HIRAESH
- meishomitei
- 4月15日
- 読了時間: 29分
更新日:5月6日
『HIRAESH』_氷崎光 (2024 NF)
前編.
SEPIA
時折、何で忘れていたんだろうというような重要な記憶を、不意に思い出すことがある。
例えば、学生の頃に親友たちと交わした、絶対に忘れない、と誓った約束。〝思い出した〟時点で詰みだ。あの瞬間の絶望感たるや。彼らには申し訳ないことをした、と今でも思っている。
あるいは、幼少期に祖父に連れていってもらった、暁の浜辺の眺め。あの時の私は確かにこの景色は一生忘れられないだろうと思ったはずだ。が、結果はこの通り。あの景色なしで、私はのうのうと日々を過ごしていたのだった。
……な
んだか、思い出せば思い出す程、自分のだらしなさというか、そういったものが露呈していくような気がする。まぁいい。ともかく、私はこういった記憶を特にきっかけもなく思い出すのだ。
今回のも〝それ〟だった。
確か、その時は朝食のパンに思い切りかぶりついた瞬間だった、思い出した途端、私の当分の予定が決まったようなものだった。いつだってそうだ。私はもう二度とそれを忘れないように、大事に抱えて旅に出る。再会を祈りながら。
その日のうちに、旅行鞄に最低限の衣類と金銭、仕事道具を詰めて私は家を出た。私の家には、仕事柄出ざるを得ない〝売れ残り〟が雑然と積み上がっているばかりなので、何も心配することはない。
冬の寒い、寒い日だった。
******
あれは何年前のことだったろう。少なくとも、十年以上は経っているか。
かつて私は隣国のとある地域に住んでいた。そこは自然と人工物がほどよく混ざったような街で、私はその彩りの多さを気に入っていた。
あの時は……確かその街に引っ越してきて間もない頃だったと記憶している。朝、特にしたいこともなく、散歩ということにして辺りをうろついている時に私はそこを発見したのだった。
その花屋・・は街の〝自然〟の一部のようだった。アイビーらしきつる性植物がいたるところを覆いつくしていて、加えて外壁は鮮やかなエヴァーグリ―
ンなものだから、植物との境目が分かりにくい。
街の人々は、そもそも存在に気づいていなかったのではないだろうか。大して人通りの多いわけでもない道沿いに立っている花屋である。そうでなくとも、意識しなければそこに建物があるとも気づけなかったであろう。この街は常緑樹で溢れているのだから。唯一浮いた赤色シグナルレッドのポストだけがその存在を知らせようと奮闘しているが、植物のつるの邪魔によりそれもままならない。
そんな花屋の扉の前に、気づけば私は立っていた。それは半ば吸い寄せられたようなものだった。今にして思えば、そうなった理由は単純なことに思える。私は常緑樹の緑の色が好きなのだった。
扉をよく見ると「OPEN」と書かれた札がかかっていた。閉店した後に廃墟と化したわけではないらしい。何故か私は少しだけホッとした。
(しかし、人の気配がなさすぎる……)
私は扉に手をかけながら、心中で不安を吐露した。とは
いえ、この好奇心に抗うのはもはや不可能だということは、経験上明らかだった。私は持ち合わせを一応確認した後、扉を開いた。
第一印象は、古びてはいるが、手入れの行き届いた洒落た店。花屋の中は外と一転して、暗く落ち着いた色調で揃えられていた。
アンティークと言えば古すぎるのかもしれないが、雰囲気としてはそれに近い。マホガニーの壁にローシェンナの床。テラコッタの鉢には様々な木々・花々が植えられているが、意外にも目立つような鮮やかなものはない。店の中を照らす灯りは穏やかな暖色系の光を放っている。濃厚な花々の香りに満たされている店内では、ジャズだか何だか知らない、緩やかな曲が流れていた。
その相当の年数を感じる店の中で、若い男の店員が植物に埋もれるようにして立っていた。実を言えば、目についたのは花よりも彼の方が先だった。何故って、店の雰囲気に対して、青年はあまりにアンバランスな存在だったから。
鮮やかなオレンジの髪に、ホライゾンブルーの瞳。周りを取り囲んでいる濃く重たい色群の中では、浮かざるを得ない色だ。妖精と呼ぶにはあまりにサイズが大きいが、それに類する不可思議な存在と呼ぶことにはさほど違和感はない、そのような雰囲気を纏っていたのがこの青年だった。
彼は私が入ってくるのに気づくや否や、手に持っていた本をパタムと閉じた。業務中に読書とは感心しない。まぁ、部外者の私が言えた義理もないか。店の中には彼の他に誰もいなかったし。店主も不在らしい。
青年は浮かべた驚きの表情を滑らかに微笑みへと変化させた。
「いらっしゃいませ」
私は軽く会釈をして、そこでようやく自分が何の目的もなく店に入ったことに気がついた。花屋なのだから、花を買う他にすることはないわけであるが、それを全く意識することなく私は店に入ってしまっていた、ということだ。そもそも、花屋に入るのはこれが初めてである。
私は取り敢えず、たまたま近くにあった花(札には「ラナンキュラス」と記されている)に目を移した。ややくすんだベビーピンクのそれを手に取り、ためつすがめつ眺めてみる。
ぱっと見、バラのようにも見える花。ただバラよりやや小ぶりで、茎には棘がない。全体
的にかわいらしい印象を受ける花だが、私は同時にぎゅっと詰まったようになっている花弁に、目が回るような感覚をおぼえていた。
……こ
れが良い。
何が良いとかそういった具体的な理由はないのだが、購入する決意に足るだけの良感情がその時の私の中にはあった。
幸い、値段は高いとは思えなかった。相場は知らないが。
「すみません店員さん、この花をいただけますか」
「……! ありがとうございます」
一瞬、即決過ぎるだろうかとも思ったが、青年店員は笑顔をたたえながら対応してくれた。若いが、それなりに場慣れしているようである。
「自宅用でしょうか。それとも誰かへのプレゼントですか」
「自宅用です」
「長さは切りますか」
「いいえ、そのままで結構。このまま家に持って帰ります」
事務的な会話がなされ、青年はテキパキと濡らしたティッシュを茎に巻きつけていく。その手際の良さを見ながら、私は気になることを訊いてみた。
「失礼、ここはかなり年季を感じる見た目をしていますが、一体いつからあるお店なのですか?」
「あぁ、ここですか? そうですね……今年で120年になります」
青年はさらりと言った。しかし、その年数はさらりと言って良いものではないだろう。120年と言うと、その国はその間に二度戦争を経ていたので、この店はその時の戦火から奇跡的に逃れたことになる。アンティークという私の形容も、あながち間違いでもなかったということだ。
「ほう、それは凄い」私は素直に驚いた。「しかし、そう聞くと逆に綺麗に見えてきますね。長年丁寧に扱われてきたと見える」
「いえいえ。私も先代もその前も、皆綺麗好きだっただけですよ」
私の本心からの称賛にも、青年は謙遜して答えた。しかしその目は——店を眺めるその目は明らかに、人が大切なものを見つめるときの優しい眼差しをしていた。
(残るべくして残った、ということか)
私は青年の目を見て心中で呟いた。戦火を逃れたのはもちろん運だろうが、それでもその年月を生き続けてきたのはやはり店主たちの愛着があったからこそなのだろう。
「お姉さんは、何故花を買おうと? 先程自宅用と仰おっしゃっていましたが」
青年につられ、店を眺めながら感心しているうちに、花の処置は終わったらしい。手持ち無沙汰となった青年が私に訊いた。
困った。先に言った通り、私は花を買おうとしてここに来たわけではない。
だが、お誂あつらえ向きの理由はないこともない。
「ちょうど、描く対象が欲しかったのです。私は絵描き・・・なので」
私は青年の問いに、特に考え込むこともなくそう答えた。手慣れたものだ。思うに私の職は、こういった時に一番言い訳のしやすい部類である。
「なんと、画家さんでしたか! 初めて見ました」
青年はまじまじと見つめてきた。そう物珍しいものでもなかろうに。流石の私も照れてしまって、誤魔化すために適当なことを口走る。
「店員さんは、ここで働き始めて長いのですか」
「えっ……と、ざっと20年ほどですかね」
「長っ」
なんてことない質問をしたつもりだったのだが、思ってもない返答が返ってきたので私は困惑した。見たところ私とさほど年齢の変わらない青年、といった風貌だが、実際はもう少し歳を重ねているのだろうか。でないと、働き始めの年齢が現実的でないようなものになってしまう。
うーむ、それか経営が身内の者で、それを手伝っていた頃も労働年数として換算しているとか? だとすれば少し暴論な気もする。
あるいは、彼は本当に妖精で不老とか……なんてね。
「あと一応なんですけど……」
「はい?」
青年の言葉によって思考が途切れた。彼はもじもじしながら何か言い足そうとする。私はその先の言葉を待って首を傾げた。
「……僕が、ここの店主マスターです」
えっ。……えっ⁉
……そ
れは失礼。
******
「……いらっしゃい」
彼は入ってきた私の顔を見るなり、その端正な顔を歪めた。まるで「げげっ」とでも言いだしそうな表情だ。失礼な。
「やぁ、おはよう青年・・」
私はそれに対する不満をおくびにも出さず、快活に挨拶をする。
「僕がマスターであることは何度もお伝えしたはずですが」
彼は歪めた表情を整えることもせず、つっけんどんにそう言った。暗に自分のことは〝マスター〟と呼べ、と言っているのだな、と私は察する。
「やだよ、同年代をマスター呼びは。こっ恥ぱずかしくて」
「その理屈なら青年呼びも変でしょう」
それはそう。故に私はそれに反駁はんばくすることをしなかった。さて、改めて店を見渡すと、あるのは相変わらず落ち着いた色調の花々ばかりである。
「う~む、そろそろこの店の花は買いつくしてしまったかな。ねぇ、新しい花の入荷の予定とかはないのかい?」
私が訊くと、青年は呆れた表情を見せる。
「あのね、普通はそんな頻繁に来るものじゃないんですよ。花屋っていうのは。買いつくすなんて言葉初めて聞きました」
そういうものなのだろうか。何せ花屋に入る経験はここ以外にない。因ちなみに、私はこの時三日に一度は必ず訪れて花を買うようにしていた。何度も訪れるうちに、青年の口調は柔らかくなり、同時に私の扱いが悪くなっていった。敬語は外れていないが、それは彼の元来のものであるかららしい。
「おかげで忙しい」
ぼそりとそう呟いた青年に、私はひらひらと手を振る。
「商売としては願ったりだろう。むしろ感謝していただきたいね」
「これでも感謝してますよ……」
「棒読みで言われてもねえ」
言いながら私は、目の前にあった小型の鉢を手に取った。植えられているのは「ドラセナ・フラグランス」だ。既に私の家にもある。独特の形状をした葉が私のお気に入りだった。
どっしりとした太い幹、放射線状に生える葉。ハワイでは、こいつを玄関先に飾るとその家には幸福が訪れる、という言い伝えがあるという。花言葉も、ずばり「幸福」。
青年に教えてもらったことだ。他の花々についても彼は懇切丁寧に詳細を教えてくれた。……私はもう少し、彼に感謝すべきなのかもしれない。
「ま、さっきはああ言ったがね、これでも私はここを気に入っているんだよ。ここで売っている植物も、ここ自体も、実に私好みの色合いをしているからねえ。あれもこれもそれも、皆良い色だ。世話する人が良いんだろうな、うん」
「みんな貴方の家でも元気にやっていますか」
私のお世辞(半分は本音)を華麗に無視し、まるで遠くに行った息子の様子を聞くように青年は言った。実際彼にとって、ここにある植物は子供のような
ものなのかもしれない。
「……勿論だとも。世話は欠かさずやっているよ」
「ほんとかなぁ……絵だけ描いて放置とかしてないでしょうね」
青年は半分上冗談半分本気というような調子で言った。
なので、私も同じ調子で返すことにした。
「信用ないねえ。疑うなら見にくるかい?」
「え? どこに?」
青年はわけが分からないという様子だった。私はニヤリとしてわざと勘違いさせるように言う。
「そりゃあ家に決まっているだろう」
「いや、行きませんよ。なんでわざわざ」
当然ながら怪しい誘いを断ろうとする青年の言葉を手で遮り、私は懐から一枚の紙を出して彼に差し出す。青年は訝いぶかしげにそれを覗き込んだ。
私が取り出したのは名刺だった。そこには私の家の住所が記されている。
——画廊ギャラリーとして。
「理由なら、〝私の絵〟で事足りるんじゃないかい?」
******
「やぁやぁ! いらっしゃいませ」
数日後、インターホンの音を聞き扉へ向かうと、そこには青年が立っていた。青年はどうも、と小声で挨拶した後、扉の横の看板をチラリと見た。そこには、〝どなたもどうかお入りください ——ギャラリー「Rose Red」〟と書かれていた。当然、私が自分で書いたものだ。
「まさか本当にやっているとは……てっきり嘘かと」
青年は困惑の色を顔に浮かべていた。仮に嘘だとしたら、名刺まで作っているのだから相当手が込んでいる。私は苦笑いをしながら青年に中に入るように促した。
「そんなことを言っておきながら、結局ここに来たじゃないか。店はどうしたんだい?」
「今日は休業日です」私の問いに青年は肩をすくめた。「暇じゃないとわざわざ来ませんよ、こんな辺鄙へんぴなとこ」
そう言った彼の目はわかりやすく泳いでいる。まぁ実際彼の言う通り、そのギャラリーはそれほど人が多いわけでもない街の、しかも外れの方にあった。
しかし、そんなところに来たという事実自体がもう答えみたいなものだろう。
「なるほど、好奇心には抗えなかったと」
図星なのか、青年はムッとするも何も言わなかった。それを見て私はふと、私たちは案外似た者同士なのかもしれない、と思った。あの花屋に入った私も、このギャラリーにやってきた青年も、その
行動の源はきっと大して変わらない。もっとも、後にそれを言っても青年には一蹴されたが。
「さて、本来ならお客さんにこんなことは訊かないんだが」
「なんです?」
青年は警戒するように眉をひそめた。もう少しリラックスしてくれないだろうか。流石にこちらも緊張せざるを得ないのだが。
「何から見たい?」
私は努めて笑顔を作って訊いた。問うたのは、花・か絵・かということだ。
青年は少しだけ考えてから答える。
「花たちを、先に」
私は黙って頷き、入り口から歩いてすぐのところにある扉へ案内した。そして、彼に中が見えるように扉を開く。
「ほら、そこに飾ってあるんだ」
「あっ……」
私が指さした先には、今までに買った植物がまとめて、しかし整然と並べられていた。ラナンキュラスにドラセナ、オルレア、ヘリクリサム、そしてカランコエ。他にも派手さこそないが可憐、あるいは美しい木々・花々。それらがミルクホワイトの部屋で、柔らかな反射光をその身にまとっている。青年はそれらに気づくや否や、おずおずと近づいて注意深く眺め始めた。だが、すぐに彼は安堵することになるだろう。植物は彼の店にあった時の美しさを未だ保っていたからだ。私の懸命な献身のおかげで。
「確かに、しっかり手入れされているようですね」
青年の言葉はどこか悔しそうにも聞こえた。
何故だ。私がいい加減な人間でなくて良かっただろう。
「それで、この子たちはもうみんな描いてしまったのですか」
私の心などつゆ知らず、青年は問う。私は鼻息荒く答えた。
「もちろん。私は筆が早いんだ。あれ、この言い方であっているのかな?」
「知りません」青年はにべもなく言った。「その絵は見ることはできますか」
「ああ、できるとも。……ここがどういう場所か分かっていないようだね?」
私が煽るように言った言葉に青年は振り返った。その顔には、少しだけ和らいだ、薄ら笑いが浮かんでいた。良かった。これで少し肩の力を抜ける。
「だって、全ての作品が飾られているとも限らないでしょう?」
「じゃ、私はそこの椅子に座っているから」
私と青年は、ギャラリーの中にいた。壁の色は先の部屋と大して変わらないが、鮮やかな私の作品群によって与えられる部屋の印象は随分違う。私は黙ったまま絵を見つめている彼に、再び呼びかけた。
「それとも、見られると緊張するかい?」
「いえ別に……」
「そう」
青年の生返事に私は溜息をつくと、宣言通り近くの小椅子に座った。
そこからは長かった。
多分、小一時間は黙っていたかと思う。見とれているのか、そういうフリなのか。あるいは、何も考えずボーッとしているのか。いずれにせよ、青年は絵を見ている間、こちらを窺うかがうそぶりはなかった。
あんまりに暇だったので、私は本を読んでいた。……業務中だったなこれ。
「貴方には……こう見えているのですか」
青年の声に私は顔を挙げた。彼は私の絵の一つ——彼の店で買ったラナンキュラスを描いた絵を指差していた。
「質問の意図がよくわからないが」
「いや、この子らの実際の色って、こんなに明るくはないから……」
あぁ、そういうことか。私は青年の言葉を最後まで聞く前に、質問の意図を
理解した。この手の話は、いたるところでしているから慣れている。
「なら違う。私の見えている世界は、多分君と大して変わらない」
「ではつまり」
「言うなれば、〝個性〟というやつだ。私にとっては〝信念〟に近いけどね」
私は椅子から立ち上がり、前へと歩み出た。自分の作品を見ながら、説明を続ける。
「先に断っておくが、私は別に落ち着いた色が嫌いというわけじゃない。むしろ、見るぶんには好きだ。あれらには、あれらにしか持ち得ない美しさがある、と思っている。でないと君の店には通わないよ」
私は黙って聞いている青年の横を通り過ぎ、作品のすぐ前で足を止めた。
「ただ、絵を描くときにそういった落ち着いた色を使おうとすると……どうも気が滅入ってきてしまっていけない。心が引き摺ずられるんだね、使う色に。だから私は、絵を描くときには鮮やかな色しか使わないようにしているんだ」
私は振り返って青年の顔を見た。青年ははたと何かに気づいたような顔をして、視線を私から作品へと戻した。
「こういった鮮やかな絵を描いているから、貴方はいつも陽気なんですね」
言い回しは少々皮肉っぽいが、青年は心底納得したようにそう言った。
私は笑った。
「どうかな、君が知らないだけで私は案外……」
暗い人間だよ。出かかった言葉を私はすんでのところで飲みこんだ。こういうことを口に出すから、余計に酷いことになるんだ。いけない、いけない。
青年の方を見ると、こちらを不思議そうな顔で見ていた。変なところで会話を切り上げてしまったからだろう。私は肩をすくめて誤魔化した。
「なんでもない」
青年は一瞬腑に落ちない顔をしたが、それに言及することはなかった。代わりにしばらく考えるようなそぶりを見せた後、ラナンキュラスの絵を再び指差してこう言った。
「これ、いただけますか」
沈黙が流れる。え、売っているんですよね? と青年が不安げに訊くので私は頷く。困惑している青年に、確認するように私は訊き返した。
「別に私は強制していないよ?」
要するに、本当に買ってくれるとは思っていなかったのだった。
青年は顔をしかめた。
「欲しいから買うんですよ。買わないと気まずいとか、そんなことを言っていられる関係ではないでしょう」
どうやら本当のことらしかった。青年に悟られないように、ほっと息をつく。
「ふふ、初めてのお客さんに買ってもらえるとは、幸先が良いね」
「え、僕が最初の客だったんですか」
事実である。それでよくあんなに花を買えたな、とでも言わんばかりの(と言うか後に本当に言った)顔をして、青年が驚くのもやむなしか。
「これでも貯蓄はある方なんだ」
絵を包みながら私は言った。この前に住んでいた国では絵の評判が良く、そこで稼いだ分がまだまだ残っていたのだった。もっとも、おかげで描きたくもない絵を描かされたりもしたが。それは今語ることでもあるまい。
この国にやってきてからは、青年に言った通り客一人捕まえられていなかったが、私はその頃はさほど悲観していなかった。以前の場所は都会の只中にあって、人目によくつくところだった。それに対して、この時の住居兼ギャラリーは先に言ったような場所にあったので、こうなると予想することは容易であった。
しかし、どうやらこの国の民にはゆっくり絵を見る余裕もないことが分かってきたし、そろそろ余裕がなくなってくるかもしれないな、というぼんやりした危機感が私の中に生まれだしたところで思考を止める。どうもこういうことを考え出すと、目の前のことをほっぽりだしてしまって良くない。しまった、目の前にいる青年をほっぽっていた、と気づいた私は青年の方を見る。
青年はじっと押し黙ったままだった。何か言いたげな彼にどうしたのか問うと、彼は少しだけ逡巡しゅんじゅんした後、言った。
「……店が地味すぎて、気づかれていないんじゃ?」
「君にだけは言われたくないが?」
******
「やぁ! また来たよ、青年」
「雑談をしに、ですか?」
私の快活な挨拶に、青年は振り返ることもしなかった。もはや私も、それに対して不快感をおぼえることはない。
「いいや、今日はちゃんと花目当てだ」
「へぇ」青年はようやくこちらに少し興味を持ったらしく、ゆっくりと振り返った。「どの子です?」
そのとき、喉が詰まるような感覚がして、私は一瞬言葉を発することができなかった。
それは、青年の顔を見たせいだ。
彼の顔は何というか……そう、元気がなかった。明らかに表情は暗いし、疲れているように見える。この様子だとあまり眠れていないのではなかろうか。彼がここまでの顔を見せたことはなかった。綺麗だった瞳も、その日はどこか澱よどんで見えていた。
ただ、私はその理由を彼に訊くことはしなかった。
「……そこの、ヘリクリサムを一輪」私の声は少し掠かすれていたように思う。「実は、前に買ったものが私の不手際か枯れてしまってね。あれは申し訳ないことをした」
「寒さにやられてしまったのでしょう。ヘリクリサムは耐寒性に欠けるので。多分、貴方のせいではない」
青年は花を一輪取って、いつもの処置をしながら淡々と述べた。確かに近頃めっきり寒くなったな、と私は一人で納得していた。
「それで、二つほど君に尋ねたいことがあるんだが」
「聞きましょう」
「まず一つ。私は今回この花をドライフラワーにしようと思うのだが、心得はあったりしないかな?」
青年はキョトンとするように、少しだけ目を見開いた。
「ドライフラワーですか。確かに、ヘリクリサムは色落ちしにくいから、向いていますね。心得なら勿論ありますが、何故急に?」
「……少しでも長く、傍にいてほしいから、さ」
私は微笑んだ。青年は特に表情を変えることはなく、ただ私の方を見ていた。納得したのかどうか分からないが、取り敢えず無視して私は質問を続ける。
「それで、二つ目なんだが」
「はい」
私は懐から一枚の紙を取り出した。それは新聞の見出しだった。
「君はこれからどうするんだい?」
そこには、私たちのいた国と他国との間で、戦争が勃発した・・・・・・・ことを知らせる記事が載っていた。
私が住んでいたその国は、ずっと情勢が不安定だった。先に言った通り、この120年の間にも二度戦争を経験している。しかも長い、苦しい戦争だ。数多の街が戦火に覆われ、多くの国民が傷つき死んでいった。私の住んでいたその時すら、一つ前の戦争の被害からようやく立ち直ったところだったのだ。今回の戦争も、それらと同類であるのは明らかだった。
私はもうこの国に見切りをつけていた。初めのうちは、深く傷つき荒すさんでしまった人々にこそ、私の鮮やかな色が必要になると思っていた。だが、人々はそれを受け入れる余裕もないのだ。であれば、私がこの国にいる意味はない。もとより、私は各地をさすらう絵描きだ。理由がなければ留まる必要などないだろう。それに、私以外にもこの国を飛び出していった人は沢山いた。
ただ、一つ気になっていたのはこの青年の行く末だ。この国に来て一番関わりがあったのは彼だった。歴代のマスターから引き継いできたであろうあの店を、彼は手放せるのか?
「貴方は、この国を去るのですね?」
私の問いに対し、青年はしばらくの沈黙の後にそう言った。私は代金を手渡しながら呟く。
「何故そう思った?」
「常連さんの一人が、ここを去るときに同じようにヘリクリサムを買っていったので」
そう言って青年は寂しげに笑った。その顔は、どこか諦めているようにも見えた。
「……まぁ、君はここを離れないんだろうな、とは何となく思っていたよ」
「画家さん。僕はね、ここしか知らないんですよ」青年は花を見ていた。「前の戦争のとき、戦いに行く父からこの店を託されてこのかた、私はずっとここで花と生きてきました。ここではないどこかで、生きていくイメージが全く湧かない。それに——」
まだここにいる常連さんもいますし、と言って青年は笑った。最後の言い方だけが冗談めいていたところを見るに、そこはきっと重要ではないのだろう。
……私
に彼をここから連れ出す権利はない。
「では、ここでお別れか、君とは」
私は噛みしめるように言った。
「今まで沢山買っていただいて、お世話になりました」
「礼を言うのは私の方だよ! 今までありがとう」
青年が手を差し出したので、私は反射的にそれを握り、礼を述べた。彼との会話の中で、一番素直なものだった気がする。
私は花を胸に抱え、青年に背を向けた。そして出口へ向かい、扉に手をかけた時だった。
「画家さん!」
青年の声に振り返る。彼はさっきの位置から動いていなかった。
「一つ、頼まれてください。仕事の依頼・・・・・を」
「聴こう」
真剣な眼差し。私は即答した。青年は少し安堵したような笑顔を見せた。
「この戦争が終わって、国が落ち着いたら、ここに来て僕の絵を描いてくれませんか? また見せて下さい。貴方の鮮やかな色を」
お互い、生きていたらまた会いましょう。必ず。
彼はそう言いたいのだろう、と私は思った。
「いいよ」私は久々ににこりと笑った。「約束だ」
私は青年に見せるように拳を掲げ、その小指だけをピンと立てた。
「……! ええ!」
青年はこちらに歩いてきて、彼の小指と私の小指がしかと結ばれる。指切りげんまん。
彼の顔にはその日一番の笑顔が浮かんでいた。
……と
、これが彼との約束だ。
戦争はとうに終わった。約束を果たさなければならない。
後編.
HIRAESH
隣国に到着した。鉄道を乗り継ぎ、件の街の近くで降りる。街は以前よりずっと静かで、まるで泣いているかのような悲壮感に溢れていた。
例の場所へ向かっていると、雨が降り始めた。……雨と言っても、傘をさすほどでもない霧雨だ。しかし私はこれくらいの強さの雨を一番苦手としている。冷たい風は簡単に雨向きを変え、薄墨色の空から落ちる雨は肌に微細な刺激を与えてくる。これが嫌だ。
歩みが遅くなる。これは雨のせいだと思っていたのだが、何かがおかしい。
まるで思い出のあの場所へ向かうことを、体が拒んでいるかのようなのだ。
抗うようにして歩みを続けながら、私は考える。いや実際には、考えるまでもなく、何故歩みが遅いのか直感で分かる。
——怖
い・・。
約束を交わした親友たちは、私がそれを忘れている間に皆死んだ。
あの日祖父と見た浜辺は爆撃によっていたるところが抉れ、今は死体が積みあがっている。忘れたくなかったあの景色はもう臨めそうにない。
あの場所に近づくにつれ、周りに積みあがった瓦礫がれきが増えていく。あれほど街に溢れていた緑は一つもない。
そして——。
「これが運命か?」
私は呆然と呟く。
私は瓦礫の上に立っている。そして、この場所は間違いなくあの花屋のあった場所だ。ということは、この足元の瓦礫は全て……。
恐る恐る、下に視線を向ける。濁ったチャコールグレイの瓦礫の隙間から、萎しなびた何かの葉が見える。私は思わず少し後ずさっていた。
残骸から元の姿を連想することは不可能だ。何せ全てが煤すすけ、色褪あせている。ただ唯一、あのシグナルレッドのポストだけは、ボロボロになりながらも原型は辛うじて留めて立っていた。
しかし逆に、ポストによって私は完全に察してしまった。あの場所はもう、なくなってしまったのだと。
「あるいは罰か……忘れて平然と生きていた私への」
私は自嘲の笑みを浮かべる。怒りもあった。誰に対してかは知らない。
青年はどうなったろうか。
ここを去ったのか。あるいは共にこの世から朽ちてしまったのか。
青年の性格からして、以前言っていたことは彼の信念のようなもののはずだ。そう簡単に曲げるとは思えない。それにきっと、私が思っている以上の思いが込められていたはずだ。
でも、それを曲げていたとしても、私は怒らない。誰も怒らないのだから、願わくば、曲げてでも生きていてほしい。
……叶
わない願いだろうか。
「まぁでも」
私は旅行鞄を開き、仕事道具を次々と取り出す。
「約束は約束だ」
瓦礫の上に画架イーゼルを立てる。キャンバスを、祈りのようなものを込めながら、そこに置く。
「筆を執るのも久々だな。腕が鈍なまっていなければ良いんだが」
独り言を垂れ流しながら、筆、パレットを手に持って、椅子に座る。雨も、きっとこの程度なら描くことには支障ないだろう。
「贖罪には……ならないだろうね」
私はキャンバスの白地に語りかけていた。まるでそこにあの頃の彼がいるかのように。
「でも、必要なことなんだ」
罪を背負って、それでもなお生きていくために。
******
絵が完成したのは、ちょうど日が一周したところだった。ご心配なく。終日、絵にかかりきりになるのには慣れている。もっとも、かかりきりと言うには、あまりに私の心は色んなものに苛まれすぎていた。
最後の工程は、魂を込めるような、彼の瞳に光を灯す作業。それをやり遂げ、私は大きく息をつく。
目の前には青年がいた。あの店の落ち着いた色調の内装。彼を取り囲むように置かれた花々。そして彼自身が、私のこれまでで最も繊細とも言える筆致で現れていた。
だがそれは期待通りのものではなかった。
何故ならば、どれだけ繊細に描かれた絵であろうと、〝鮮やか〟でなければ私たち・・・には意味がないからだ。特に私にとって鮮烈だったあの髪のオレンジを、キャンバス上におこせない自分が不甲斐なかった。
私の手によって描かれた彼の姿は——酷く澱よどんで見えた。
十数年の月日は、国やこの場所だけではなく、私も変えてしまった。暗く重苦しい世の中にさらされ続けた私の筆は徐々に明るさを失い、私は鮮やかな絵をいつの間にか描けなくなっていた。
自分の信念に従った絵を描けなくなった後も、私は筆を手放さなかった。変わってしまった自分の絵にも、良いところはあると考え、手を動かし続けた。しかし、変わってしまった私の〝色〟は確実に私の心を蝕むしばんでいった。
今描いた絵は、確実に私の十数年を吸収したものだった。私は、よりにもよって青年の絵にそれを反映してしまったことに、耐え難い嫌悪感を抱いていた。
まるで彼との思い出が色褪せてしまったように思われて。
「違う」鼻が詰まったような声が漏れる。「彼が求めていた絵は、こんなものでは——!」
気づけば私は、手に持っていた絵の具を目の前の絵に叩きつけていた。たちまち、調和のとれていた絵の均衡が崩れる。だが私はそれを気にかけることはない。自分の考えを否定するように、手当たり次第に色をキャンバスにぶつけていく。
何でも良い。何でも良いから鮮やかな色を見せてくれ。今の私には眩しすぎるくらいの、そんな色を。
私の祈りは届かず、色が混ざり合ったキャンバスは、どす黒く不気味な色を見せている。呑みこまれた青年の絵はもう二度と現れることはないだろう。
その内、絵の具を叩きつける私の手は止まり、気がつくとキャンバス上には色の死体が積みあがっていた。私はもはや愕然がくぜんとすることもなく、手に持っていた道具を取り落とした。持ち直す気にはならない。
私は瓦礫の上に膝をついた。その膝の上に、水滴が一粒、二粒と落ちる。
雨脚は強まりそうにない。私はそれに怒りを向けることもできなかった。
******
顔を上げる。いつまでも俯うつむいているわけにはいかない。私には、この街と共に朽ちていくことも許されない。生きていかなければ。
だが、今この身に強く焼き付いている後悔や不甲斐なさと共に、私は生きていけるのか?
絶望感とすら呼べる重苦しい感情のまま、私はキャンバスを見た。
その時だった。
「……何だ?」
キャンバスに異常が生じていた。明らかな異常だ。
だって、ほとんど黒のような重たい色に染められたキャンバス。その中央に、鮮烈な赤がいつの間にかポツリと灯っている。私の描けなかった、鮮やかな色。
「この色は——」
シグナルレッド。
導かれるかのように、私はただ一つ残っているポストを見た・・・・・・・・・・・・・・・。
「まさかね」
ありえない。そんな確信とは裏腹に、私はポストへと近づいていく。それは半ば縋すがるようなものだった。
焼け焦げ、少し曲がった受け取り口。それを私は、力任せに引っ張る。
——果
たしてそこには、場違いな白い手紙が一つだけ納められていた。
明らかに、この場所が戦火に巻き込まれた後に入れられた物。手に取って眺めてみると、裏面には手書きで「画家さんへ」と書かれていた。彼の筆跡は知らない。ましてや、これが私に向けたものだという根拠もない。だが……。
震える手で、しかし迷わず、私は手紙の封を切った。便箋を取り出し、一息に開く。
〝——画家さんへ(ご安心を。お客さんで絵を描くのは貴方だけです)。〟
……一
気に肩の力が抜けた。そして、大きく、大きく息を吐いた。
良かった。その事実だけで、私には充分だ。充分だとも。
私は思わず少し笑ってしまった。そして、シャツの袖で瞼まぶたをこすった。
一瞬満足しかけたが、ハッとして頭を振る。早く続きを読まなければ。
〝——最初に。ポストの中に他の手紙が入っていたなら、できれば開けずに置いておいてください。貴方宛のものではありませんから。なければこの文は気にしないでください——〟
察するに、彼が言っていた馴染みの客は、私以外は既に訪ねてきていたらしい。罪悪感が胸に湧き上がってくる。
〝——これは遺書ではありません。僕は今も生きていますし、これからも、頑張って生き延びていくつもりです。
別れの時にあんなことを言っておいてなんだ、という話ですが、言い訳するつもりはありません。謝るつもりもありません——〟
罪悪感はどこかへ吹き飛んだ。なんだ、結構元気そうじゃないか。あの頃の彼のままだ。センチメンタルな私を返してくれ。
〝——ただ、謝らなければならないことは一つだけあります——〟
何だい。
〝——それは、貴方と交わした約束を果たすことができないことです——〟
……。
〝——いや、この書き方は卑怯ですね。あの約束は、僕からもちかけたもの。だから、僕からそれを破棄するというのは、あまりに身勝手すぎる。そう思ってこう書きましたが、貴方相手に建前は駄目だ。
誤解を恐れずに言います。僕はもうその場所に戻りたくないのです。そして、貴方にも会いたくないのです。
貴方が嫌いになったわけではありません。僕があの場所を嫌いになりようがないことは、貴方の知るところでしょう。
では理由は何か。それは、あの場所での貴方との思い出が、今の僕にとっては耐え難いものであるからです。
重ねて述べますが、貴方のことは嫌いではありません。むしろ、あの頃の思い出は、ずっと輝かしい……今の僕を焼くほどに。
ここに詳しく書くつもりはありませんが、この戦争中、僕には色んなことが起こりすぎました。今の僕は、あの頃のような心持ちでは到底いられない。
貴方には、僕のようなことが起こっていないことを祈ります。貴方は自由に
自分の絵をのびのびと描いているのが似合う。……まぁこのご時世では届かぬ祈りかもしれませんが。
ともかく、僕はあの約束を果たすには、あまりに変わってしまったのです。念のため、これから僕がどこでどう生きていくのか、ここには書きません。
身勝手なこととは思いますが、お許しください。実を言えば、この手紙を書いている最中も、僕はまるであの頃に戻っているかのようでした。手紙だけでこの始末です。実際に会ってしまった時にはもう……。
それに、貴方の絵は、きっと今の僕には眩しすぎるだろうから——〟
「いや、私も随分と暗い絵を描くようになったよ、マスター・・・・」
私は思わず呟いていた。その言葉は彼に届くことはない。届かない方が良い。
青年の言葉には同感だ。私も、彼の自筆の言葉に随分と心をかき乱された。この十数年では起こりえなかった感情の動きだ。
私たちは、もう会ってはいけない。お互いを、思い出の中に閉じ込めて、これからを生きていく。そう、すべきだと思う。
私たち二人ともがこれからを生きようとしていることが、きっと一番幸運なことなのだ。
家に帰ろう。
私は手紙を丁寧に畳み、懐にしまった。さてと、出しっぱなしの仕事道具を片付けなければ。随分と散らかしてしまった。
イーゼルからキャンバスを外そうとして、ふと気づく。
真ん中のシグナルレッドはいつの間にか褪せてしまったのか、私がどう頑張っても出せなかったあのオレンジ・・・・・・へとその色を変えていた。
HIRAESH(ヒラエス):
帰ることができない場所、失った場所や永遠に存在しない場所への、郷愁と哀切の気持ち。ウェールズ語。(『翻訳できない世界のことば』より)
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