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私へ

更新日:5月6日



『私へ』_ double quarter (2024 NF)


「大人になったわたしへ

一昨日わたしのおじいちゃんがなくなりました。わたしは今とても悲しくてこわいです。悲しいのは大好きなおじいちゃんがいなくなってしまったからで、こわいのは同じようにみんながいなくなるかもしれないことです。

ずっと悲しいのもいやです。でもこの悲しいのをわすれちゃうかもしれないのもこわいです。大人はみんな大おうじょうだったって言うけど、わたしはもっと生きていてほしかったと思います。来年もまたいっしょに遊びたかったです。

大人になったわたしは、まだおじいちゃんのことを思い出しますか。まだ悲しいと感じていますか。わすれたらどうすればいいですか。これからまただれかいなくなったらどうしたらいいですか。

今のわたしは大人のわたしのお返事を読めないけど、大人になるまでに答えがわかっていますように」

引き出しのお菓子の缶に入っていた手紙を読むと、当時の記憶が蘇る。子供っぽく、まとまりのない文章だ。だが、だからこそ当時の私の動揺と迷いが手に取るように伝わってくる。私はあのとき初めて経験した身近な人の死というものにどうしようもない悲しみを抱いたのを覚えている。

祖父の十三回忌兼お盆で久しぶりに実家に帰ってきた私は、自分の部屋の片付けをしているうちに、懐かしいものが沢山でてきてついそっちに夢中になっていた。昔使っていた勉強机の引き出しには、宝物だったおもちゃや、綺麗な石や、お菓子の缶などが入っていた。タイムカプセル代わりにお菓子の缶に未来の自分への手紙や何かを入れていたのを、缶を開けてみてから思い出した。

私が小学四年生のときだった。ある日、祖父が亡くなった。死因は老衰だった。いわ

ゆる天寿を全うした形だ。祖父は亡くなる前日まで元気に仕事をしていた。そしてその翌朝、突然ベッドから起きてこなかった。私は祖父のことが大好きだった。だから子供の私はその死をとても悲しんだ。

手紙の上に目を滑らせていると、「大おうじょう」という言葉が目に留まる。私の両親や親戚の大人たちは、みなそろって「大往生だった」と口にしたのを覚えている。今になればその通りだと頷ける。だが当時の私は、その言葉がなんだか祖父の死を仕方ないことだったとしてしまうような気がして嫌だった。

大往生だった、なんてなんで私たちが決めるんだ。十分長生きしたからって死んで良いはずなんてないじゃないか。当時の私は明確に表現できるだけの言葉を持ち合わせていなかったが、今思えばこんな気持ちだったのだろう。

そんな私も、お葬式が終わる頃には学校に行く気力が出るくらいにはなった。否、なってしまった、と当時の私には思えた。悲しめなくなっていくことが悲しかった。でもお母さんは「私が悲しみ続けたらおじいちゃんも悲しむ」と言ってきた。納得はしきれなかったけど、それを免罪符のようにして、私は日常に戻っていった。

今の私は、どうだろうか。手紙に書かれていたことは何も解決しないまま、ただ時間によって感情は風化してしまった。良く言えば時間が傷を癒やしてくれた、悪く言えば薄れていった。そんな気がする。結局私はあの日の私への答えを持たないまま、表面的に達観したような大人になってしまった。涙で

しわになったのであろう紙の端は、なぜあのときの気持ちを忘れてしまったのかと今の私に突きつけるかのようだった。

「夕飯できたよー」

一階から母が呼ぶ声が聞こえる。私は「はーい」と返事をしながら手紙を元の缶にしまい込む。

「いただきます」

私と両親と祖母の四人で食卓を囲む。久しぶりに家族全員がそろった。もっともいつもいないのは東京で就職した私くらいなのだが。

「仕事は最近どう?」

母がさりげなくこちらの様子を探りに来る。高校生くらいの頃は学校のことを頻繁に心配されるのを嫌がっていたせいか、未だに母はさりげない風を装って最近のことを聞いてくる。今の私は母が心配する気持ちを優しさと受け止められるつもりだが、母の中で私はまだ高校生なのかもしれない。

「そんなに変わったことはないよ。まだ知らないことばかりだけど、社会人生活ってやつには慣れてきたかな」

「そう、無理とかしてない?」

「うん、大丈夫。ちゃんと健康には気を使ってるよ。一人暮らしなんて大学生からしてるんだから」

「そう……それならいいんだけど」

何を言っても心配そうな母に私は苦笑いしつつ、夕飯の回鍋肉を口に運ぶ。美味しい。自分で作ってもこうはならないのは不思議だ。

「母さんは相変わらず心配性だなぁ」

父も心配しすぎだと笑い飛ばす。

「お父さんが心配しなさすぎよ」

「まあ心配してないわけじゃないけどさ、香ももう二十四歳で立派な社会人なんだから」

「……そっか、もう二十四歳になるのね」

母は食事の手を止め私をまじまじと見る。

「私ったら、いつまで経っても香がまだ高校生くらいの感覚でいるのよね」

「そうね。私はいつになっても思い浮かぶのは小学校のときの恰好だわ」

祖母も同意するように言った。私は

曖昧に頷く。私自身もあまり自分が大人になったという実感がない。……結婚したり子供をもったりしたら変わってくるものだろうか。

「そういえば明日良子おばさんたちが来るって話じゃなかったっけ?」

「そうだったわ。香にまだ伝えてなかった」

少し物思いにふけっていた私は、再開された会話に意識を引き戻される。

「良子おばさんって……茨城のところのおばさんだっけ?」

「そうそう。おじいちゃんの妹さんね」

何度聞いてもどこの親戚がどういうつながりなのかピンと来ないな。

「お盆だからお墓参りに来るついでにこの辺の知り合いに挨拶回りをするからうちに二日だけ泊めてほしいって。それで良子さんと由紀ちゃんのご両親は色々やることがあって日中は出かけてるらしいけど、退屈な用事だから由紀ちゃんはここにいて遊ばせてほしいらしくて。私たちも外に出ていないタイミングがあるだろうから、香にはそこだけでも由紀ちゃんのこと見ててほしいの」

「それくらいなら別にいいよ。それにしても由紀ちゃんか……今何歳くらいなんだっけ?」

「確か小学三年生だって言ってたから……九歳くらいかな」

「九歳か。いつの間にかそんなに大きくなってたんだね」

由紀ちゃんは祖父の妹の孫、私から見てはとこだ。前に会ったのは私が高校生くらいのときだから……二、三歳の頃ってところか。どう育っているのか想像がつかない。

「ごめんな香。貴重なお盆休みだっていうのに。まあ一人で危ない場所に行かないようにしてくれさえすればいいから」

「うん、大丈夫。どうせすることもなかったし」

まあたまの休みくらいはだらだらしていたかったのも本音だが、何かすることがあるならそれはそれで構わない。そんな気分だ。

「私からも、よろしく頼むわ」

祖母の言葉にしっかり頷く。

翌朝、休日の私にしては早く、朝八時に目が覚めた。平日は七時に起きているためか、ここのところ早起きの習慣がついたようだ。スマホで時間を確認した私は、ゆっくりと身体を起こし、伸びをする。朝起きたときに自分の部屋にいると、実家に帰ってきているというのを強く実感する。

一階に降りると、父も母もリビングにいた。互いに「おはよう」と挨拶を交わす。

「今朝は目玉焼きとお味噌汁よ。今温めなおすから今のうちに着替えておいて。もう一時間もすれば良子さんたちが来るから」

私は「わかった」と返事をし、クローゼットに着替えを取りに行く。

朝食を食べ終わると、外から車が入ってくる音が聞こえた。

「あら良子さんたちもう着いたのかしら」

母がやや慌てて玄関に出ていく。父と祖母も黙ってそれについていく。私もそそくさと食器をキッチンに片付け、玄関に向かう。

母が玄関を開けると、彼らは玄関先に立っていた。各々旅の荷物を持っている。お互い全員が揃っているのを見て、「お久しぶりです」などと口々に挨拶を交わす。

「今日からお世話になります。ほら、由紀も」

由紀ちゃんのお父さん――孝弘おじさん――が腰を折って挨拶する。そして後ろにいた小さい女の子も促されて良子さんの隣に出てくる。由紀ちゃんだ。

「今日からお世話になります」

由紀ちゃんは少しおどおどとしつつも、しっかりお辞儀をして挨拶する。私たちも口々に挨拶を返す。

「えぇ、自分の家だと思ってゆっくりしていってね。それ

にしても大きくなったわねー」

母がそう話しかけると、由紀ちゃんはこくりと頷き視線を逸らす。

「香ちゃんも、いつの間にかこんなに立派になって。もう社会人でしたっけ? 早いものね」

良子さんがしみじみといった感じで言う。

「お久しぶりです。社会人になって一年ちょっとになりました」

「そうなの。元気でやれてる?」

「はい、おかげさまで」

「ふふふ、社会人らしくなったわね」

嬉しそうに私を見る良子さんに少し照れていると、母が場を取り仕切る。

「さあさあ、立ち話もなんですし早いところ荷物を客間の方に入れちゃいましょうか」

荷物を客間に入れ終わり、今は全員リビングでくつろいでいる。孝弘おじさんと父は何やら最近のことを話しているようだ。……由紀ちゃんは少し居心地悪そうにテレビを見ているが。話を聞くと今日の午前中はゆっくりして、午後から動く予定らしい。

それまでは私も暇だと思ってテレビを見ていると、ふと由紀ちゃんが良子さんに耳打ちをしたのが見えた。良子さんは頷き、「とってきな」と言う。何だろうと思っていると、しばらくして由紀ちゃんは何やら薄い冊子と筆箱を持ってきたようだった。そうか、夏休みの宿題だ。

「あら由紀ちゃん宿題? 偉いわねー」

食器を洗っていた母が褒めると、由紀ちゃんは気恥ずかしそうに頷く。

「香の小さい頃を思い出すわ。香もコツコツ進めるタイプだったわね」

気づけば、宿題というものから離れて長いこと経った気がする。だというのに、私は長期休暇となると未だに何か宿題的なものをしなければならない気がしてしまう。

「そうだ香ちゃん、良かったら由紀の勉強見てやってくれるかしら」

由紀ちゃんのお母さんである、知恵子おばさんがそう言う。萎縮してしまっている由紀ちゃんに対して、一番若い私とまず仲良くさせようという魂胆だろうか。私としても手持無沙汰だったので渡りに船という感じだ。

「それくらいなら全然構いませんよ」

「助かるわ。丸付けしたり、たまにわからないところを教えたりしてくれればいいから」

「はい」

私はソファーに座っている由紀ちゃんの隣に座る。パッと紙面を見ると、どうやら理科の問題らしい。あまり解いているところをずっと見ているのも緊張するかと思って視線を逸らすと、解答冊子が目についた。由紀ちゃんに読んでみていいか確認をしてから、解答冊子を手に取る。

小学三年生の内容はどんなもんだったかと思いながらパラパラめくっていく。植物や虫の観察の単元、光の単元、太陽や月の動きの単元などがある。基礎的な内容ではあるが、小学生ってここまで勉強するんだっけ、と少し驚く。由紀ちゃんは今太陽と月の動きの問題を解いているようだ。

地球の回転は宇宙から見てどっち向きか……パッと聞かれると答えられないかもしれないな。太陽は東から昇るから……北極から見て反時計回りか。などと考えていると、

「ねえ……香お姉ちゃん」

由紀ちゃんが私を見て話しかけてきた。私は頷き、目を合わせる。あらためて見た小学生の顔は、記憶のそれより小さく見えた。

「ここ教えて?」

「うん、もちろん。どれどれ……」

見れば、時刻ごとの太陽の見え方の問題だった。三つの図があり、朝昼晩や夏と冬などを組み合わせた選択肢と結びつける問題だ。確かに習いたてではややこしいだろう。

「確かにここはややこしいよね。覚えないといけないから大変だし」

「うん」

「そういうときは、身近なものと結びつけて覚える。例えば……まず自分の家にいることを思い浮かべる。そして北がどっちか覚える。朝登校するときどっち側に太陽があるか思い浮かべれば、どっちから太陽が昇ってくるかがわかる」

「でも、どこが北かわかんないかも」

「うーん……あそうだ、じゃあ実際に調べてみよっか」

そう言いながら私はスマホを取り出し、地図アプリを起動する。小学校の名前を聞き、家の近くまで飛ぶ。そしてそれを航空写真表示にする。

「小学校からどっちに家があるかな」

「コンビニがある方」

「一番近くだと……これかな。そこからはどっち?」

「こっち」

さすがはデジタルネイティブ世代と言うべきか、スイスイ操作していく。

「あった!」

私は家をタップしてピン止めし、地図を縮小していく。

「すごい、これはピッタリ家から小学校の向きが北だ」

「ほんと?」

由紀ちゃんが覗き込む。

「これなら覚えやすいね。朝学校まで歩く道で、右側から太陽が見える」

「うん!」

まあこれも補助でしかなく結局は覚えないといけないが、実際身近なものに結び付けて覚えるのは有効だと思う。多分。

「じゃあ夏と冬の太陽はどう覚えるといいの?」

「それはね……」

気づけば私はすっかり教えるのに夢中になっていた。

「しばらく任せちゃったけど、ありがとうね、香ちゃん」

「ありがとう、香お姉ちゃん」

「いえいえ。私も楽しかったですし」

私は一人で勉強することが多かったから、こうやって人に教えるのは新鮮で楽しかった。それに、頼られて悪い気分にはならない。昼食のそうめんをすすりながらそう考える。

「午後はお母さんたちいなくなるから、由紀ちゃんのこと引き続きお願いね。そんなに遅くはならないから」

「うん、大丈夫」

由紀ちゃんからすればほぼ初対面なので、最初はどう接したら良いかと困っていたのだが、今なら大丈夫そうだ。人間、一度話せば意外と打ち解けられるものなのかもしれない。

「由紀ちゃんは午後から何したい?」

そう聞くと由紀ちゃんは少し考えてから、こう言った。

「お外に行きたいな」

「そっか……お母さん、日焼け止めってあったっけ?」

「玄関にあるわよ。外暑いから気を付けてね」

「うん。休憩はこまめにとるようにするよ」

それにしても、小学生とはこんなに活発なものだっただろうか。もっと家の中で遊んでいるイメージがあった。

「由紀ちゃんは外で遊ぶのが好きなのね」

「えぇ、そうなんですよ。私じゃついていけなくて」

「大変ね。香も小さい頃そうだったからその気持ちわかるわ」

言われてみれば、私も昔は活発な少女だったのを思い出した。ふと、祖父と一緒にカブトムシを取りに行った記憶が蘇る。もしかしたらおてんばは祖父の影響だったのかもしれない。昨日読んだ手紙のせいか、そんなことを考えてしまう。

昼食を食べ終わり、私の祖母以外みんなそれぞれ出かけていったのを見送ると、私と由紀ちゃんも外出の準備をする。帽子、タオル、水筒、日焼け止め、虫よけスプレー、などなど。私がついていながら由紀ちゃんを熱中症にしてしまうなんて失態をしないように念には念を入れる。私たちが外に出たのは午後二時頃だった。

玄関の扉を開けると、眩しい日差しに私は目を細める。眩しさで目の奥が痛む独特な感覚に見舞われながら、私は外へ踏み出した。一気に視界が空と田んぼで埋まっていく。遠くに大きな入道雲が見える以外、空は青く晴れ渡っている。

息を吸い込むと、肺一杯に夏の香りが広がっていく。稲の匂いかはたまた草刈りでもしたのか、植物の青臭い匂いが混じる。かすかに混ざる土の匂い。そしてそれらだけでは説明しきれない、故郷の匂い。

少し遅れて後ろから、麦わら帽子を被った由紀ちゃんが歩いてきて私と並ぶ。遮るものがないここでは日差しが熱いが、風は東京よりも涼しい。私は少しの間その場に立ち尽くし、生まれ故郷に帰ってきたことを全身で感じる。生まれてから何度も見てきた景色が、なんだか特別に思えた。

由紀ちゃんに服の裾を引っ張られて我に返る。

「あっち行ってもいい?」

「うん、もちろんいいよ」

アスファルトで固められた表庭を離れ、玄関から出て右手の裏庭に向かう。裏庭の方は土がむき出しになっていて、今の季節だと雑草が至る所に生えていることだろう。昔は祖母がこまめに草むしりをしたものだが、腰を痛めてから

は花壇と家庭菜園の場所以外はたまに除草剤を撒かれるくらいになった。

久しぶりに見たが、裏庭の花壇は記憶の通り立派だった。家側にレンガブロックで囲んで作られた花壇が二つあり、右の方にはアジサイが、左の方にはラベンダーと色とりどりのコスモスが植えられている。その隣には家庭菜園用の小さな畑があり、ミニトマトと枝豆が植えられている。そして道路沿いの土にはヒマワリが何本か植えられている。

目に留まったヒマワリの大きさに惹かれてか、私はなんとなくヒマワリの方へ歩いていく。目の前で空を見上げているヒマワリは、私より頭一つ小さいくらいだった。私は小さい頃、ここに同じように咲いたヒマワリを見上げた記憶がある。もしかしたら、あのときのヒマワリの子孫なのだろうか。今や自分より小さいヒマワリだが、不思議とその威容はあのときと変わっていないような気がした。

「ヒマワリ!」

いつの間にか由紀ちゃんも私の隣でヒマワリを見上げていた。見上げて傾いた麦わら帽子の角度が、ちょうどヒマワリと同じくらいだった。

「……由紀ちゃんは、ヒマワリ好き?」

「うん。家でもお母さんと一緒に育ててるの」

「そっか。それはいいね」

「ねえ、あっちで育ててるのってトマト?」

家庭菜園がある方を指さして言う。

「そう、ミニトマト。そして隣が枝豆」

そっちに向かいながら私は説明する。

「育ったら食べられるの?」

「もちろん。もうそろそろ食べられるのがあるんじゃないかな」

私はミニトマトの前にしゃがみ、食べられそうな実がないか吟味する。

「これとか食べられそう。好きに採って食べて良いって言われてるし、トマトが嫌いじゃないなら食べてみる?」

「食べる!」

「せっかくだし収穫から自分でやってみよっか。ヘタの上の節のところをつまみながら茎を折るようにすればとれるはず」

由紀ちゃんはこくりと頷き、真剣な顔で収穫を試みる。茎をつまむ手に力を入れ、直後、パキッと小気味よい音を立ててトマトは茎から切り離される。

「とれた!」

「上手。一応服の裾とかでこすって汚れを落とせば、そのまま食べられるよ」

一度手を滑らせトマトを落としそうになりながらも、じっくり表面をふき取る。そして一息に口の中に放り込む。

「どう?」

「甘くて美味しい! いつも食べてるのより酸っぱくないんだね」

「それなら良かった。私も一個くらい食べちゃおっかな」

私は少しひび割れた実を選びとり、軽く拭いてから口に放り込む。噛むとプチっとした感触がして、口の中に甘酸っぱい果肉の味が広がる。ひび割れるくらい熟した実だからだろうか、甘さが強く、まるで果物のようだ。

こうしてその場で収穫したものを食べていると、昔を思い出す。ひび

割れた実は見た目は悪いけど味は一番だということを教えてくれたのは祖母だった。

祖父が生きていた頃は、少し遠くの土地でリンゴも育てていたっけ。大きなリンゴの実にそのままかじりついて食べたのは美味しかった。

「もう一個くらい食べる?」

「……いいの?」

トマトを食べきった由紀ちゃんの顔が少し物足りなさそうに見えて、ついそう声をかけてしまう。私が頷くと、由紀ちゃんは嬉しそうに食べられそうな実を探す。私が小さかった頃、私は周りの大人からこう見えていたのだろうな、と思った。

「ただいまー」

祖母に私が家に戻ったことを伝えるために気持ち声を張りあげる。

「ただいま!」

すると由紀ちゃんも私に合わせて言う。なんだかそれが微笑ましくてクスリと笑ってしまう。由紀ちゃんはきちんと脱いだ靴を揃えて家に上がる。私は横着して、脱いだ靴を足でその隣に揃える。

「おかえり。暑かったでしょう。今麦茶用意するから」

リビングに入ると、祖母がキッチンに向かうのが見える。

「ありがとう、おばあちゃん。さっき庭のミニトマト三個くらい食べちゃったけど良かった?」

「いくら食べてもいいわよ。美味しかった?」

「うん!」

私が答える前に由紀ちゃんが返事をする。私もそれに同意しつつ、ソファーに座る。由紀ちゃんも私の隣に座る。しばらくすると祖母がコップ二杯の麦茶を持ってきて、ソファーの前のテーブルに並べると、隣の肘掛け椅子に座る。

「外では何してきたんだい?」

祖母は由紀ちゃんの方を見て話しかける。

「ヒマワリとかのお花を見て、トマトと枝豆も見て、あとちょうちょとバッタも見た」

「そうかそうか。良かったねぇ」

そうしてしばらく由紀ちゃんと話をしていた祖母だったが、その後私の方を見て今度はこう言った。

「香も、少しは楽しかったかい?」

「うん……良い気晴らしになったよ」

急に私に話が振られたことに少し動揺しつつも、私は当たり障りのないことを言う。

「そうかい。それで……やっぱり仕事は大変かい?」

「……まあ、思ってたよりも大変だね。なんとかやれてはいるけど」

どこか取り繕うように、無意識に声色が上がる。

「それならいいんだけどね。働いて稼ぐのは良いことだし大事なことだよ。でも、無理して身体壊しちゃ元も子もないからね」

「うん、気を付けるよ」

実際仕事で疲れているのは確かだ。でもみんなそんなものだろうと思っていたから、そこまで気にしていなかった。あるいは、家族に心配させないようにするためか、無意識に隠そうとしていたのかもしれないが。

「そうだ、お隣の鈴木さんからスイカもらったんだったわ。食べるかい?」

「うん、食べたい」

「じゃあ今切ってあげるからちょっと待ってなさいね」

一人暮らしをしていると、用意するのが面倒だし高いしで果物はあまり食べなくなった。キッチンから包丁でザクザクとスイカの分厚い皮を切る音が聞こえてくる。自分が何もしていないのに食べ物が出てくるのは、なんだか懐かしい感覚だった。

「由紀ちゃんはスイカに塩かけて食べる?」

手持ち無沙汰で私はそんな話題を持ち出す。

「えー、何それ。美味しいの?」

「聞いたことない? スイカに塩かけて食べると甘く感じるんだって」

「お砂糖じゃないのに甘くなるの?」

「うーん……一

度しょっぱい味を感じるからその後に来る甘みが弱くても甘く感じられる、みたいな理屈なんだけど」

説明しながら自分でも疑わしい気がしてくる。小さい頃に一度その食べ方をしたきりで、味が実際どうだったかよく覚えていない。

「最近のスイカは甘いからねぇ。お塩なんてかけなくても十分甘いんでしょう」

そんな話をしていると、祖母がスイカを皿に乗せて持ってくる。私と由紀ちゃんはお礼を言ってそれを受け取る。

「じゃあ香お姉ちゃんはこれ知ってる? スイカの種を飲み込んじゃうとお腹の中で……」

「あ、それ知ってる。でもそれ嘘なんでしょ?」

「なんだ知ってたんだ、つまんないの」

私がそれに吹き出すと、由紀ちゃんもつられて笑いだす。ひとしきり笑って、私はスイカにかぶりつく。シャクッ。噛むたびにほんのり甘い果汁が口の中に広がる。小さい頃は、今はもうリフォームされてなくなった縁側でスイカを食べていたことを思い出す。確かに、あの頃より今のスイカはもっと甘い気がした。

しばらくリビングでスイカを食べながらゆったり話していると、そのうちにまず由紀ちゃんの両親が帰ってきて、そこから数十分くらいして私の両親も帰ってきた。ついでに買い物も済ませてきたらしく、母は帰ってすぐに晩御飯の用意を始めた。もう午後五時前だった。外が明るいから気づかなかった。

由紀ちゃんがウトウトし始めたとき、晩御飯の用意ができた。私も普段より多い皿を並べるのを手伝い、全員が食卓についた。

「いただきます」

それぞれ挨拶をして食べ始める。今日の主菜は唐揚げだ。

「今日ね、香お姉ちゃんと庭のミニトマト食べたんだ」

「あらよかったわね。美味しかった?」

「うん! いつもより甘かった」

「そうか、良くお世話された野菜なんだろうな」

「実は今日のサラダにも入れてるんですよ」

「そうなの。じゃあ一ついただこうかしら」

みなが思い思いに話す、賑やかな食卓だ。少し疲れるような、でもやっぱり

楽しいような、そんな食卓だった。

「今日は日記に書くことたくさんあって書ききれないかも」

由紀ちゃんは嬉しそうにそう言う。あぁ、そんな宿題もあったっけな。私は数日書き忘れてまとめて書いたり、でっち上げたりもしたことがあった。あれで一番困るのは天気の欄だった。

翌朝。昨日は早く眠ってしまったためか、七時に目が覚めてしまった。朝はそれぞれの時間で朝食を食べ、九時からの法事のために私と両親と祖母と良子さんは、由紀ちゃんたちに見送られながらお寺に出かける。

父が運転する車の後部座席から、外の景色を見る。東京で働いていると車より電車を使うことが多いから、車に乗ること自体久しぶりだ。電車と違って行き先を間違える心配がない。

大通りに出る前に、一本の川に架かった橋に差し掛かる。河川敷は割と荒れていて、人は見当たらない。……昔、祖父と祖母に連れられてこの川に来た記憶がある。どの辺だったかは忘れたが、まだ人が通れるくらいに整備された場所だった。少し進むと何本か木が生えていて、運がいいとカブトムシがとれる。当時はまだ虫が好きだった私は、喜んでカブトムシを捕まえていた。今は……カブトムシくらいなら触れなくもないくらいだ。

しばらくすると、何度か来たことがあるお寺に着く。車から降りて、建物に向かうと、中から和尚さんが出てくる。父と祖母と「本日はよろしくお願いします」みたいな会話を交わすと、中に入るように促される。靴を脱いで上がると、既に私たちが座るための椅子が用意されていた。

私はどこに座るべきなのかよくわからず恐る恐るといった感じで座る。法事はいつ来ても決まりごとがよくわからなくて不安になる。十三回忌と言われていたが、何をするかも知らずに来てしまった。少しくらい勉強しておくべきだっただろうか。お焼香とかもあるのだろうか。そんなことを考えていると、和尚さんの挨拶が終わり、読経が始まる。

お寺の中を視線だけでチラリと見まわす。中央には大きな仏像があり、その周りには何やら金色の装飾が施されている。きっと何か仏教に関係する意味をもつのだろう。大人になったらわかるだろうと思っていたが、この装飾も、読まれているお経も、相変わらずわからない。

「ではお焼香をお上げください」

和尚さんの言葉に我に返る。祖母がまず向かう。私はその様子をじっと見て、その場でどうするのが正解なのかを覚えようとする。父、母に続いて私が向かう。礼をして、合掌をして、香を右手でつまんで額に捧げ、香炉にくべ、合掌する。三回見たから多分合っていると思う。最後に良子さんがお焼香を上げて、全員終わりだ。

最後にまた何やら和尚さんが話をすると、法要は終わった。てっきりもう少しかかると思っていた。和尚さんにお礼を言い、最後はお墓参りだ。……最後にお墓参りが残っているのを忘れていて、一瞬足が車の方に向きかけた。

建物の裏手に回ると、墓地がある。その中に祖父のお墓もある。なんとなく、お墓の場所は覚えている。手前から二番目の分かれ道を左に曲がると、やや奥まった位置にお墓がある。『山本家之墓』。そこにはそう刻まれている。

お墓に着くと、早速父がお墓の掃除を始める。母はろうそくとお線香を用意する。準備ができると、一人ずつお線香を立てていく。手をこすり合わせるかどうかがいつもわからなくなるので、これも先にした祖母のものを真似る。

手を合わせて目をつぶっているとき、何を考えればいいのかよくわからない。「ありがとう」なのか、「これからも見ていてください」なのか、「また来ます」なのか、「頑張ります」なのか。よくわからないが、とりあえず「頑張ります」の念を送る。

全員お線香を立て終わり、今度こそ帰る時間だ。なんだか少し気疲れしたような感覚になりつつ、車に戻る。

「ごちそうさまでした」

家に帰り、昼食を食べ終わった。そのとき視界の端で孝弘おじさんに「ほら、自分で言っておいで」とささやかれている由紀ちゃんが見えた。由紀ちゃんは頷くと、こちらを向いてこう言った。

「香お姉ちゃん、近くの川のところに行きたい。ついてきてもらってもいい?」

近くの川……あぁ、今日車で通ったところか。あそこなら歩いても行ける距離だ。

「それくらいなら大丈夫。ただ……おじさんとおばさんにも来ていただけた方が安心です」

「もちろん、ちゃんと私たちも見ておくわ」

「そういうことなら……あ、でも今の河川敷に降りられるところがあるかどうか」

「行けるところまででいいんだ。由紀も、危なそうだったら引き返すけどそれでいいな?」

「うん」

「それじゃあ……準備しましょうか」

急に決まった午後のお出かけだが、正直私は少しわくわくしている。なんだか由紀ちゃんのおかげで私まで童心に帰って楽しめている気がする。

田んぼの脇の道路を歩き、川を目指す。私と由紀ちゃんが横に並び、その後ろを由紀ちゃんの両親がついてくる。

田んぼ沿いを歩くと、稲の中に隠れていたイナゴが驚いて飛んでいく。それに合わせて、風になびくように稲がサラサラと音を立てて揺れ動く。それを由紀ちゃんは物珍しそうに見つめる。

「由紀、朝宿題しながらずっと外に出るの楽しみにしてたからね」

「そうでしたか」

私は田んぼの遠くの方で、風に揺れる稲をぼんやりと眺めながらそう答える。今日も快晴だ。田植えの季節であればこの水面に空が映っていたことだろう。やや暑い風が私たちの後ろから吹き抜ける。そしてその風が稲の表面を撫でて、やがて消える。

道路沿いに住宅が立ち並んだところに差し掛かる。路側帯――小さい頃はこれを歩道だと思っていた――を歩いていく。途中由紀ちゃんが建物を見てあれは何なのかと聞いてくるのに答えながら進む。変わった屋根の家、個人商店、たばこ屋、自転車などを取り扱う機械屋などなど。この道は車で通ることが多

かったから、歩いてみる景色は私にとっても意外に新鮮だった。

「川だ!」

橋が近づき、川が見える位置に来ると、由紀ちゃんがはしゃいだように言う。橋の手前を右に曲がり少し進むと、石段があった。

「あー、ここはダメだね。草が生い茂っていて入れそうにない」

「多分もう一個先の階段からなら降りられると思いますよ。農業用水の管理をしてる設備の近くなので、ここよりは手入れされているはずです」

そこからしばらく歩くと、予想通り降りられそうな階段が見つかった。私が先行して、蛇などが潜んでいないかやや警戒しながらゆっくりと階段を降りていく。降りきると、そこは丸い石が堆積した河原だ。

ザーっという川の流れの音は、記憶のそれよりも大きく、声を上げてもかき消されてしまいそうだった。少し、磯の匂いのようなものを感じる。川幅は十メートルくらいだろうか。決して深くはない川だが、その勢いを見ていると、私が入れば流されてしまうんじゃないかと思った。

後ろから由紀ちゃんたちが追い付く。由紀ちゃんはしばらく流れを見た後、辺りをキョロキョロと見まわす。私も何か面白いものが見つけられないだろうかと見まわしていると、向こうに数本の木を見つけた。あの木かは忘れたが、昔この辺りの木でカブトムシを捕まえた記憶があった。

「昔この辺の木でカブトムシを捕まえたことがあったんだ。もしかしたら見つかるかも」

「カブトムシ? 行ってみたい!」

それに頷き、私たちは木の近くに向かう。増水すると通れなくなりそうな道を抜け、目的の木に着く。数本生えている中でひときわ太く、広く枝を広げている木に目が行く。近づくと、ここからアブラゼミの声がしているのもわかった。

しばらくの間、木の幹や根を探したり、高いところを木の枝で揺らしてみたりもしたものの、セミが驚いて飛んでいくばかりで、カブトムシやクワガタは見つからなかった。

「うーん、今日はいないか。やっぱり早朝とか深夜じゃないと見つからないのかな」

残念だけど、と由紀ちゃんに声をかけようとすると、由紀ちゃんはしゃがんで何やら手に掴んでいるものをじっと見ていた。私が傍にしゃがみこんで見てみると、それがキラッと光った。それは小さな水晶がたくさんついた石だった。

「綺麗な水晶……見つけたの?」

「うん」

由紀ちゃんはその石を裏返したり傾けたりして様々な角度から眺めていた。私はそれを見て、一昨日自分の部屋の引き出しから出てきた綺麗な石のことを思い出していた。私は小さい頃綺麗なものや透明なものが好きだった。だから庭などで綺麗な石を探しては集めていた。水晶がついた石、丸くて白く光る石、少し緑っぽい透き通った石、他にも色々あった気がするが、もうどこにあるのかわからない。

思い返せば私は自然が好きだった。何か科学に関係する仕事に就くのかもね、なんて周りの大人は言っていたし、私もよくわからないながらそうなりたいと思っていた。でも、いつからだったか、数学の勉強はあまり得意でないことに

気づいて、そのうちに理科からも無意識に距離を置くようになった。できないことを知るたびに、好きなことは減っていった。

きっと、私は今も自然の中にいるのが好きだ。でもそれは子供の頃ほどの熱量をもっていない。少なくとも、誰かにこうして連れ出されなければずっと家の中にいるようになってしまった。大人になったら、みんなそうなるのだろうか。

「もっと綺麗な石ないかな」

由紀ちゃんは石を左手で握ると、別の石がないか探す。

「……私も久しぶりに探してみようかな」

いや、色あせた感情も塗りなおせばいい。今の私は不思議とそう思えた。

「もうこんな時間か」

帰り道、私は誰に言うでもなく呟く。

「お父さん、疲れた」

「仕方ないな。じゃあおんぶするか?」

後ろからそんな会話が聞こえ、立ち止まって振り返る。途中で休憩したとはいえ、結構な時間河原で遊んでいたことは確かだ。疲れて当然だろう。かく言う私も最近めっきり外に出なくなっていたせいか、今日は疲れた。早く家に帰って寝たい。でも今昼寝したら夜寝られなくなるだろうか。

そんなことを考えていると、ポケットに入れていたスマホが鳴る。少し驚きつつ受信する。

「もしもし?」

「もしもし、香?」

母だ。

「うん」

「実はね、さっきおばあちゃんが怪我しちゃって」

「え?」

「お母さんも大げさなんだから。私はちょっと足を捻っちゃっただけよ」

「……大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。湿布貼っておけばすぐ治るわよ」

急いで帰宅した私は、祖母の部屋に様子を見に来た。祖母はベッドから身体を起こした状態で私を待っていた。帰り道ではずっと心配していたが、思いのほか祖母は元気そうだった。しかし、年を取ってからの怪我なので安心はしきれない。

「お母さんから聞いたときは、てっきり大怪我したかと思って心配したんだよ」

「心配かけたね」

急にさっきまで感じていた疲労を思い出し、近くの椅子に腰を下ろす。今日は色々なことをした。午前中は法事で、午後は川で遊んだ。一日ってこんなに行動できたんだな、と思った。由紀ちゃんを見ていると、自分が小さかった頃を思い出す。そして、祖父のことも。だからだろうか、私は

藪から棒にこんなことを聞いた。

「ねえおばあちゃん、おばあちゃんのお母さんとかお父さんが亡くなったときって、どうだった?」

私が生まれる前に亡くなった曾祖父と曾祖母。祖母はその死をどうやって受け止めたのか、今の内に聞くべきだと思った。いや、なんとなく、今しか聞けない気がした。祖母は私の急な質問にも顔色を変えず、ただ数秒間黙って返答を考えているようだった。そして、口を開いた。

「そりゃ悲しんださ。いくつになっても親は親。息子が成人しても、結婚しても、それだけは変わらないんだから」

私は黙って相槌を打つ。自分から話を切り出したものの、私が何を聞きたいのかが自分でもまだわからなかったから。

「でもね、一つ覚えていることがあるの。公一さん、あなたのおじいちゃんが私に言ってくれたこと」

祖母はたまに祖父のことを名前で呼ぶ。そこにどんな想いが込められているのか、私は知らない。

「私が酷く悲しんで、前を向くのが怖かったとき、こう言ってくれたの。『なくなることはなかったことになることとは違う。悼むことと気持ちを引きずることとは違う』って。私のお母さん、あなたの曾祖母が亡くなったとき、公一さんが私にかけてくれた言葉よ」

私はその言葉を聞いて、祖父が亡くなったとき「大往生だった」と大人たちが言っていたことがようやく腑に落ちた。きっとみんな、悲しみの中で折り合いをつけようとしていただけだったのだ。そして、折り合いをつけることと忘れてしまうこととは違う。

「私それを聞いて、ようやく、前に進む準備ができたわ。準備だけね。言葉一つで急に気持ちが楽になるものじゃないわ。でもきっかけはできた。あの人もそのことをわかって私を慰めてくれたんだと思うわ」

ハッとした。私はきっと、もし誰かがいなくなってもそれを乗り越えられる魔法の言葉を求めていたのだ。でも、そんなものはないという当たり前の事実に、言われるまで気づかなかった。きっと言葉はきっかけで、心はゆっくりとそれについていく。

「それからしばらくして、香が生まれてきてくれた」

「私が……」

「そうよ。そしたら私、いつまでも落ち込んでいられないぞ、って気持ちになったの。私にはこんなにたくさん大切なものが残っているんだから、ってね」

どこかむずがゆいけど、私はそのときようやくおばあちゃんが心配する気持ちを心から理解できた気がする。何度も何度も心配されてきたが、今ようやく届いた。

私には、何が残っているだろうか。……いや、何かが残せるはずだ。例えば――

「ねえおばあちゃん、今度園芸のこと教えてよ」

そう言うとおばあちゃんは少し驚き、一拍おくと嬉しそうに「もちろんいいわよ」と言った。

忘れかけていた、小さい頃好きだったもの。私が大人になって、距離が離れて、勝手に変わってしまったと思っていた関係。変わったりなくなったりした後に残っているもの。人生の下流に転がっている石のようなもの。私がこれから拾い集めていきたいもの。

「数日間お世話になりました」

「いえいえ、また来てください」

翌朝、長いようで短かった二泊三日が終わる。つまるところ、別れの日だ。みな口々に別れの挨拶をする。少し寂しい気持ちもあるが、またそのうち会えることだろう。そう考えていると、由紀ちゃんが寂しそうな顔で言う。

「香お姉ちゃん、遊んでくれてありがとう。また会おうね」

そう言いながら泣きそうになっている由紀ちゃんに、私は微笑みかけ、そっと頭をなでる。

「こっちこそありがとう。また来年、きっと会えるから」

それはきっと、このひと時の別れに折り合いをつけるための言葉。

由紀ちゃんたちの車が見えなくなるまで見送った私は、階段を上がり、自分の部屋に向かう。理由は、あの日の自分に手紙を出すためだ。今ならきっと書けると思ったから。

窓を開け、空気を肺一杯に吸い込む。それをゆっくりと吐き出して、私は椅子に座った。近くにあった紙とボールペンで、一通の手紙をしたためる。

「まだ子供だった私へ

私はもう二十四歳になりました。あのときの夢とは違って自然に携わる仕事には就けなかったけど、元気に生きています。

そしてごめんなさい。私はもう悲しみを乗り越えてしまいました。でもそれは悪いことじゃない。大人たちが大往生だと言っていたのも、こうして私が悲しみを抱えなくなったのも、折り合いをつけるためなのだと思います。それは忘れてしまうこととは違う。

生きていれば必ず何かを失います。それは身近な人だったり、夢だったり、小さい頃好きだったことだったり、関係性だったり。それは寂しいと思います。でも私はおばあちゃんに話を聞いて、こうも思いました。失うことも、変わっていくことも、見方を変えれば何かが残っていくことなのだと。

人生はきっと全てが割に合うわけじゃない。だからみんな折り合いをつけようと頑張って生きている。きっとこれからたくさん失って、たくさん変わっていくでしょう。

私はあなたにかけるべき正解の言葉を持ち合わせていません。そしてきっとそんな万能な言葉はないのだと思います。言葉だけで何もかも解決することはできないということに、私は今になって気づきました。

でも言葉はきっかけにはなってくれる。だから私があなたに送れる言葉はこれだけです。残ったものの中から、何かを見つけ出してください。それが何かはわかりません。失ったものとは関係ないかもしれません。求めていたものではないかもしれません。でも、それだけができることなのだと思います。

あの頃より大人になった私より」

私はその手紙をお菓子の缶に詰めて、そっと引き出しに仕舞った。

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