多民族国家すなわち帝国について、一生をかけて研究したいと思った。それゆえに、私は歴史研究者を目指した。研究者になるには有名大学に行くべきだと思って、京大を目指した。
京大を選んだ理由は、研究者になるため以外に、あと二つある。むしろ、そちらの方が主である。一つ目に、兄が通っていたからである。私の中学入学とともに兄は京大に入学した。そのころは東大と京大くらいしか大学名を知らなかったので、私は中学一年のときから京大を目指していた。親族は気にするなと言ったが、兄と同じレベルの大学に通らねばと思っていた。二つ目に、劣等感を打ち消すためである。クラスの人々は寮や行事、部活動で役員として忙しく働いていた。しかし、吾輩は能力のなさを自覚して、役員になるのを断り続けた。その一方で、「勉強だけしていては自分に価値がない」と、何もしない自分を恥ずかしく思った。そこから転じて、「勉強だけしているなら、せめてハイレベルな大学へ行かねば」と思っていた。こうして、自分の存在価値を維持するために、京大入学を絶対に実現せねばと思った。(自分の存在価値や役割を考えることはこののちも続く)このように、私の大学決定は、兄や周囲と同じになりたいという欲望に基づいており、将来の自分をはっきり考えて選んだものではなかった。
そのころ、学年主任の先生が「高い山に登れば見えないものが見えます、目指せるだけ高い山に登ってください。」と言っていた。私は京大に行けば可能性が広がると信じて、京大を目指した。
二、一回生から三回生末
入学後、私は研究者を目指した。一回生の夏休みには、院試の過去問をコピーし、大学院の説明会にも出た。院に行くことはずっと考えていたが、二回生のとき、二つの理由でそれが確定した。
一つ目に、ものごとを能動的に掘り下げていく楽しみを知ったからである。二回生で講読の授業が始まった。講読とは、割り当てられた史料やテキストを、各担当者が読んで調べて発表する授業である。予習で深く掘り下げて調べることが楽しかったので、私は講読が好きになった。もう一つ理由がある。一回生の後期から、ただ聞いているだけではつまらない、同じ授業時間を過ごすのであれば充実させたいと思うようになったことも影響しているだろう。そして、研究者になって、自分から掘り下げて調べることを仕事にしたいと思った。(ここに誤解があることは後述)
二つ目に、講読の先生方にあこがれたからである。先生方は、基礎的な資料を一語一語おろそかにせずに読み、先行研究で言われたことを、史料に基づいて批判的に読んでいた。史料読解を地道にやって歴史像を描こうとする先生方の実直な姿勢に感動した。また、歴史書の記述がすべて研究者の論文に基づくことを教えられ、自分も歴史書の一行を変えてみたいという野望を持った。
三つ目に、院生の方々にあこがれた。二回生の後期から院生の勉強会に出させてもらった。そこでは、院生の方が論文を書いて発表し、それについて議論していた。わからない多くの言葉をメモしつつ、論文が作られる過程を見て胸が熱くなった。終わった後には、飲食店で歴史学の話を聞いた。そこでは、すぐれた先行研究はいつまでも参照され続けること、院生の方々もそうした偉大な研究者を目指していることを聞いた。そのころは研究者以外でそうした仕事ができるとは知らず、研究者になってそのような業績を残したいと思った。
講読と院生との交流を通して、歴史研究者が実直に史料を読み解き、ずっと評価される書物を残していることを知った。歴史学に携わる人々に接して、彼らのようになりたいと思った。初めてなりたい人物像が見えた気がした。
それまでは将来の夢を考えていなかった。本当は早く先を見通して行動すべきだったのだが、入学してしばらくは、将来を考えずに今を楽しみたいと思っていた。バカな私は小さいことは早く用意するのに、大きなこととなると先送りしがちである。
第二章 あこがれの裏にある誤解
第一章では、私が歴史研究者になることを決めた経緯を述べた。本章では、まずその決定は四つの誤解に基づいた危ういものであること、次に私の生活態度ゆえに挫折に至ったことを述べる。
私が研究者になるのを決めたとき、四つのことを誤解していた。
一つ目に、自分を誤解していた。企業入社よりは研究者になる方が、自分らしく働けると思っていた。大学院を目指したのも、就職という選択肢を考えなかったからである。
また、自分の希望、能力、義務について考えていなかった。
・希望:自分のやりたいことが本当に研究なのか
・能力:一から考えたことを論文にするだけの力があるか
・義務:自分だけができること、自分がすべきことは何か
・能力:自分は何によって社会に貢献し、自立した大人になれるか
などを、私は何も考えなかった。
自分について知ることが重要なのだ。就活は三回生からというが、自己分析は一回生からやって、一生続けるべきである。
二つ目に、研究を誤解した。これは卒業論文を書いていて気付いた。それまでは、能動的に調べるだけで研究者になれるのだと勘違いしていた。実際には、研究では、研究対象を選び、研究方法を考え、論文にするまで、すべて自分でせねばならない。論文を書くには、一つの調べた結果を述べるだけでなく、複数のテーゼを緻密な論理で明らかにし、そこからより大きな論を組み立てねばならない。これは、与えられた範囲を調べるだけですむ演習とは全く異なる。このことを私は理解していなかった。卒業論文で論文を書く難しさを知るまでは、私は研究者になろうと本気で思っていた。しかも、研究者の多くは不安定な非常勤講師であることなど、研究者として生きる具体的な手段についても知らなかった。
三つ目に、好きを誤解した。これは、論文が書けないうちに、自分の好きだった歴史や文学への興味を失ったことでよくわかった。私はずっと歴史研究を好きでいられると思って、一生を歴史研究に費やすことを決めていた。今思うと、「好き」だけで行動するのはとても危うい。好きの対象は変わりうるし、自分の知らない世界にも新たな好きがありうる。
四つ目に、労働を誤解した。これは、四回生で就活を始めて気づいた。働くとはどうやって生きていたいかを決めること、労働を通して社会に役立てること、労働は自立のために不可欠なことを、私は知らなかった。働くのは自分のために過ぎないという労働への軽蔑、そしていざとなれば親の金に頼ろうという依存心があった。
このように、私は自分、研究、好き、労働を誤解したので、自分は企業で働くより研究者になる方が向いている、という誤った判断を下した。
私の生活態度にある四つの問題のせいで、問題は深刻化した。
一つは、同級生とのかかわりをあえて避けていたことである。私は変人で頭が臭いことを自覚していたので、それがばれないようにあえて人とのつきあいを避けていた。同じ講義に出た人と話すことも遠慮した。そして、二回生後期には、院生の方の勉強会に参加させていただくなど、院生の方とばかり交流していた。勉強会は研究者を目指す人しかいないので、私はごく限られた人としかかかわっていなかった。このため、同級生が何をしているか知らず、自分も研究者になると根拠なく考えていた。自分の将来について、同世代の行動を見て決定できなかった。
二つ目に、その場しのぎで対応していたことである。私の行動原理の原形を見出すべく、受験生時代を思い出してみると、勉強しているふりだけして、自分の苦手を本気でなくそうとしていなかった、とわかった。研究者を目指してからもその場しのぎだった。大学院入試に出ないという理由で、語学をさぼるのを正当化し、自分の好きな本を読むだけだった。高い目標を定めても、本気で取り組まずに努力しているように見せるだけであった。このため、私は研究者になれるほどの実力をたくわえられなかった。
三つ目に、進路を修正しないことである。私は研究者になると決めた後は、その決意を変えなかった。本当は何かをまとめて発表することが苦手だと講読でうすうす気づいていた。しかし、他の選択肢を考えるのが面倒だとどこかで考えて、大学院に行くことだけを考えていた。しかも、院に行くから就活は関係ないと思って、「研究者を目指すのだから、就活をするのは時間の無駄」「そんな弱気で研究者は目指せない」と思っていた。就活をしないために自分を納得させていた。このように、それまでの目標の間違いに気づいても、すぐに道を変えられずに、その道を行き続けた。初志貫徹は成功しないと悲劇になること、「やってみなきゃわからない」はやってみてわかったあとに手遅れになることを、私は知らなかった。
四つ目に、周囲を馬鹿にしていた。周囲がアルバイトやサークルに取り組んで、必ずしも授業に毎回出席しないのを、私は馬鹿にしていた。しかし、私の方が問題は深刻だった。私はただ授業に出て、自分の将来を考えず、多くのことを経験しなかった。このために、私は院進学以外の選択肢を知らず、大学生時代に何も成し遂げていない。勉強会で出た本を読んで興味を増やすのは、周囲に影響もなく、課題も解決していないのだから、成し遂げたことではない。
このように、私は自分だけの世界にいて、その場しのぎで日々を送り、長期的な視点で将来を考えていなかった。自分が四つの誤解を持ち、生活態度に致命的な間違いを犯したことがよくわかった。これが、院進学で得た唯一のものである。
展望
最後に、これからの展望を述べる。
私は週末に実家に帰れる勤務地にある会社に入ることにした。理由は二つある。一つ目に、実家を助けるのは自分にしかできないからだ。私の実家は農家で農繁期には人手がいる。私はそこで働くことに自分の存在価値を見出した。二つ目に、実家で過ごすことが一番楽しいからだ。卒論でボロボロになった後、しばらく実家に滞在した。そのときに、自分が家族には必要とされているのではないかと思えた。だから、就職しても実家に通って、自分を必要としてくれる家族に尽くしたい。
職種や業界を絞らないのは二つの理由がある。一つ目に、自分が向いているものは何かがわからないからだ。自分は研究に向いていると思っていたが、それは間違いだった。仕事をする前から、自分の向いているものを知るのは難しい。また、私はどこに行ってもだめならば、どこへでも行こうと思う。二つ目に、どんな職でも誰かの役には立つはずだからだ。研究者になるのをあきらめてから、自分は社会の役に立っていないという感覚に襲われている。だから、自分の仕事の成果が目に見えなくても、誰かの役に立っていたい、そのために仕事がしたいと思うようになった。この二つの理由で、私は特に職種や業界を絞らず、職を探している。ただし、フードロス問題や自給率の低下などの、食糧問題解決に携わりたいという願いはある。(中学校の時から、身の回りの大量の残飯をおかしいと思ってきたことが影響している。)
成し遂げたことがないので、ひとまず研究室の人々と助け合って、修士論文を完成させることを目標にする。
あとがき
タイトルと冒頭は夏目漱石の『草枕』のもじりである。私は学年主任の先生の言葉を支えに京大を目指し、研究者を目指した。しかし、その道が間違っていたことに気づいて、今このようになったわけを見直してみた。そのために、時系列で過去を書き出し、自分の失敗、失敗の原因、昔からの行動パターンを整理してみた。いわゆる就活生のやる自己分析である。こうすることで、自分がどういう人間か、少しは分かったのではないかと思う。
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