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罪悪の町


「蝉って、土の中で何年も暮らして、地上に出たら七日で死んじゃうんだよね」

 こちらに背を向けて、砂をさくさくと踏みながら、彼女は言った。

「それに比べたら、人間は地上でいくらでも過ごせるんだから。朝顔も育てられるし、お祭りにも行ける。こうやって、海を見に来ることだってできる。贅沢な話だと思わない?」

 足を止め、彼女は振り返った。白いワンピースがひらりと翻る。雲間から差した光が黒髪を照らした。

「なんで立ち止まってるの。こっち来なよ」

 破顔する彼女に対し、私はぎこちない笑みを返した。緩慢に歩みを進め、彼女に近づく。つい先ほどまで、心地良い海風に重みを奪われていた足の動きは、今はいつになく鈍かった。一歩ごと、深い足跡が砂浜に刻まれた。

 仕方のないことである。私は今、人殺しと対面しているのだから。


 この夏、短いながらも休暇を得た私は、久方ぶりに里帰りをしていた。太平洋に近い田舎町。近頃はあまり触っていなかったハンドルを握り、数時間かけて実家に帰省した。以前より皺が増えた気がしないでもない両親に土産物を渡し、何杯か酒を飲み、翌朝早くに叩き起こされて犬の散歩に出かけた。年の割に元気のある老犬を連れて、かつての通学路などを辿っていた時、ある道の前に来たところで、ふと足が止まった。

 その道は、住宅街の端から小高い丘の上へと伸びていた。生い茂る林に挟まれて、丘の向こうに繋がっているようである。実家から犬の散歩で来られる程度の距離にもかかわらず、私はその道をこれまで認識したことがなく、当然、その先に何があるのかも分からなかった。

 少し興味が湧いた私は、犬を実家に連れ帰ったのち、自転車を借りてその道の先へ行ってみることにした。少年期を過ごした土地に帰り、軽く冒険とでも洒落込みたい気分になっていたのである。とはいえ、それほど大したものがあるとは思っていなかった。地元に己の知らない道があるという奇妙さが私の関心を惹いたわけだが、単に私が地元を離れて以降に作られただけのことかもしれない。また、知らぬ道が知った場所に繋がるというのもよくあることだ。多少朝の風を浴びたならすぐに帰るつもりであった。

 しかし、両の太腿に鞭打って丘を登り切った私を迎えたのは、予想に反し抒情的な海沿いの町の光景だった。そう、そこからの眺望はいやに私の胸を打った。きらめく青海と砂浜で隔てられ、あまり新しくはなさそうな、けれど風情のある家々が慎ましやかに立ち並んでいた。海鳥の声と混じって、子供たちの遊ぶ声が遠くに聞こえた。地元の近くにありながら、それが未だ訪れたことのない町であることには間違いなかったが、同時に私はある種の懐かしさを伴う趣を感じていた。

 見覚えのない美しい町を目の当たりにして、私の好奇心は強くかき立てられた。私は自転車を再び漕ぎ出し、丘を下って街並みの中に入った。しばしば平屋の交じる家々の間を縫い、塀の上で欠伸をするキジトラを視界の端に見送った。清新な空気が皮膚を通過し、私の感受性を優しく撫でた。

 やがて住宅街を抜け、私は海岸沿いの道へと出た。道の端にはコンクリートの低い段があったが、途中に階段が付いており、砂浜に下りられるようになっていた。特に躊躇することもなく、私は自転車を段の脇に停め、その階段へ足を向けた。

 砂浜には波が穏やかに寄せていた。その音を噛みしめるように聴きながら、私は視線を雲の多い空へ、あるいは平滑な海原へ、あるいは足下の貝殻やシーグラスへ投げた。浜にはまた、ところどころに小さな穴が開いており、豆粒のような蟹が時折そこを出入りしていた。とても俊敏な動きを見せるそれを、どうにか捕まえることはできまいかと、私は穴の前に屈み込んだ。

「何をしてるの?」

 鈴の音のような声を背後に聞いたのは、その時だった。

 屈んだ姿勢のまま振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。肩ほどで切り揃えられた黒髪に、白いワンピース。あどけなさを残した顔立ちを見るに、年の頃は十代後半といったところか。茶色がかった瞳は何の他意もなく、ただ純粋な疑問を宿して私を見つめていた。

「いや、ここをうろちょろしてる蟹を捕まえられないかと思ってね」

 そのためだろうか、私は幼い振る舞いを何ら恥じることなく、彼女の質問に返答した。

「それはちょっと無理じゃないかな。あいつら、あんまりすばしっこいもの」

「うん、確かに難しそうだ。大人しく諦めることにするよ」

 立ち上がる私の横を通り、少女は私の前方に来た。そこで気が付いたのだが、彼女はサンダルも何も履かず、剥き出しの足で砂を踏んでいた。

「君は、靴はどうしたんだ?」

「靴? どうしたっけ……忘れちゃった」

 忘れたとは、と私は尋ねかけ、止めた。あっけらかんとした少女を前に、そんなことはどうでもよかろうと思われたからであった。ここは砂浜なのだ、裸足の方が自然なぐらいだろう。

「お兄さんは、海を見に来たの?」

「まあ、そうだね。海岸まで来たら、何だか海に近づきたくなって。昔は海なんて何とも思わなかったんだけれど」

「海は良いものだからね。お兄さんの気持ち、分かるよ。ま、わたしは生まれた時から知ってるけど」

 歌うように喋りながら、少女は波打ち際に沿って進んでいった。言葉を交わしつつ、私もその後を追った。

「砂も石も骨も、海は何もかもさらってくれるよ。どんなにごちゃごちゃしてたってお構いなしに。そんなものって他にないでしょ?」

「だから君は海が好きなのか?」

「うん。陸は何でも色々ありすぎるから。海がなかったら窮屈で死んじゃうよ。お兄さんは違う?」

「どうだろう……。死ぬかは分からないけれど、確かに窮屈ではあるかもしれない」

「そうでしょう。そうだよね」

 とりとめのない話をしながら、私たちは砂浜をゆっくりと歩いた。普段の私は見ず知らずの人間とあまり積極的に会話をする質ではない。それがこれほど心穏やかに話すことができたのは、一つにはこの町の雰囲気に少し浮足立っていたためであり、また一つには少女の半ば浮世離れした振る舞いのためであった。心地良い非日常性が、私の外殻をふやかした。

 純白の装いもあいまって、軽やかに歩く少女の姿は、私の目に恐ろしく無垢なものと映った。塵にまみれたこの世において、その穢れの欠如はもはや非実在的であった。どれほど言葉をやり取りしても、彼女に十分な質量を感じ取ることはできず、むしろ宙を泳ぐようなその言葉が彼女をますます透明にした。もし腕を伸ばしたとして、この指先は彼女をするりと透過してしまうような気さえした。


 だから私は、つい魔が差して。

 右の瞼を下ろしてしまった。


 いつごろからかは分からないが、私は少し変わった力を持っていた。左目だけで他人を見ると、その周囲に靄のようなものが見えるのだ。この靄は人間を見た時に限り出現し、また相手によって必ずしも一様ではなかった。色はおおよそ薄青から紫、密度もごく薄いものから濃いものまで様々であった。

 幼いころはそれが何なのかさっぱり分からなかったが、成長と共に、私は段々とその差異の由来するところを理解していった。その靄は、相手がこれまでに犯した罪を表していた。より多く、より重い罪を犯した者ほど、靄の色は暗く、密度は高くなる。ほんの小さな、両手に収まるほどしか嘘を吐いたことのない子供であれば、靄は淡い水色で、身体の周囲にまだらに浮かぶ程度である。だが、何人もの敵対者を陥れ、権力の座に着いた老人ともなれば、よどんだ紫の靄が全身に纏わりつく。相手の言動や評判に一切関係なく、靄は人間の悪徳を暴き出した。

 そのことを理解した思春期の私は、他人に会うと必ず右目を瞑るようになった。罪という、誰であれ公にはしたくない情報を把握することで、ある種の優越感を愉しんでいたのだ。そうして、下卑た快楽に欲望のまま耽溺し尽くして──やがて私は、その能力を封印した。

 他人の不善を知るという行為は、私の精神を徐々に疲れさせた。人がなぜ悪事を隠すのかといえば、それが醜いから隠すのである。刹那的な快感はあれど、醜いものを見続けて気分がよくなる道理はない。特に、親や友人、恋人などが纏う靄は、私の心を強く害した。どれほど善良な人物であろうと、生まれたての赤ん坊でもない限り、靄は必ず存在する。それが格段に濃くはなくとも、自らに近しい人々にも悪が存在する事実、それを突きつけられること自体が中々にこたえた。一時は依存症のような状態に陥っており、厭だと思いつつ右目を瞑ることを止められなかったが、必死の努力を経て、私は何とか靄を視界から消し去った。

 それが、十年以上前の話である。以来、私は左目だけで人を見ることはなくなった。かつて人の業を見続けたために、若干の人間不信のきらいは残ってしまったが、それでも何とか社会に適応し、それなりに真っ当な生活を送っていた。そして、その生活の流れの中で実家に帰省し、見知らぬ道にいざなわれ、ふらふらと海に近づいたところで、この少女は私の前に現れたのだった。

 私の二つの眼球の前で、少女はひどく純粋に見えた。どれだけ目を凝らしても、そこに汚穢を見出すことはできなかった。だから、私はつい、夢想してしまった。あるいはこの少女なら、半分欠けた世界でも、靄を纏うことはないのではないかと。

 ──その期待は、最も劇的な形で裏切られた。

「ひっ」

 私の口から漏れた声に、少女はこちらを振り返った。

「ん? どうしたの?」

「い、いや……何でもない」

 そうはぐらかしながらも、私は声の震えを止められなかった。思わず開いてしまった右目を、私は祈るように閉じ直した。


 左目だけで見た少女は、頭から爪先まで、暗黒の靄に覆われていた。


 それを靄と呼ぶのはあまり適当でなかった。可能な限り凝集したその粒子は、わずかに揺らぎつつもほとんど固体のようであった。きらめく緑の黒髪も、澄んだ褐色の瞳も、眩しい白のワンピースも、彼女を構成するあらゆる要素がおぞましい濁色に塗り潰されていた。それは、平面を脱出した影にも見えた。

 異様なさまに変じた少女を眺めながら、私はいつか見たニュース映像を思い出していた。そこに映っていた殺人事件の容疑者も、今の彼女と同じように、汚れた黒い靄を周囲に漂わせていた。これまで黒い靄を見たのはそれ一度きりである。その容疑者の男とて、これほどまでに大量の、高密度の靄を纏ってはいなかった。

 自らの眼前にいる少女は人殺しか、あるいはそれ以上の大罪人である。認めがたいが認めざるを得ないその事実は、全身の神経を毒めいて巡り、痺れに似た感覚を四肢にもたらした。

「なんで立ち止まってるの。こっち来なよ」

 再び開かれた視界において、少女は先と変わらず屈託のない笑顔を浮かべる。けれど、それを純真無垢の表象として見ることは、もはや私には不可能だった。むしろその裏側に佇む姿との乖離から、左目だけで見ていた時よりも一層忌まわしく感じられた。

 人殺しを前にして、下手な振る舞いはできない。うっかり逆鱗にでも触れたなら、新たな犠牲者は私になるかもしれないのだ。身体を震わす恐怖を必死に隠しながら、私は牛の歩みで少女に近づいた。

「何か、見つけた?」

 そんな私に、少女は唐突に問うた。私は足を止めてしまった。

「……どういう、意味かな」

「さっきまでと違って見えるから。何かをすごく怖がってるみたい。怖いものでも見つけたの?」

「別に、そんな……そんなことはないけれど。怖いものなんて、ここにはないだろう。それとも、何かあるのか?」

「う~ん……?」

 言ってから、私は自らの発言を悔いた。どうしてそんな、挑発じみた質問をしてしまったのか。少女は答えを留保したまま、私の方に接近してきた。光の下から雲の影に入り、また光の中に出ると、彼女は顔をずいと寄せてきた。私はあとずさりそうになるのを強いて堪えた。

「……わかんないや」

 そう彼女は微笑み、くるりとこちらに背を向けた。

 彼女が再度影に入るのと、私が駆け出すのが同時だった。

 道路に繋がる階段を目指し、私は全力で走った。砂浜は走りづらく、一度バランスを崩しかけたが何とか耐えた。階段に辿り着くと勢いのままに上った。道路に着いても自転車には乗らず、海沿いから離れる道を無我夢中で走った。決して、後ろを見ることはなかった。

 息が持たなくなってきたところで、比較的人通りのある商店街に出た。私はふらふらと減速し、倒れるように店の壁に寄りかかった。来た方向に顔だけを向けるが、少女が追ってくる様子はなかった。ひとまず、私は深呼吸をした。汗がだらだらと流れ、心臓がばくばくと鳴っていた。

「あの、あんた、大丈夫か?」

 尋常でない様子の私を気にかけ、前を通りかかった一人の老人が声をかけてきた。奥を歩く親子連れにも、訝しげな視線を向けられていた。

「だっ、大丈夫です……」

 私は声にならぬ言葉を返し、壁に手をついて姿勢を直そうとした。その時、額から流れた汗が右目に侵入した。反射的に、私は右目を瞑った。

 その瞬間、老人が黒に包まれた。

「ぁ、ぁあっ⁉」

 頓狂な声を上げて、私はのけぞった。近づいてくる老人を払いのけ、逃げるように走り出した。力の入らない足を無理に動かしながら、私はまたも右目を閉じた。老人だけではない。奥の親子も、小太りの中年女性も、日に焼けた青年も。道行く人全てが、あの少女同様、全身を黒い靄に包まれていた。

 半狂乱で私は走った。人間のいない世界を死に物狂いで駆けた。背丈も様々な靄の塊の間を走って、走って、走って、走って、転んだ。

 そこはちょうど、商店街の入り口だった。頭から転倒した私は、地面を押して顔を上げた。頭上には、こう書かれた垂れ幕が下がっていた。


『ようこそ 皆殺市(みなごろし)商店街へ!』


 
 
 

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