第一走者 ペンネーム:まっつごー
雨が上がった。眠たい目をこすって、自習室の外へ繰り出す。せっかく授業が全部終わったのに、傘がない私は延々と足止めされていたのだ。 「はあ、最悪……」 日差しが焼けるように痛い。大学へ入ってから随分と経って、もう7月だ。雨上がり、日差しが強いという話は、どうやら本当だったようだ。しばらく歩いているうちに、暑さで意識が朦朧としてくる。鬱屈とした気分を晴らすように、足下の小石を蹴飛ばそうとした。 「わっ!」 景色が流転する。しばらくして痛みが私を襲った。 「いたたた……」 ああ、また失敗か。そう確信し、自らの不甲斐なさに余計気が淀んだ。俯いて足下に目をやる。ああこれ……。見当はついた。ツルツルした表面に手をかけ、ついた水滴に顔をしかめる。こんなことは忘れて、帰ってふて寝でもしようかと足に力を込めたその時だった。 「……っ!」 首筋に冷たい感覚。慌てて振り返れば、不敵な笑みを浮かべる変な人。 「いやあ、排水溝に滑って転んじゃうなんて、かわいい新入生ちゃんだなあ」 ――なにこの人。第一印象は、最悪の一言だった。咄嗟に身を構えるが、痛みのせいで力が入らない。 「まあまあ、そう怒らないでって。何だか暑そうだし、これでも飲みな」 「はあ……ありがとうございます」 朦朧とした意識の中、渡されたペットボトルにわけもわからず手を掛ける。 「顔が赤いよ? とりあえずそこの日陰に移ろうよ」 このとき彼女が不快なくらいにやけた顔をしていたことだけ覚えている。 ――頭が冷えてきた。 何はともあれ、この人は何者? 倒れかけていたところを助けてくれたのはありがたいけど、正直かなりウザい。 「さっきはその……ありがとうございます。で、えーっと……」 「うんうん」 失礼にならないようにしないと。言葉選びが肝心だ。いやでも、何でさっきからこっちを覗いてくるの? どちら様ですか? 名を名乗れよ。Who are you? How dare you! 重い口を開いて、今日一番の声を出す。 「あなた誰ですか?」 うわミスった。与えられた選択肢の中で最悪のものを選んでしまった。こんなくそウザい変人だって、ほんとうはガラスのハートを抱えて生きているんだ。 「えっ? ふっ、ふふっ……。何て言うかさあ……君ってクソおもろいねっ!」 ――杞憂だった。 「私は湊香澄。君は?」 「大空菫です」 「すみれちゃん~大先輩への口の聞き方には気を付けたまえよお~。さっきから1人でブツブツ言ってるかわいこちゃんがいるから、少し観察してみようと思ったらこのザマでさあ」 ウザい。ウザい。一刻も早くここを離れたい。 「新入生だよね?」 「はい」 「学部は?」 「はい」 「質問にはちゃんと答えようよお」 「総人です」 「何か言うことないの?」 「はあ?」 「先輩は、でしょ?」 こんな会話はキャッチボールではない。ただ相手が壁にボールを投げつけているだけだ。反発係数は1より小さい。 「私はねえ、𝐹𝑎𝑐𝑢𝑙𝑡𝑦 𝑜𝑓 𝐼𝑛𝑡𝑒𝑔𝑟𝑎𝑡𝑒𝑑 𝐻𝑢𝑚𝑎𝑛 𝑆𝑡𝑢𝑑𝑖𝑒𝑠だよぉ」 「ふっ、同じじゃないですか」 「今笑った? 笑ったよねえ。ずっとムスッとしてたから心配だったんだよお」 初対面の人に何を心配しているのか。私はあなたの頭が心配ですよ。 「はあ……そうですか」 「すみれちゃんから何か質問してみてよ」 「え……」 しょうもないフリに言葉が詰まる。こんなダル絡みをされるのは飲み会だけではなかったのか。 「はあ、それじゃあ……先輩は何回生ですか?」 世界一当たり障りのない質問を用意したつもりだった。要求を満たせば解放してくれるだろうか。こういうのは一度してしまったが最後、要求は次第にエスカレートしていくとも聞くけど。だが返答は意外中の意外だった。 「ん、ん~? レディに学年を聞くなんて、随分と攻めたことするねえ。何回生だろうと、私は君の大・先・輩。肝に銘じなさいっ!」 意味がわからない。そもそも大先輩って何だ。ただの先輩とは違うんだ、とでも言いたいのか。 「はあ? 質問しろって言ったのはそっちじゃないですか」 「まあまあ、ほら、『何でもしますから!』って言っても別に本当に何でもするわけじゃないでしょ! 常識の範疇で、だよお」 「いやいや常識の範疇でしょう、この質問。何か言えない事情でもあるんですか?」 「いやだからあ……」 モジモジする先輩。 「だから何ですか?」 「いや……その……実はあたし、七回生なんだよね……」 な、ななかいせい!? 面食らった。想像上の生き物だと思っていた、多留生が何とこの目の前にいた。変人は案の定変人で相違なかったのだ。 「あっ……何かごめんなさい」 「気を遣われると余計辛くなるからあ~!」 何とも面倒な生き物だ。余計に関わる気が失せた。確かに大学での人付き合いが希薄であることは屈辱的だが、こんなのにダル絡みされるのはさらに屈辱的だ。 「今日はありがとうございました。またいつか恩は返します」 素早く立ち上がる。こいつが普段ここを通るなら、私はそうじゃない道を早いこと見つけないと……そう考えた矢先のことだった。 「恩を返したいんだね?」 ふいに腕をつかまれた。咄嗟に振り払おうとするが、想像以上に強い力だった。 「ぜひうちのサークルに来てくれないかい?」 サークル? 強引な勧誘をするサークルはろくでもないところだって古事記にも書いてありますけど。とはいえ、この変人に恩があるのは事実。最悪な形で言質を取られてしまった。 「あーほら、また雨が降ってきた。盆地は天気が変わりやすいんだよお。さあさあ部室で雨宿り!」 「ほら急げっ!」 腕が痛い。逃げないから解放してくれやしないだろうか。どうやら先輩も傘を持っていないらしく、土砂降りの雨に打たれながら走らされる。 「雨、か」 ――思えば私の人生は長雨のようなものだった。片田舎の自称進学校から、教師の言うことを鵜呑みにして地元の大学を受けたが、箸にも棒にもかからなかった。あんな無駄なことばっかりして、受かるはずがない。今考えれば当たり前の話だが、高校三年生にそのような価値判断を強いるのは酷なものだ。そうして行く当てもなく浪人して、でも一浪目は惨敗。二浪目で何とか今の大学に受かったとはいえ、結果生まれたモンスターがこの私。座右の銘は「二浪は現役」。防衛機制の擬人化だ。学生時代に力を入れたこと? 同族嫌悪……ですかね。 「おーい」 はあ。こんなへたくそな人間様でごめんなさいね……。 「おーいってば」 不快なフラッシュバックから、不快な現実へと引き戻された。 「部室はここ。部員ならいつでも入っていいからね」 すかさず先輩がドアを蹴破る。こいつの傍若無人っぷりに眉をひそめた。 「おーいみんな、新入部員だぞ~!」 新入……部員??? 入部した覚えなんて微塵もないけど。既成事実化。悪事を企む連中はこぞってこういうことをする。 「よし改めて」 置いてけぼりにされる私。先輩は両手を大きく広げて、思いっきり息を吸い込みこう叫んだ。 「ようこそ、アヴァンギャルド気象予報部へ!」
第二走者 ペンネーム:日比谷
「急にどうしたんですか? こんな時期に新入部員だなんて」 部室に入ってすぐ、奥から眼鏡をかけた男子部員が1人出てきた。だがそれ以外は……さっき先輩は「みんな」と言ったが、彼の他に部員は1人しか見当たらない。 「あたしの類稀な勧誘力があれば、新入部員1人引っ張ってくるのなんて容易いってわけ。ほらほらすみれちゃん、自己紹介して!」 なぜか先輩は鼻高々だった。自己紹介しろなんて私の方に目配せをしてくるけど、流石に強引すぎるって。困惑している私の様子を見て、先ほどの男子部員は大きくため息をつく。 「……彼女はそのつもりじゃないようですが?」 痛いところを突かれた先輩は、「ぎくり」という擬音がまさにぴったりと言った具合で硬直する。 「いや……でもちゃんと言質はとったし……」 「やっぱりマトモな手段で勧誘してないじゃないですか‼」 私は無言で何度も頷く。 「どうせ道端で偶然出会った子を通り雨にかこつけて引きずってきたとか、そんなところでしょうね」 「う……ご指摘の通りです」 「まったく……何度言ったら分かるんですか。たしかにこの部活は人数不足ですけど、無理な勧誘はやめてください」 彼は先輩に詰め寄って釘をさす。しかし、それでも先輩は食い下がる。 「そ、そしたらさ‼ ちゃんとした手段で勧誘しようよ。とりあえず説明くらいは聞いてもらってさぁ」 「強引に連れてくるところがもうアウトなんですけどねぇ」 「でもほら、まだ雨やんでないし! すみれちゃん、話半分でもいいからこの部活の紹介くらい聞いてってくれない?」 懇願するように私にすり寄ってくる。「アヴァンギャルド気象予報部」だっけ? あまりにも押しが強すぎて、何か危険な宗教なのではと身構えてしまう。いや、この男子部員の先輩なら話が通じそうだけれども。そんなことを思っていると、彼は再び大きなため息をついて私に向き直った。 「ほんっとにすいません……うちの会長がとんだ失礼を……」 「だ~か~ら、あたしは『名誉会長』だってば」 「名誉会長サマは少し黙っててください」 「相変わらず福本君はつれないなぁ、もう」 この期に及んでこの調子だ。多分先輩はこういう人だし、このスタンスを一時も崩したことは無いのだろう。それをよくわかっているのか、福本と呼ばれた彼は意に介さず話を進める。 「この部活の現部長、経済学部三回の福本形而です。狭い部室ですけど、雨が止むまでは居ていただいて構わないので」 「あ、ありがとうございます。えっと……総人一回の大空菫です、自己紹介遅れてすいません」 福本先輩は見た感じ常識人のようだ。だからこその苦労が、その一挙手一投足からにじみ出ている。彼は1つ忠告を付け加えた。 「どうせ止めても無駄なので、しゃべるだけしゃべらせておきますけど……菫さん、『名誉会長』の言うことは別に無視してもらって構いませんから」 「お、許可が下りたね? いいんだね?」 「そんなことは一言も言ってませんが。すいません菫さん……ちょっと我慢してください。今飲み物を持ってきますんで」 「お気遣いありがとうございます……」 この厄介な女を間に挟んだことで、私と福本先輩は初対面ながら相当通じ合っていた。既にアイコンタクトで「お互い苦労しますね」のやり取りが完成している。 福本先輩は飲み物とコップを取りにいったん部室の奥に戻っていった。部室の真ん中には応接用らしい机とそれを挟んでソファが2つ置かれていたが、湊先輩はその片方に腰を下ろしていた。足組みまでして、どこまで尊大なんだ、この人は。 「まぁ座りたまえよ、すみれちゃん。雨もまだまだ止まないからね、お茶でもどうだい?」 湊先輩は私に向かい側のソファに座るよう促す。私の方も立ち疲れていたので、とりあえず素直に座っておくことにした。 そうしてやっと、落ち着いて部室を見渡す余裕ができた。名前からして意味不明な部活「アヴァンギャルド気象予報部」の部室は、確かにアヴァンギャルドの名に恥じないカオスのようだ。他の部活の部室をそこまで見たことがあるわけではないが、広さ自体は標準的な部類だろう。奥に長いタイプの部屋だ。入り口側にいま私と湊先輩が座っている応接用のゾーンが設けられていて、机の上の謎の小物類を除けばその付近は比較的整理されている。 しかし、奥の方は……ジャングルというか、物にあふれたエリアだった。古今東西の面妖な品々がそこかしこに散乱している。アフリカンな木彫りの彫像、中国風の陶磁器、ネイティブアメリカン風の仮面や、ルーン文字の彫られた石など……何に使うんだというモノばかりだ。それだけにとどまらず、機械のジャンクパーツのようなものも見え隠れしていた。一部綺麗なエリアがあるのは、間違いなく福本先輩の席だろう。 そして、そうしたガラクタの山の中心にはもう1人の部員がいた。初めてこの部室に入ったときから異様な雰囲気を放っていた白衣姿の彼……いや彼女?だったが、こちらには目もくれず、一心不乱に機械いじりを続けているようだ。一体何を作っているんだか。 そんな私の様子を見て、湊先輩はすかさず口を開く。 「あの子は八木優紀君だよ。工学部二回生で、うちの部活のメカニック担当だね。いろんなものを作ってくれてるよ」 「……具体的には、どんなものを作ってるんですか?」 気象予報部にメカニック? なかなか想像がつかない。 「例えばコレ。じつに素晴らしい一品だと思わない?」 そういって湊先輩は机の上の小物を取り上げる。カメラのような機械部分と石、木のパーツが複雑に組み合わされた、一見して用途不明のナニかだ。 「なんなんです? それ」 「これはね、優紀ちゃんの言うところによると……たしか『機械式ランダム観天望機Ver.03』だったかな。簡単に言えば、これで気象予報するのさ」 こんな謎のアイテムで気象予報? 「アヴァンギャルド」の意味がだんだんわかってきた気がする。ただ…… 「ほんとに当たるんですか、それ?」 当然の疑問。誰だってこんな……歯に衣着せぬ言い方をすれば「ガラクタの寄せ集め」みたいなシロモノで気象予報をすると言われれば、同じ反応を示すだろう。占いじゃあるまいし。 「いや、『占い』っていうのもあながち間違いじゃないんだよね……ただ、こいつはそれをより分かりやすい形にしたものっていうか。とにかく優紀君の力作だからね、的中率はなかなかのもんだよ」 にわかには信じがたい話だ。それに、気になることがもう1つ。 「八木先輩は、その……どっちなんですか? さっきから『君』だったり『ちゃん』だったり、気になるんですが」 若干天パ気味の長髪は目元までかかっており、小柄な体系だ。見た目からは判断がつかないし、呼び方すら定まっていないとは。 「今どきそんなことに縛られる必要はないと思うよぉ、すみれちゃん。結構気にする人だっているんだからさ」 「いや、まぁそうですけど」 もしや結構センシティブな話だったか、と危惧していたところに、福本先輩が戻ってくる。 「単純にわからないだけでしょう、『名誉会長』? そもそも八木さんは僕たちとほとんどコミュニケーションをとりませんからね。機械いじりや機材開発に関わる必要最低限以上の話をしたことはないですから」 「ネタバレがはやいなぁ。あ、すみれちゃんも驚かせてごめんね。あと、『名誉会長』は長いからやっぱり『会長』でいいや」 私と福本先輩は、おそらく同時に心の中で舌打ちをしたと思う。すると、福本先輩は私たちの前にグラスに入ったアイスコーヒーを置いてくれた。すると、湊先輩が予想外の拒否反応を示す。 「あ、ちょっと! あたしコーヒーはマックス甘くないとダメなんだけど!」 「大人しく飲んでください会長。ガムシロップとミルクは客人用です」 「そんなぁ~」 福本先輩のせめてもの抵抗だろう。ナイスですよ、先輩。 「ま、まぁ仕方ない。ところで‼ すみれちゃん、さっきどうやってこの機械で気象予報するのか気にしてたよね? せっかくだから見せてあげよう」 コーヒーからは逃げた。しかし、どうやらこの機械を使って見せてくれるらしい。 「それ、どうやって使うんですか?」 「まぁ見てなって、このファインダーで西の空を覗いてっと……あとはダイヤルをいい感じに回せば……うん」 湊先輩は部室の窓から例のカメラ状の機械越しに西の空を覗いていたが、すぐに戻ってきた。 「宣言しよう……この雨は、あと1分23秒後に止むよ!」 「はい?」 湊先輩はスマホで既に宣言通りのタイマーをセットしていた。いや、秒刻みの天気予報なんて聞いたこと無いが? ネットの天気予報だって、最低でも分刻みだ。 「いやいや、流石に何かの冗談ですか?」 「驚くかと思いますけど、実際結構当たるんですよ。これに関しては確かです」 福本先輩もそう言っている以上、冗談の線は消えるだろう。そうこうしているうちに、確かに雨脚が弱まってきた。 「え、嘘……⁉」 「言ったとおりでしょ? あと10秒だよ」 思わず窓際に駆け寄り、外を見渡す。すでにまばらになっていた雨粒は、さらにその数を減らしていく。 「あと3秒……2、1、ゼロ‼ ほら、止んだ」 「本当だ……」 タイマーのベルが鳴り響くと同時に、雨はぱったりと止んだ。近くの水たまりでは、最後の雨粒が作った波紋がだんだんと消えていく。 「これこそが既存の気象予報の不可能を可能にする、『アヴァンギャルド気象予報』の賜物ってわけ。どう、興味わいた?」 湊先輩は得意の絶頂だった。いま私の目の前で起こった未来予知にも近い何か……これが「アヴァンギャルド気象予報」なのか? 「『アヴァンギャルド気象予報』って……なんなんですか?」 半信半疑の私は、そう尋ねずにはいられなかった。 「うんうん、そう来なくっちゃね」 「はぁ……パフォーマンス能力はずば抜けてるんだから、最初からそうすればよかったんですよ、会長」 湊先輩の思惑通りなのかもしれないが、どうしても興味をそそられてしまう。抜群のプレゼン力だ。 「突然だけど、『バタフライ・エフェクト』って知ってる?」 「たしか……『風吹けば桶屋が儲かる』的な……?」 「当たらずとも遠からず、かな。簡単に言えば、どんなに小さな要因でも、時を経るにつれてその影響は増大していくっていう考え。これが、既存の気象予報にもある種の限界をもたらしてるのさ」 なんだか、湊先輩が真面目モードに入っている気がする。やるときはやる人らしい。 「んで、その結果計算による確率的な気象予報は先のことになるにつれて不正確性が増すのさ。まぁつまるところ、既存の気象予報には原理的に覆せない不得意があるってわけ」 「もしかして、『アヴァンギャルド気象予報』ならそれを克服できるってことですか?」 「鋭いねぇすみれちゃん、正にその通り‼ 『アヴァンギャルド気象予報』は、従来の気象予報のやり方では不可能だった『超短期予報』と『超長期予報』が大得意なのさ」 そこまで言われると原理まで気になるものだが。しかし、その話になると湊先輩はさっきまでの調子に戻ってしまった。 「それについては……う~ん、実はあたしもよくわかってないんだけどね。この気象予報を研究してたのはあたしじゃなくて友達だし」 「今までの話は全部その人の受け売りってことですか……誰なんです、その人は?」 よく知らないことをこそ得意げに語る人というのはいるものだが。すると、湊先輩は真面目とも、おちゃらけともつかない一段低いトーンでつぶやいた。 「それについては……まぁ、たぶんすみれちゃんにも関係のある話だから」 突然そんなことを言われた。もしかして私の知り合いなのか、その人は? しかし、そんな疑問を他所に湊先輩は話題を変えた。 「話は変わるけど、すみれちゃんはさ、2年前の今日、どんな事件があったか覚えてる?」 「えっと、たしか……『局所的異常気象群発現象』が発生した日、でしたかね?」 「その通り」 局所的異常気象群発現象。その名の通り、異常な気象現象が世界各地で同時多発的かつ局所的に発生した事件のことだ。南国で吹雪いたり、雪国で猛暑日になったり。干ばつ地帯に恵みの大雨が降ったと思えば、穀倉地帯が異常な乾燥で干上がって作物がダメになったなんてことも。しかし、どれも私には遠い世界の出来事だった。浪人生にとって、世界の実に9割を占めるのが予備校だ。その外で起こる出来事なんて気に掛ける余裕は無い。たとえそれが大事件でもだ。 「思い返す限り、私に関係のあることなんて1つもないですけど」 実際、その日は7月によくある猛暑日だったし、私のいた地域には何も起こらなかったはずだ。 「まぁまぁ、もう少し話を聞いてほしいなぁ。その日は、さっき言った私の友達……アヴァンギャルド気象予報の考案者でもある、浪川日毬が失踪した日なんだ」 大学生が失踪? 普通ならちょっとしたニュースになるだろうが、たしかに例の事件で大騒ぎしていたメディアはこんな些細なことを取り上げる余裕は無かっただろう。 「なんで失踪したんですか?」 「そこらへんはまだわからないんだよね。彼女が1人で研究旅行に出てたのは確かなんだけど……」 つまり、原因も詳細も不明の失踪事件ということらしい。けど、ますます私とは無縁な話になっていないか? 「今までの話がそれぞれ、どう関係してくるのかイマイチ見えてこないんですけど」 「つまり、あたしはアヴァンギャルド気象予報のメカニズムと、局所的異常気象群発現象の原因、それから日毬の失踪は関係してると思ってるの。それで、今日また1つ増えた手掛かりが君ってわけ」 「それが分からないんですよ。そもそも私、浪川日毬さんのことは全く知らないですし」 「だろうね。でも日毬は君のことを『知って』たんだよ。あいつからの最後の連絡……これを見て?」 そう言って彼女は、私にスマホのチャット画面を提示した。
第三走者 ペンネーム:Hano
【2021年 7月17日】 《やっぱり私の作ったメカニズムには欠陥がありました》 《まだ手がかりが足りない……》 《湊先輩にひとつお願いがあります》 《予測によると2年後の今日、この子が先輩の前に現れます、何らかの情報を持って。》 続いて若い女の写真……私だ。 《あとは任せましたよ》 《え、任せたって何を?》 《交通機関止まって帰れないとか?》 《心配するじゃん 連絡くらいしてよ!》 《今どこ?》 《大丈夫?》 《応答なし》 《応答なし》 《応答なし》 《応答なし》 《応答なし》 【2021年 7月18日】 《応答なし》 《応答なし》 《応答なし》 湊先輩が送信したメッセージには、2年間既読が付いていないようだった。 「どうして……私の写真……」 「さぁ、それは分からない。でもあの日から2年間、今日まで私はずっとすみれちゃんを待ってたってわけ。まぁ名前を知ったのはさっきなんだけどね〜」 「重っ」 「ちょっと、福本君なんてこと言うのさ。せっかく追加で2年留まってるっていうのに」 「 自分の怠惰を正当化しないでください。学部五回生終了時のご自身の取得単位数を忘れたんですか? 何も浪川先輩だって大学で出会うなんて言ってなかったですよね」 「うっ……鋭いやつめ」 「普通に分かります」 福本先輩は湊先輩を一蹴した後、俯いて写真に目を落としたままの私に気がついた。 「どうしたんですか?」 「この写真、今の私の写真なんです」 「はぁ、そうだけど……怖い顔してどうしたのさ」 湊先輩が怪訝そうな顔をして言う。 「どうして2年前に、『現在の私』の写真を撮れるんですか? 私は当時浪人生で髪も染めてなかったし、長かった。なのに、この写真の髪……」 オリーブベージュのセミロング。オリーブベージュは、浪人生の時なんとなくインスタを見ていてこれだ、と思った色で、大学生になったらやりたいと思い続けてやっとできた髪色だった。美容院で相談した時、髪質的にもブリーチでかなり傷みやすいと言われ、ロングは諦めて肩まで切ったのだ。 「2年前と今を比べて、私はそう大きく顔立ちは変わっていません。ですがこの写真は明らかに、当時の私のものではない。『現在の私』の姿なんです。2年前の私は黒髪ロングでした」 私は続ける。 「この写真を見ていると、なんだか予測されていたように思えるんです。私の意思どころか、私自身すらすら考慮していなかった事象が予め想定されていたみたい……」 「予め……」 はっと湊先輩が息を呑んだ。何かを考え付いたらしい。 「気象予報って未来予測のひとつに過ぎないんだよね」 「未来予測……? まるで、これからの世界の動きが予め決められているみたいな……そんなことって」 「そう、定まっているのさ。正確には、全てを理解している者の視点からすれば、だけどね。」 湊先輩は意気揚々と続ける。 「すみれちゃん、想像してみようか。ある時点において作用している全ての粒子の位置と運動量、そして物質やエネルギーに関する情報を完全に把握して、それらを解析する能力を持つ者がいたとする。その人物は、これらの情報を元に膨大な計算を行い、未来を含む宇宙の全運動を確定的に予測することができる。」 「それも浪川先輩の受け売りですか」 福本さんがジト目で湊さんに言う。 「あぁもう、今いいところだったのに! 話の腰を折らないでってば」 図星だったようだ。不服そうな顔をしながら湊先輩が続けようとしたその時ーー、 「ラプラスの悪魔」 それまで空気のようだった八木先輩がおもむろに口を開いた。 「フランスの数学者ピエール・シモン・ラプラスによって提唱された架空の存在。実際のところ、ラプラスの悪魔の予測能力には限界があった。量子力学における不確実性原理によって、位置や運動量などの物理量を同時に把握することは出来ないと示されたこと、そしてカオス理論によって、微小な誤差が未来の予測結果に大きな影響を与える可能性があると指摘されたこと。ちなみにこのカオス理論はローレンツが名付けたバタフライ・エフェクトの名で知られているわ。さっき湊先輩が説明していた通りね。これらの理論的な制約により、ラプラスの悪魔の予測は限定的であることが示された」 湊先輩は、まるで話を持っていかれまいとしているのか、八木先輩の後にすかさず続ける。 「えぇとつまり、未来予測を不可能にしていた理論的制約があったんだけれど、日毬は、その理論的制約を超越するシステムを作り上げようとしていたんだよ。そして見ての通り、それは大方成功した」 機械式ランダム観天望機Ver.03を小突いて湊先輩は言った。 「さっきもいった通り、日毬の作り上げた『アヴァンギャルド気象予報』のシステムでは、従来の予報では不可能だった『超短期予報』と『超長期予報』が可能になった。このメカニズムを知っているのは日毬だけだった。でも今すみれちゃんの話を聞いてピンと来ちゃったんだよ。このメカニズムは、大気中の水分子や大気の流れ、大気圧といったありとあらゆる情報をリアルタイムで把握して膨大な演算を行い、超短期〜超長期にわたる未来の予測を行うものである可能性をね」 福本さんがあっと気づいたように声を上げる。 「そうか、だからそのすみれさんの写真は、メカニズムの演算能力を応用して作成されたものである可能性が高い、と」 「その通り。さっすが、うちの部員はみんな優秀だな〜」 湊先輩は満足げにうなずいて続ける。 「だけど、その超優秀な日毬のメカニズムにも欠陥があった。その欠陥が表面化したのは、2021年7月17日」 「それって……」 「そう、みんなご存知、局所的異常気象群発現象の発生した日だね」 湊先輩が私に頷きながら続ける。 「日毬の考えたメカニズムは、当時の異常気象を予測できなかったんだ。そして彼女は私たちの前から姿を消した……」 重い沈黙が流れた。それを破ったのは湊先輩だった。 「やっぱりすみれちゃんは超だいじな手がかりだったんだ!」 そういって私の手をとり強く握る。 「え、はい?」 「すみれちゃんがやってきたから、日毬の作り出したメカニズムについて有力な推察を得られたんだよ」 「あぁ、まぁ、そうかもしれませんが」 「すみれちゃんは消えた彼女の行方を知りたくない? この謎解き明かしたくない?」 そう詰め寄って湊先輩は私に入部届を押し付けてきた。卑怯だ。ここで断ったらすごく薄情な人間だと思われてしまうし、会ったことのない日毬さんが私のことを知っていたこともひっかかっている。こんなのもう……。 「入部します」 私は押し付けられた入部届を受け取り、言い切った。もう引き返せない。 「そうこなくちゃ」 湊先輩は満足げに微笑んだ。
第四走者 ペンネーム:氷崎 光
「では改めて、ようこそアヴァンギャルド気象予報部へ!」 目の前でクラッカーがぽん、と爆ぜた。 クラッカーを持っているのはもちろん湊先輩だ。相変わらずの不敵な笑みをその顔に湛えている。 その両脇に佇んでいるのは福本先輩と八木先輩だ。八木先輩はぼんやりとした表情でこっちを、福本先輩は何とも言えない顔で空になったクラッカーを見つめている。 ……全員、何故か一言も発さない。奇妙な沈黙がこの部屋を満たしていた。 「よ、よろしくお願いします」 私は耐え切れなくなって取り敢えずお辞儀をした。 私の苦し紛れの挨拶に真っ先に反応してくれたのは、やはり福本先輩だった。 「よろしくお願いします、菫さん」 福本先輩はそう言うと、すぐに応接ゾーンの床に散らばったクラッカーの残骸に目を移した。 「会長はこれ片づけておいてくださいね」 「えぇー⁉ あたし今からすみれちゃんに説明とか案内とかしようと思ってたのにぃ」 湊先輩は口を尖らせる。対して福本先輩はごもっともすぎる反論を口にした。 「自分で出した残骸なんですから、自分で片づけて下さいよ」 「だって折角の新入部員だよ。派手に歓迎したいじゃん! それとも何さ、福本君は新入部員を歓迎しようって気がないわけ?」 「論点をずらさないで下さい。僕が言っているのは——」 二人の会話はいつの間にか押し問答になりつつある。 私は困ってしまって、思わず八木先輩に視線を送った。八木先輩は私の視線に気づくと、ぱちぱちとまばらに拍手だけをしてガラクタの山へと歩いて行った。……歓迎してくれているのだろうか? 湊先輩と福本先輩はまだ言い合いを続けている。私は途方に暮れて立っていることしかできなかった。 果たして私はここで何をすれば良いのだろう。 私はアヴァンギャルド気象予報部に入部した。失踪したという浪川日毬さんの行方と、彼女の残した沢山の謎を解き明かすために。 特に、どうして浪川さんは私を手掛かりとして提示したのか。私はそれが知りたい。あれから私は自分の記憶を片っ端からさらって、浪川さんとの接点を探した。アルバムだとか、携帯の写真だとかを引っ張り出すのは中々に骨が折れたが、結局得られた情報は一つもなかった。 とすれば気になるのはどうして私が選ばれたのか、だ。 浪川さんとは赤の他人であるはずの私が、どうしてアヴァンギャルド気象予報部にとっての手掛かりになりえるのか。もし湊先輩が言っていたように、写真が現在の私をとらえていることが手掛かりなのであれば、私でなくても良かったはずだ。誰でも良かったはずなのだ。 浪川さんとの接点も、そして何らかの特別性もない私は、果たしてこの部活で何ができると言うのだろう。 「おーい、すみれちゃん?」 湊先輩の呼びかけで我に返った。いつのまにか福本先輩との言い合いは終わったらしい。その福本先輩はと言うと、粛々と床のゴミを拾っている。結局彼が折れることになってしまったみたいだった。強く生きて欲しい。 「それじゃあ、まずここの活動内容について説明しようと思いまあす」 応接ゾーンを片付けている福本先輩を置いて、湊先輩は私の肩を掴んでガラクタの山へと引きずり込んだ。 四方を埋め尽くす面妖な品々の中、辛うじて原型を留めている机の前に私たちは立っていた。ここがどうやら湊先輩のスペースらしく、彼女は遠慮なく机の上の品々を押しのけて、大きめの紙を一枚そこに広げる。 紙には沢山の数字が書かれていた。おそらく日付や時間などが書き込まれている。加えて何かの割合らしい数字がそれらに対応して書かれているようだった。 湊先輩は大きく息を吸うと、指を二本ピンと立てて言った。 「ここでやっている活動は大きく分けて二つ。予想はできると思うけど、まず一つ目は」 「前見た『アヴァンギャルド気象予報』、ですよね」 湊先輩の言葉に被せるように私は言った。これが活動内容でないなら酷い部活名詐欺といったところだ。 だが彼女は惜しいね~、とでも言うようにその指を横に振った。実にウザい仕草だ。 「その通り! でもね、超短期予報を行うことだけが『アヴァンギャルド気象予報』じゃあない」 そう言って先輩が指したのは先程広げた紙だ。 「こんな感じで、私たちはまず超長期予報を行います!」 先輩の言うことには、この紙に書かれた数字は全て一年ほど前に記録されたものらしい。日付、時間、そして空に占める雲の割合がきめ細かく記されているのだと言う。これらこそがアヴァンギャルド気象予報のキモの一つだよ、と湊先輩はまた胸を張った。 「そしてこれ!」 そう言って湊先輩が出してきたのは、先程の記録と同じような紙。というか、数字までそっくりそのまま同じもののように見える。私は思わず、 「同じじゃないですか?」 と口に出してしまった。 すると先輩はその言葉を待っていたんだよ、とでも言うように満足げに頷いた。やはりウザい。 「こっちはねぇ、我々が超短期予測で導き出した予報だよ」 と湊先輩は言った。とすると、前先輩がやったように秒単位で予測したアレの記録ということか。そんなことを思っていると、先輩はポケットの中から件の『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』を取り出して机の上に置いた。 それはそんな保管の仕方で良いものなのか……。 「これを使って毎日気象を予報して記録する」 湊先輩は手の中でそれを転がしている。 「そしてこれら二つの予測を比較するってのが、あたしたちの基本活動の一つってわけ」 「比較をして、その後はどうするんですか?」 やっていることはわかったが、それにはどんな意味があるのだろうか。 「知っての通り、あたしたちは日毬の作ったアヴァンギャルド気象予報のメカニズムを知らない。だからこれで誤差とかが生まれたりすれば、このメカニズムの解明になると思わない?」 「なるほど」 つまり、メカニズム解明のカギは、超短期予報と超長期予報との方法や精度の違いの中にある、と先輩たちは考えているということだ。 「ま、そもそも誤差が生まれるなら苦労しないんだよね~」 肩をすくめて湊先輩が言う。ふと二つの記録に目を移すと、彼女の言う通り全く同じ数字がそれぞれに刻まれているようだった。 「日毬のメカニズムに欠陥があったとはいえ、それが表面化したのはあの局所的異常気象群発現象の発生日だけ。基本的には優秀なんだ。優秀すぎるってぐらいさ。ともかく、ウチでの活動の第一歩がこの超短期予測の記録と、あらかじめ予測しておいた記録との擦り合わせだから、まずはそれをすみれちゃんにはやってもらおうかな」 そう言って先輩は私に『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』を手渡した。意外に重たい。 前に見たとんでもない精度の気象予報。あれを自分もできるようになるのかと思うと、ワクワクしてつい声が大きくなってしまう。 「わかりました!」 「良い返事だねぇ。はい、それじゃあその『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』を構えてぇ!」 「……とやれば、晴れて予測が完遂ってわけ。わかった?」 湊先輩が淡々と述べる。 正直に言うと全くわからなかった。専門的な話は当然分からない。馴染みのない単語が耳の穴を通過していくのを私は感じていた。そして肝心の『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』の操作については、湊先輩の説明があまりにも感覚的過ぎた。話の中の「アレ」や「そこらへん」の出てくる頻度がおかしかったし、動作の説明は大抵が「ひょい」で済まされる。これで分かれと言う方が無理だろう。果たしてこれで合っているのか、と自問自答しながらここまでやってきたが、当然自信はない。 嘘をついても仕方がないので私は正直にわからない旨を伝えた。 「すみません、何が何だか……」 「ふっ、ふふっ、すみれちゃん、目が回ってるよ。やっぱり君おもろいね! はははっ!」 「はぁ……」 腹を抱えて笑いを堪えている湊先輩を見ていると、ウザいを通り越して最早呆れすらしてしまう。 助けを求めようと福本先輩の方を見ると、先輩は既にゴミの片づけを終えて自分の席らしいところにいた。パソコンの画面を見て何やら作業をしているようだ。やがて私の声なき訴えに気づいた福本先輩は、しかし声をかけることはしない。代わりに彼の目が(耐えて下さい。必要になったら僕が教えますから)と言っているように見えた。分かりました、先輩。何とか耐えて見せますよ。 湊先輩はまだ笑いに呑まれている。笑いのツボが浅いのか、変なところにあってハマってしまったのか。少なくとも私にどうにかできる状態ではない。 私は取り敢えず手に持った『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』に視線を移した。湊先輩の指示に私が上手く従えているのならば、次の動作で最後のはずだ。それは私の手の中で鈍く光を放っている。レンズや何か磨かれた鉱石のようなものが、部室の蛍光灯を反射しているのだろう。とても高精度の予測を行うことのできるハイテクな代物には見えないが、私は一度これの活躍を真近で見ている。 「それにしても、こんな小さなもので細かい予測ができてしまうなんて」 そんな私の隣で、いつの間にか笑いの収まった湊先輩は得意げに言った。 「『猫の目に街』とも言うからねぇ。小さいものこそ内側に沢山のものを秘めているものなんだよ!」 「秘めさせたのは日毬さんと八木さんですから、貴方が胸を張る事じゃないですけどね」 横から福本先輩が口を挟んだ。湊先輩はあからさまにムッとした表情を見せたが、反論や不平は言わなかった。代わりに先輩は私の手に握られた『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』をひっつかみ、私の目にむりやり押し当てた。痛いところを突かれたみたいだ。 「あ、あとはここを覗いて見えた物を記録するだけだよぉ、すみれちゃん。簡単だね! ね‼」 誤魔化すように念を押す先輩を尻目に、私は目の前に見えているものに釘付けになっていた。肉眼で見ていたものと同じ空が、早送りのようにみるみる変わる。白みがかった空が、重苦しい鉛のような雲に覆われていく。すっかり覆われた途端、今度は視界が不自然に歪み始めた。目盛りを読めば、1.001.00と書いてある。 「ちょうどあと一分で雨が降るみたいですね」 「うんうん、今日はそろそろ降るって話だったねぇ」 隣で湊先輩は訳知り顔で相槌を打った。本当だろうか。何だか適当に言っているような気しかしない、この先輩は。 確かめるように私は振り返って福本先輩の方を見た。福本先輩は私の視線に気づくと、見ていたパソコンから顔を上げてどこかを見た。そして何故か怪訝な顔をした。 「いや、あと二分のはずです。長期の予測では今日は一六時ぴったりから雨が降るという話でしたから」 福本先輩の視線の先には、掛け時計があった。 「やっぱりその説明では分かるものも分からないですよ。ちゃんと教えてあげてください、会長」 湊先輩は心底嫌そうな顔をして言った。 「えぇ~? そんなに難しいこと言ったかな、あたし」 この人は自分の説明が分かりやすいと本気で思っているのだろうか? あれだけ感覚的な説明で完璧に使用法を理解するというのは至難の業というか、あれで理解できたらそれこそ天才だろう。あるいはこの先輩が天才なのだろうか。この受け売りの塊の変人が? まさか。 「いーい? すみれちゃん。これはこうやって使うんだよぉ」 よく見とくんだよ? と言って先輩は私の手から『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』をふんだくった。 「これをこうして、こうすれば……」 先輩はそうぶつぶつと言いながら『機械式ランダム観天望機Ver.03 Ver.03 』を手際よく操作していく。私はそれを横から眺めているだけだ。説明はさっきよりも圧倒的に少ない。きっとこの人に教えるということは無理なんだろうな、と私は心の中で呟いた。 ただ一回操作しただけに、私は先輩がどの動作をしているのかだけは何とか理解できていた。見たところ私の操作に誤りはなかったようだが、どこで一分の差が生まれてしまったのだろう。 「あれ?」 突然湊先輩は拍子抜けしたような声を上げた。ちょうど最後の操作をするところだ。どうしたんですか、と福本先輩が訊いたが、湊先輩は何も言わない。 返答は彼女より先に空から降ってきた。 突然、バケツをひっくり返したかのような激しい雨が窓を叩き始めたのだ。夕立だろうか。帰るまでには止んでほしいところだ。そんなことを思いながら、私はふと時計を見た。 長針は五九分を指していた。
第五走者
ざぁっという音が響き、雨粒を窓に打ち付けている。壁や窓まで物でびっしりのこの部室では、外界の雨音の一部が吸収され、妙に現実感のない空気が滞留している。私を含め、さっきまで会話していたメンバーは皆硬直していた。 「えっ?」 第一声を発したのは湊先輩。 「おかしいですよ、だって……」 福本先輩は状況に説明を加えようとするけれど、言葉に詰まって何度もメガネに触れる。 「時計がズレてたんじゃない?」 「僕のパソコンも腕時計も同じ時刻を表示してましたよ」 私もスマホを取り出して掛け時計と見比べた。もちろん全く同じだ。 「うーん……あっ、もしかして!」 ポンと手を打った湊先輩は機械を手に取り、細かいネジを触りはじめる。 「会長、何やってるんですか、壊れたら困りますよ」 「不具合があったならまず現状を調べないと」 慌てて止めようとしたが湊先輩の手は止まることがなく。 「ゼロ表示合わせるの忘れてたんじゃないかな、もうー、観測機器を扱うときのキホンだよ」 へらへらとした笑みを浮かべているわりには早口だ。 「それかすみれちゃん、覗くときにどっか触ってズレちゃった? 怒らないから言ってみな」 私は精一杯首を横に振る。細心の注意を払って取り扱っていたつもりだ。 「よしっ、こうして覗いたら基準の時刻からのズレが分かるんだけど、」 ところが先輩は首を傾げたまま固まってしまった。しばらくしてファインダーから目を離してから告げる。 「……基準時刻は目盛りぴったりだ」 私たちはその機械を机に置いて、遠巻きに眺めていた。ぱっと見たときも怪しい代物だと思ったが、今はいっそう気味悪く感じる。 機械式ランダム観天望機Ver.03 を作ってからの全ての予測データを確認しても、平常時に雨が降る・止む時刻にズレが生じたことはなかったという。全く誤差のない、完璧なデータが並んでいるというのが、もはや科学の域を超えていて、薄ら寒い思いがした。製作者である八木先輩の手前、口には出せなかったけれど。とにかく、目の前にこの機械があるのは事実なのだ。そして、その予測が外れたということも。 「アヴァンギャルド気象予報が機械で実現されたのはいつだったっけ?」 「構想は早くからあったみたいです。日毬さんが、予報の原理を独自に確立するのと同時平行で初号機の開発も進めていた、と聞いたことがあります」 「なら三年半前か~、あの頃は私も若かったな……」 しみじみとする湊先輩は微妙に突っ込みにくい。 「あんまり今と変わらないと思いますよ、僕は知りませんけど」福本先輩の小声は聞こえたかどうか。 「そういえば日毬、空きコマになったらここに来て、その辺の紙に色々書き殴って、頭抱えてたなぁ。学部生なのに学会行ったりもしてて、忙しかっただろうに」 浪川さんはとても優秀でタフな学生だったらしい。そんな人がいなくなったのだから、この部活にとっても、大学にとっても、痛手だったに違いない。同じ所に在籍していても、私なんかとは大違いの存在だ。 ふと浮かんだのは、机にかじりついて構想を練る後ろ姿、細かい部品を組み合わせて試行錯誤する手元。大きいスーツケースを引いて青々とした盛夏の並木道を歩く姿は、研究旅行の出発直後か。振り返って手を振った。直射日光が当たって顔はよく見えないが、笑顔を見せている気がした…… 「ん? すみれちゃんどうした?」 少しぼうっとしていたらしい。湊先輩が私の顔をじっと覗きこんでいた。 「あ、はい、大丈夫です」 「疲れちゃったかなー、今日は色々あったもんね!」 労うようにポンポンと肩を叩かれる。 「会長が振り回すからですよ。反省してください」 福本先輩が私を代弁してくれるおかげでダメージは少ない。 「それだけじゃないってばぁ。まあ今日はこの辺で解散かな! 続きはまた明日ってことで~」 「明日も活動があるんですか?」 「決まってるわけじゃないけど、部室に来れば毎日誰かしらいるよー、データは毎日取らなきゃいけないし」 「ここのところ作業が立て込んでいるのと、注文した材料が届くのを待っているので毎日います」 湯気の立つマグカップを片手に現れる八木先輩。何か続きを話すのかと思いきや、コーヒーを一口飲んで、また自分のスペースに戻ってしまった。 この先輩が色々知ってそうだけどな。訊ねたら教えてくれるだろうか。難易度は高そうだが。 「では……失礼します」 「お疲れさま!」 「お疲れ様です」 こうして、私の「アヴァンギャルド気象予報部」の部員としての一日目は終わった。 四限終わり、少しだけ迷ってから学生活動棟へ向かう。七月の日射しが、日傘を持たない私に容赦なく降り注ぐ。広大なキャンパスは大通りに分断されているから大移動の気分だ。信号待ちも面倒だし、地下道か何かを作ってほしい。 さっき受けていた授業は、「地球科学基礎概論」だった。テストもなく話を聞いていればいいし、自然科学系講義の中では楽だというので取っている。つまりは特別モチベーションを持って聞いているわけではない。 そのわりに今日の内容は面白かった。地震の周期性について、最近の研究を紹介する、というもので、やけに教授が生き生きしているな、と思ったら本人の専門分野らしい。その教授によると、地震というのは、地中の岩盤にたまったひずみを解消するときのエネルギーの放出だという。ひずみがどのようにたまってどれくらいのスパンで解消されるかが分かれば、地震予知に役立てられるという。 昨日あれだけ気象予報がらみの小難しい話を聞いたせいか、予知についての説明はすんなり頭に入ってきた。ここでも「カオス性」「不確定性」は障壁になっていて、未だ乗り越えられていないようだった。 これらを克服した理論を生み出した浪川さんの研究は、それこそ世界を揺るがすようなものだったかもしれない。怪しい組織に狙われたりしたんじゃないか、と非現実的なことを思っている間に部室の前まで来た。 ドアをそっと押し開ける。 てっきり、湊先輩の明るい声でもすると思ったが、部室はひっそりとしていた。ソファの昨日と同じ位置に座って奥を見やると、だぶだぶの白衣を着た後ろ姿が。ノートに何やら書き留めているところだ。 「あのっ、八木先輩、こんにちは」 邪魔しちゃいけないかな。でも一応声を掛ける。返事はないだろうな……と思っていたら、振り向いて私の方を見た。 「大空菫。で、合っているかな」 「はいっ」 フルネームを覚えてくれていたことに少し驚く。くせのある長い前髪の奥の表情は読み取りづらいけれど、話はできそうだった。 「お時間いいですか、訊きたいことがあって」 「ああ、二〇分位なら構わないよ」 八木先輩はうなずく仕草もなくあっさりとした口調でそれだけ言うと、マグカップとノートを持って向かいに座った。 棚に囲まれたこの部屋で唯一隠れていない窓から西日が差し込んでくる。超長期予報では、雨は降らないらしい。 ソファの間の机に置いてある菓子箱には昨日の「機械式ランダム観天望機Ver.03」が入っている。 「『Ver.03』ってことは、01と02もあったんですか?」 「自分は03の開発途中から携わったし日毬さんとは会っていないから、残された実験記録や構想ノートに頼るしかないけれど、どうやら01は試作機、02は本番のつもりだったようだ」 ただ、どちらも、本体や設計図などがこの部室には残っていないという。さらに八木先輩は、02は未完成だと推測している。 「部品に必要なある鉱物が手に入らなかった、と記されていた」 見せてもらった記録には、確かにその旨が書かれている。日付は、二〇二一年六月一五日。失踪の約一ヶ月前だ。 「その一週間後には03の製作が始まったらしい、自分が入部したときごく初めの工程が終わった状態で、設計図の下描きがあったから引き継いで作った」 何でもないことのように言う。それって結構すごいことじゃありません……? 「あと、この機械の名前に『ランダム』って入ってるのがちょっと不思議なんですよね。絶対当たる予報を叩き出すモノに不確定のニュアンスが入ってくるというか」 言ってみたが、こちらはあまり興味がなさそうだった。 「そういうのは福本さんが知ってると思う。……そろそろ注文した荷物が下に届くころだ」 そう言って空のマグカップを置いて部屋を出ていく。 すると入れ違いで福本先輩が入ってきた。 「張り切ってますね」 クールな顔でそう言われてちょっとうろたえる。湊先輩ほどの図々しさは私にはないはずだった。 「機械の名前ですか? 確かに少しヘンですね、由来……どうでしたかね」 首をひねりながらも考えてくれている。 「浪川さんが何か言ってたりとかは」 「そうだ、今ふと思い出したんですが、僕が一回生のときの六月頃、部活終わりにその日来てた人たちと晩ご飯に行ったんです。そのとき、話が盛り上がったんですけど、それが天気予報の新しい解釈みたいなもので」 お酒の入った浪川さんが、「長期予報は計画書」と言い出して、難しい話になりそうで先輩は口を挟まなかったらしいが、心のどこかに引っかかっていたという。 「そちらも意味深ですね」 そのとき、ドアが全開になって、私たちは顔を見合わせた。 「……会長」 「こんにちはっ」 「おっす、みんな揃ってるか~?」 満面の笑みを浮かべる湊先輩の後ろに、誰かがおとなしく立っているようだ。 「まさか、また誰か新入部員を無理矢理引っ張ってきたんじゃ……」 心なしか青い顔で福本先輩がつぶやく。 「無理矢理とは人聞きの悪いなぁ。 そうじゃなくて、この子は浪川葵衣ちゃん。日毬の妹だよ!」 福本先輩と私はもう一度顔を見合わせた。
第六走者 ペンネーム:谷川 慶
「はじめまして。浪川葵衣です。姉がお世話になっております」 湊先輩の横に立ち、日毬さんの妹だというその女性はぺこりとお辞儀をした。妹と言われて浮かぶイメージとは対称的に、落ち着いた雰囲気で、服装も髪形もナチュラルで大人しい。それでいて爽やかで、小さなチャームの付いたネックレスがさりげなくおしゃれだ。 「文学部二回生で、湊さんには普段から仲良くしていただいてます」 葵衣さんはそう言ってにっこりと微笑んだ。うちの学生だったのか……と私は内心驚く。二回生とは思えないほど挨拶も姿勢も慇懃としていて、その余裕のある立ち居振る舞いはむしろ都会の社会人のようだった。私は女子として、人間としての地力の差を思い知らされた気がして、最近調子に乗って着けているペンダントなんかをつい服の中に隠してしまった。けれどすぐに、その隣で口角を吊り上げて満面の笑みを浮かべている多留生を見て安心する。 「そう! 今日はそろそろみんなに紹介しようかなーと思って葵衣ちゃんを連れてきましたー! 私は何度かお話ししたりご飯行ったりしてるんだけど、こうやって部の活動に呼んだことはなかったからねぇ」 湊先輩は相変わらずの張り切った声で「ほらほらみんな、葵衣ちゃんに自己紹介して自己紹介」と手を叩く。 「あ、はじめまして。お名前は何度か会長から聞いています。この部の部長をしてます、経済学部三回の福本です。よろしくお願いします」 「八木です。物理工二回です。よろしく」 先輩二人が挨拶をする。八木先輩はいつの間にか部室に戻ってきていて、自席でパソコンを弄っていた。 「あ……総人一回生の大空菫です。昨日、入部しました。よろしくお願いします」 私も続いて自己紹介をして頭を下げる。葵衣さんは一人挨拶する度に「お願いします」ときちんと返していた。 「ほら、この子がすみれちゃん。どう葵衣ちゃん、ホントでしょ」 「本当ですね。確かにあの写真の人です」 「……あの写真?」 「あ、ごめんなさい。お姉ちゃんが最後に送ってきたメッセージにあった写真のことです。あれは大空さんの写真だったんですね。お会いできて嬉しいです」 なるほど、葵衣さんもあの写真を手がかりに、私のことを探していたのか。知らないところで自分が有名人になっていたみたいで何だかむず痒い。 「会長とは、付き合いは長いんですか」 福本先輩が葵衣さんに訊ねる。 「いや、まぁ一年ほどになりますね」 「それがね、去年私が取ってた講義で偶然見つけたんだよ! 浪川って名字の子がいるのを! それが葵衣ちゃんだった……という訳。これが運命って思ったね。それで声をかけたら日毬の妹だって分かって、それから色々話聞いたりしてたんだよ」 「去年ってことは、会長六回生ですよね……? 一回生と同じ授業取ってたんですか?」 「そこはいいでしょそこはぁ!」 湊先輩と福本先輩がいつもの調子でたわむれるのを、私と葵衣さんは半ば呆れるように眺めた。 「で、葵衣ちゃん。何か新しく分かったこととか、気づいたことはない? 些細なことでもさ!」 「そうです、浪川先輩の妹さんということは、失踪について何か知ってらっしゃるのでは……」 期待を寄せて訊ねた福本先輩だったが、葵衣さんの反応は渋いものだった。 「それが……以前湊さんにお話しした通り、私は何も分からなくて……すみません。私はお姉ちゃんがやっていたような理系分野についてはさっぱりですし」 「二年前のあの日は、お姉さんの様子はどうだったんですか」 「それも、分かりません。当時、私はまだ高校三年生だったので実家に住んでいて、京都で下宿していたお姉ちゃんとは会えていなかったんです。あの日も、私たち家族には何のメッセージもなくて……」 葵衣さんは落ち着いた口調でそう話した。「そうですか……すみません」と福本先輩が口ごもる。湊先輩も、顎に手を当てて珍しく真剣な表情だ。二年前に高三ってことは現役生だから、年齢は私の一つ下か……などと考えて、勝手に精神的ダメージを食らっていたのは私だけのようだった。浪人期の地獄の記憶があれこれとリフレインしそうになるのを、グッと押さえ込んだ。 「そっかぁ……やっぱりすみれちゃんを見ても、特に思い出すことはない? 昔どこかで会ったことがあるとかさ。何でも!」 「いえ……すみません。すみれさんとは初対面だと思います。写真では知っていましたが……」 「んーじゃあすみれちゃんは⁉ 葵衣ちゃんを見て何か思い出したり」 私は黙って首を振る。葵衣さんとは間違いなく初対面だと思う。すると葵衣さんが静かに語り始めた。 「ただ……私から皆さんに言っておきたいことがあって。お姉ちゃんは昔から雲を観たり、雨に濡れたり、空のことが大好きでした。どんな天気の時でも空を見上げて観察していて。それだけに、気象災害が起きる度にとても悔しそうな表情をしていました。本当に、お空のことが好きなんだなって、思います。だから、大学に入ってこの部活で活動を始めてから、お姉ちゃんは本当に楽しそうだったんです。だから……皆さん、本当にありがとうございます」 葵衣さんは深々と頭を下げた。「そ、そんな……」福本先輩が、こちらこそ、といった雰囲気でお辞儀を返す。その目の前に無遠慮に割って入った人物が一人。 「……じゃあ。やる? お姉ちゃんのお手伝いを、ね!」 湊先輩はそう言って、何かを葵衣さんにずいと手渡した。お菓子の空き箱に入った、機械式ランダム観天望機Ver.03だ。葵衣さんはその不可思議なガジェットをまじまじと見つめている。 「これが、お姉ちゃんが作ってたもの……」 「そ。お姉ちゃんとそこにいる優紀ちゃんの叡智の結晶だよぉ。あ、あと私の。ほらほら、ここ覗いてー。それで、ここをひょいっとしてぇ――」 湊先輩は手取り足取り、操作の仕方を教えていく。相変わらず擬音が多かったが、私の時よりは幾分か分かりやすくなっている気がする。 「はい、じゃあそのまま空を観る! さぁどうなった! 何て出た?」 大袈裟な動きで、窓ごしの晴れ空を指さす湊先輩。葵衣さんは驚いた様子の息を漏らしながら、何も言わずファインダーを見続けていた。そうだろう、私も昨日は自分の眼を疑ったものだ。そういえば、昨日の一分の誤差は何だったのだろうか。 「まぁそうだろうねー。ごめんごめん、実は今日は快晴の予報なんだよ、だから変化するはずが――」 「雨……天気雨。それと、00:3000:30?」 葵衣さんは確かな声でそう告げた。しばらくの間があって、その意味を脳が理解し、私たちは顔を見合せた。 「か、貸して!」 昨日は余裕そうに茶化してきた先輩も流石におかしいと思ったのか、慌てて観天望機をひったくると、そのファインダーを覗き込む。そして静かに、「ほんとだ」と呟いた。 「福本君、今日の超長期予報は晴れだったよね⁉ 」 「ちょっと待ってください……は、はい! 快晴で、雨は降らないはずです」 ま、まさか。そう思った時、外から聞こえてきたのは――サーッという軽い雨音。晴れ空に、雨だけが降っていた。 「二日連続で……。どうなってるんだ?」 福本先輩が頭を抱える。確かにそうだ。流石にこれは何かおかしい気がする。今まで常識外れなほどの精度で長期予報を当ててきた観天望機が、二回も連続で外すなんて。一分の誤差や急な通り雨なんて、一般的に考えれば些細な誤予報だ。誤りにすらならないだろう。でも、私は昨日今日で見てきた。寸分違わぬ予報をしてみせた観天望機と、そしてこれまでの正確な予報の記録を。今までこんなこと一度も……なかった? いや、あった。一度だけ。 「八木先輩」 「分かっている。自分も今その可能性を考えていた」 素早く、しかし冷静に過去の記録ノートを繰る八木先輩。すぐに「ここだ」と言って、私たちの前に広げて見せる。 「二年前、局所的異常気象群発現象が発生した日の記録だ。使用されたのは機械式ランダム観天望機Ver.02。記録者は失踪直前の日毬さんだ。こちらが超長期、こちらが超短期予報の記録。まずこの日、午前中に二回、超長期にはない降水が確認されている。すぐに止んだようだが、記録が取られ始めてから初めて発生した誤りだ。日毬さんはすぐに観測スパンを短くし、何度も観測を繰り返している。その後、予報外の落雷が複数回あり、午後には再び激しい雨天となる。これも、超長期では晴れの予報だったが、外れている。その後の短期記録は途絶えているが……知っての通りだ。ここ京都を含め、世界各地で異常気象が群発し、大きな被害をもたらした。そして同時に、浪川日毬さんは失踪した」 八木先輩は落ち着いたトーンで一気に話し終えた。声も表情も落ち着いていたが、その話しぶりにはどこか余裕の無さが浮かんでいた。 「え、えーっとぉ。優紀くん、つ、つまるところそれは……どうゆう」 湊先輩がひどく調子外れな反応をする。 「つまり……これが前兆だとすると、『局所的異常気象群発現象』がまた起きるかもしれない。ってことですよね、八木先輩」 私はこわごわと言った。葵衣さんが鋭く息を吸って強張った。部室に緊張が走り、全員が八木先輩の方を見やる。八木先輩はゆっくりと頷き、「可能性はある」と静かに告げた。 二年前のあの日にも、予報の誤差や誤りがあった。大地震の前震のような予兆が。そして今、またその予兆らしきものが観測されている。異常気象の再来、その予兆かもしれない異変。外では陽の光とともに細い雨が降り続けている。 「止めなきゃ……あんな災害がまた起きたら、とんでもないことになるよ! 日毬も、きっとこれを止めようとしてたんだ」 「でも会長、止めるったって、どうすればいいんですか! 僕たちにできるのは予測することだけ。それさえも完璧じゃないのに……」 湊先輩は「何かあるはずだ」と過去の記録ノートを食い入るように見返し始めた。私も何かできることを、という思いに駆られて、先輩に続いて前かがみにノートを覗き込む。その瞬間、垂れ下がってきたペンダントに意図せず手が当たり、隠していたペンダントが服の外へ飛び出した。空中に吊り下がる私のペンダント。 「あっ!」 小さく声を上げたのは葵衣さんだった。 「そのペンダント、お姉ちゃんも持ってました」 え……? 私はとっさに首から下がるペンダントと葵衣さんを見比べた。少し青みがかった透明な石にシンプルな金具の装飾がなされたペンダント。親指の爪くらいの大きさの石が透き通っている。葵衣さんは素早く私の側に来て石をじっくり調べ始めた。 「確かにそうです。少しこれの方が大きいですが、お姉ちゃんが気に入っていたものと同じです。色も、装飾も」 「葵衣ちゃん見せて! ……うん、確かに、昔日毬がこんなのを時々着けていた気がする」 「えぇっ」 すると、湊先輩は何かに思い至ったように唐突に顔を上げ、「貸して!」と私からペンダントをふんだくった。慣れた手つきで観天望機を操作し、ファインダーの前にペンダントの石をかざして覗く。 「……やっぱり!」 何度か石のフィルターを付け外しして確かめた後、先輩は言った。空を見上げて。 「今から止むよ、雨」 全員があっけにとられて黙り込む。その直後、さっきから部室を覆っていたサーッという雨音が、ふいと消えてなくなった。 再び眩しいほどの陽の光が窓から差し込む。湊先輩はゆっくりとこちらに向き直り、そしてその顔がみるみる興奮の色に満ちていく。先輩は机をダンと強打し、堰を切って話し出した。 「今見た⁉ 実はこの石をかざす前は雨予報だったのに、石越しに見た途端、晴れ予報に変わったの! 短期予報が! 変わったんだよ! それとこれ見て!」 先輩は構想ノートを開き、とあるページを見せつける。 「Ver.02について日毬がこう書いてる。『部品に必要なある鉱物が手に入らなかった』ってね! 葵衣ちゃん、お姉ちゃんはこのペンダントをどこで手に入れたか知ってる?」 「た、確か、高校生の時にフリーマーケットか何かで買ったって言ってました」 「やっぱり! 私の推理はこう。日毬はある時、この石が重要な力を持っていることに気づいた。それでVer.02に組み込もうとしたけれど、日毬の持っているものだけでは小さくて効果が十分に出なかった。しかし、もっと集めようにも、この石がどこで手に入るのかが分からない。そして――――」 「二年前、あの現象が起きた……ということですか」 言葉を引き継いだのは福本先輩だ。 「そう。きっと日毬は、あの異常気象を止めるために、この石の在り処を探しに行ったんだ! そう。そうだよ! きっと! ね⁉」 石に不思議な力ってそんな馬鹿な……そう思うけれど、心のどこかではきっとそうだという確信があった。私はもう十分、不思議な力を体験している。「私冴えてるぅ!」湊先輩の熱が、部室に、私に、そしてみんなに伝搬していた。 「大空さん、そのペンダントは、どこで手に入れたんですか?」 「えっと、これは亡くなったおばあちゃんがくれたものなんです。形見……というわけではないんですが」 大学生になって髪をオリーブベージュに染めた時、この空色のペンダントはこの髪色に合いそうだと思って、そこから時々着けるようになったのだ。 「いつ! どこでもらったの⁉ この石は…………⁉ 」 湊先輩が鼻息荒く迫ってくる。 「こ、高校生の時です! この石は確か、おばあちゃんの家がある地域で昔から採れるものだって……」 「それだよそれっ! やっぱりすみれちゃんは重要な情報を持ってたんだよぉ!!」 先輩が私の手を強く握って上下に振り回す。 「さあみんな行くよ‼ すみれちゃん、そのおばあちゃんの家まで案内して! 時間に余裕はない。二年前と同じ災害は起こさせない! それに…………私の親友を見つけ出すためにもね‼」 力強い言葉だった。湊先輩は私の手を無理やり引っ張って行き、部室のドアを開け放つ。 「ちょ、先輩今からですか⁉ 遠いですよ? だ、大学はどうするんですか……!」 先輩は振り返り、私を見てニカッと笑った。 「大丈夫! 単位は空から降ってくるから」
第七走者
止められなかった。そもそも、あんなふうに、一度火が付いた湊先輩が止まるはずがなかった。結局、あの後、おばあちゃんの家に行く組と、大学に残る組の二手に分かれた。福本先輩と八木先輩は、大学に残り、機械式ランダム観天望機Ver.03に何かあれば、連絡をくれるらしい。ついでに、八木先輩は、あの石とのつながりも調べてくれるらしく、ペンダントは取られてしまっている。 というわけで、私と、湊先輩と、葵衣さんの三人が大学をとんでここにいる。このあたりに、私の知り合いは一人もいない。おじいちゃんは私が幼稚園に通っていた時に亡くなった。だから、おばあちゃんが亡くなって以来、ここに来たことはなかった。この場所の風景も、ぼんやりとしか覚えていない。確かに、周りをこんなに山に囲まれていた記憶はある。逆に、それくらいしか覚えていない。 まあ、私としても、別にここに帰ってくるのが嫌なわけではない。むしろ、懐かしく、うれしい方だ。それに、これが世界を守ることにつながるのかもしれないのなら、なおさら。今が五限の講義中でさえなければ最高だったのだが。 「ちょっと、すみれちゃん! なにぼさっとしてんの! 大学と世界のどっちが大切?」 「あ、はい」 はい、とは言ったものの、本当に大丈夫だろうか。そういえば、先輩が単位は降ってくるとかなんとか言っていた気がする。でも、寄りにもよってあなたがそれを言いますか。七回生という最強の肩書きを持っているあなたが。まったく、言葉に説得力が感じられないんですが。それとも、今、私が見ているあなたは、七月の暑さが生みだした幻か何かなのでしょうか。万が一でも、親に迷惑をかけて、二浪して入った大学で、留年なんかしようものなら、どうしてくれるんですかね。 いけない、思考が変な方向に逸れた。とりあえず、早く石を見つけた方がいいのは間違いないだろう。世界のためにも、葵衣さんのためにも。あと、自分の単位のためにも。 「ここがおばあちゃんの家なんですけど、もう、何も残ってないですね……」 おばあちゃんが亡くなって、おばあちゃんの住んでいた家が取り壊されることは聞かされていた。けど、ここまで進んでいるとは思ってもみなかった。 「うーん……おばあちゃんの家から手がかりとか見つけられるかなって思ってたんだけど…… これじゃ厳しいか」 「すみません……」 「家にあった荷物ってどうなったかわかる?」 「必要だと思われてるもの以外は捨てられててもおかしくないと思います……」 その必要なものの中に、あの石の手がかりは……ないだろうな。常識的に考えて、ただの綺麗な石に、何かの力があるとは思わないのが普通だろうし。 「こうなったら、とにかく探すしかないんじゃないでしょうか。三人で探せば、見つかるかもしれませんし」 葵衣さんが口を開く。 「じゃあ、手分けして探そうか。葵衣ちゃんは、あっちをばばっと探してー、で、すみれちゃんは、そっちをぱぱっと。私は、こっちね」 そっちってどこのことだろうか。あと、この人は本当に擬声語が多いな。 「時間が時間だから、暗くなる前にここまで戻ってきて。それで結果の報告をし合うこと。オーケー?」 「はい」 「はい」 私と葵衣さんがほとんど同時に返事をする。 とはいえ、大学では、教授次第では五限ですら終わっているような時間だ。いくら、今が七月とはいえ、あと二時間もすれば日が暮れてしまうだろう。それまでに石が見つかるだろうか。 「じゃあ、いくよ! よーい、どーん!」 いつの間に競争になったのか。 こうして石探しは始まった。 結論から言うと、見つからなかった。三人のうちの誰も。 あの後、案の定二時間もたたないうちに、日が暮れた。その間、私は、先輩の言う「そっち」を探していた。だが、あんな石はどこにも見つからなかった。湊先輩も、葵衣さんも同じだったらしい。 「おかしーな……暗すぎて見逃したのかな…… それとも、実はここにはもうないとか」 湊先輩がため息交じりに言ったのが聞こえた。 「すみれさん、具体的な場所とかは言っていませんでしたか?どの辺とか、どの山とか、それだけでもかなり変わってくると思うんですが」 葵衣さんが言う。 「そうそう、何か覚えてない?」 湊先輩も続けてくる。 「そうはいっても…… あのペンダントをもらったのも、昔のことだし……」 「なんでもいいからあー。すみれちゃんにかかってるんだよおー。こうしてるうちにも、また予測にずれが生じてるかもしれないんだよー?」 「湊さん。あんまり、プレッシャーはかけない方がいいかと…… それに予想にずれがあったら、福本さんたちの方から電話してくれるはずですから」 「でもさー」 助け舟を出してくれた。 だが、実際何か情報がないことには、話が進まないのも事実だ。何かあるだろうか。おばあちゃんに言われたこと…… そもそも、なんで私はこの石を見たことがないんだろう。ここで過ごした時間は確かに少ないとはいえ、私は活発な子供だった。なら、外で遊びまわっていたときに、一度くらい見たことくらいあってもいいはずなのに…… 「あっ」 何故かはわからない。急に思い出した。 昔、おばあちゃんに言われたこと。 この近くに鬼が出る場所がある。そこには近づいてはいけない。鬼に取って食べられてしまうから。 幼かった私は、言われたことを信じ、近づかないようにしていた。そして、ここを離れてからは、そんなことも忘れ、学校や、人間関係で多忙な日々を過ごし、そもそも、山になんて行かなくなっていた。 「何か思い出した⁉」 「何かありました⁉」 湊先輩と葵衣さんが同時に叫んだ。 「あの、昔、おばあちゃんに近づくなって言われてた場所があって、もしかしたら、そこにあるかもしれないです」 「どこどこ⁉ 案内して! ほら早く、夜になる前に!」 「はっ、はい!」 先輩に急き立てられ、歩き出そうとした時だった。着信音がした。